都紀の姫
第40話
静かに降る雨の中、庭の小紫の花が雫に打たれて震え、かたつむりは片目を縮めた。
「ほぅ・・・。」
香絵は小さく吐息する。
このところ、身の周りに何となく寂しさを感じる。
ほとんどの事は自分で出来るし、奥の間付きの姫達もよく気が付く。
『でもほら、こんな時に栄様がいると・・・・・・。』
「香絵様、お茶にしませんか?美味しいお菓子をお持ちしたんですよ。」
『そう、こんな感じで・・・・・・!』「え?」
振り返ると栄がお茶とお菓子を盆に載せ、香絵のいる縁まで持ってきていた。
実物?幻を見るほど栄が恋しいのだろうか?香絵は目をこすってみる。
「栄様?本物?・・・・・・戻ってきたの?」
「はい。またお側に置いてください。」
半信半疑で尋ねる香絵に、満面の笑顔で栄が答えた。
本当に栄なのだと確信すると、喜びが湧いてくる。頭で考えるより早く、香絵は栄に抱きついていた。
道長が栄に乱暴した
栄が道長を想っていたことも、その時、初めて知った。自分はどんなに栄を傷付けてしまったのかと心が痛んだ。
それなのに、またここへ帰ってきてくれた。香絵は本当に嬉しかった。
「わたくし考えました。今まで一つの事をこんなに考えたのは初めてです。それで道長様のことはきっぱり諦めました。というより、わたくしの求めるべきものはそこではないと気付いたのです。わたくし、もっと大切なものを見付けたのです!」
栄はそこで、ぎゅっと香絵を抱き返した。
「香絵様です♡」
「え?」
香絵が栄を抱き締めた腕の力を抜いても、栄は放そうとしない。
「良い殿方に輿入れして、一生守っていただいて、寄り掛かって生きてゆきましょう。などという甘い考えは、きっぱりさっぱり捨て去りました。わたくしは香絵様のお側を離れず、一生を香絵様と共に生きてゆくことに決めました!」
香絵はぐっと栄の肩を押して、体を引き剥がした。そして、栄の頭から爪先までを眺める。
「それで、この姿なの?」
栄は奥の間を出る時の香絵と同じ、
「はい。どこへでもお供いたします。剣も習います。わたくしが香絵様をお護りいたします!」
「栄様。気持ちはとても嬉しいんだけど・・・。」
何とか断ろうと思ったところへ、少し離れてこちらを窺っていた姫達が群がってきた。
「栄様、素敵ですわ♡」
「本当。わたくしも一度考えたことはございますけれど、とてもそこまでの勇気はありませんでした。」
「凛々しゅうございますわ♪」
姫達が誉め称える中で、「そう?」と栄は照れ笑いしている。
香絵は断り難くなってしまって、小さく息を吐く。仕方なく少し様子を見ることにした。
栄が香絵の所へ戻ってから、数日が過ぎた。
宣言したとおり、栄は四六時中ぴったり香絵について離れない。
あの後すぐに道長に相談すると「本人がそう言うのなら、飽きるまでさせてみればいい。」と意外な答えが返ってきた。
道長は『姫は邸内でおとなしく過ごすべきだ』という古い考えの持ち主だとばかり考えていたので、栄の男装も、香絵に追随することも反対すると、香絵は思っていたのだ。
しかし栄は、道長がそう答えることを想定していたようで、「やっぱりね。」とひとり頷いていた。
それで栄は飽きる様子もなく、金魚のふんよろしく、香絵について歩いているのだ。
最初は心配で、やめさせるチャンスを探していた香絵も、今では楽しんでいた。
『道長様もこんな気持ちでわたしを見ていたのかしら。』
などと考えながら。
今日、香絵は五日に一度の休みの日。
雨季の長雨もいったん中休みで、頭上には青い空が広がっている。
朝、道長達との剣の稽古を終えた後、奥庭へ戻って栄の剣の稽古に付き合った。
「ぃや―――!たあ―――!」
元気のいい栄の声が奥庭に響く。しかし、格好はいかにも情けない。
香絵の使う木刀よりもっと軽い、子ども用の物を借りてきたのだが、栄にはそれも重過ぎるらしい。振り上げれば後ろにふらふら、振り下ろせば前におっとっと。栄のほうが木刀に振り回され、息があがっている。
「栄様。やっぱり刀は無理じゃないかしら。」
香絵が見かねて申し訳なさそうに言った。
「そう、で、しょうか。」
栄が肩で息をしながら、言葉も切れ切れに答える。
「ええ。それ以上軽い刀では厚みがなくて、役に立たないと思うし・・・。」
「そう、ですね。でも、わたくし、強く、ならなければ。香絵様を、お護り、するの、ですから!」
「それなら何も刀でなくてもいいんじゃない?短刀でも、懐剣でも。」
栄が大きく深呼吸する。何度か繰り返して、やっと息が戻ってきた。
「分かりました。わたくし、懐剣ならば自信があります。」
懐から自分の懐剣を取り出す。
「懐剣は女の護身の剣です。もし意に
逆手に持ち、構える。
「お相手お願いします!」
香絵と栄とのやり取りを廊下から見ていた姫達が、一人、また一人、庭へ降りてくる。
「懐剣ならばわたくしも使えます。」
「わたくしだって!」
「わたくしは・・・剣など使ったことはありません。」
尻ごみする姫には他の姫が「わたくしがお教えしましょう。」と手を取り、全員が庭でそれぞれの剣を振り始めた。
静は一人廊下に座し、その様子を眺め、目を細める。
香絵は知らないが、中にはもともと護衛任務のために隠密から引き抜いた者もいて、いつの間にか自然と彼女等が姫達を指南する役を担っている。
昔、この国を建てたのは女性だ。
静はまだ子どもだったが、彼女を尊敬していた。
新しく建てた国といっても、実際は賀川の属国。干渉が煩く、何をするにもままならない。
女性蔑視は女性国王の国であっても改められることは無く、彼女は自身のことよりも、
彼女の息子である道長も知らないことだ。
しかしここへきて、当事者である姫達の意識が変化している。彼女達は自らの意思で動き始めた。
近い将来、男達の駒とされることを良しとしない姫も現れるかも知れない。
『香絵様は、本当に変わったお方。でもその影響力は何と素晴らしいのでしょう。』
天真爛漫とはまさしく香絵のことだろう。微笑ましくあり、羨ましくもある。
『彼女のように前へ前へと進んで行けたなら、わたくしもいつかあの方の許へ辿り着けるかしら・・・。』
庭の紫陽花の前にここにいるはずのない殿方の立ち姿が浮かんで、静は慌てて目を閉じた。
それは無理だ。きっともう会うことも叶わない。どうして思い出してしまったのだろう。辛くなるだけなのに。
静は呼び起こしてしまった想い人の姿を、もう一度胸の奥底にしまい込む。
瞼を開くと立ち上がり、静は日々の務めに戻った。
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