第39話

 香絵の部屋へ裕篤を案内しながら、道長は『香絵はうまく逃げただろうか。』と考えていた。

『理由は、そうだな。病を苦に飛び出してしまったとか・・・乱心したことにするとか?』

 考えがはっきりとまとまらないうちに、部屋の前まで来てしまった。


 香絵にもしもの時には道長にも覚悟がある。裕篤を斬り捨ててでも・・・。

南無三なむさん。』

 思い切って、でもそっと、襖を開ける。やっと一人が覗けるほどに細く。

「う・・・。香絵、その顔は・・・・・・。」

 香絵が例の――霊の?――あの顔でにっこりと道長に笑いかける。

 道長はまず驚き、そして、笑いが込み上げてきた。道長の背中が細かく震える。それは思わぬ効果を生んだ。

『道長が泣いている・・・?』

 裕篤にはそう見えたのだ。

「何事かあったのか?」

 道長に阻まれ、内の見えない裕篤が焦(じ)れて訊くので、道長は一度襖を閉め、父に向き直り、訊ね返した。

「ち、父上、っ本当に、ぅお会いに、なりますか?」

 必死に笑いをこらえているため、瞳に涙が潤んで口元は引きつり、うまく言葉を話せない。ここで吹き出してはいけないと、道長は一旦口を引き結ぶ。

 そして続ける。

「こ、このままお帰りになったほうが・・・ぅっ・・・。」

「よいと言っておるだろう!退け!」

 裕篤はもう我慢出来ないと、道長を押し退け、自ら襖を開けた。

 そしてそこに見たのは、やつれてみにくい発疹の、香絵と側仕えの姫達。部屋には病魔避けの香までめている。


 裕篤はたじろいだ。すかさず道長が声を掛ける。

「こうなっては、もう手遅れ。ぅ、うぅ、せめて父上からも、優しい言葉など、掛けてやってくださいぃ。」

 道長の声は震えている。これは笑いを堪えているせいではなく、何とか笑いを治めた道長による迫真の演技。道長もこの場を楽しむことにした。

「う・・・うむ。」

 裕篤は驚きでその場を動けない。

 そこへ香絵。

「お目にかかれて嬉しゅうございます。さ、どうぞ内へ。」

 膝で立って歩み寄り、か細く震える声を掛け、手を震わせながら裕篤の手を取ろうとする。その手にも紅い発疹が出て、膿み、ただれていた。

「ひっ・・・。」

 裕篤は触れる前に手を引き、後退さった。

「い、いや。一目会いたいと参ったが、その様子ではかなり苦しそうだ。私はこのまま退くゆえ、休まれるがよろしかろう。」

 そう言うと、くるっと踵を返し、さっさと一人で行ってしまった。


 香絵の部屋では皆一斉に、声を殺し、笑い転げた。

 だがその見た目から、まるで悶え苦しんでいるようで、道長は無意識に足を一歩引いた。



『私から奥を隠すための口実と思ったが、本当だったとは。かわいそうに。あれでは万一救かっても、顔中にあばたが残るであろう。そうだ、あの病が広がると、我が国も危ないぞ。急ぎ帰って手を打たねば!』

 裕篤はその日のうちに、しとしと降り続く雨の中、賀川へ帰ってしまった。


 美平には別の用件もあったのだが、そんな暇も与えられず、裕篤に引きずられながら朱雀御殿を後にした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る