第38話

 香絵は奥の部屋で、心を落ち着けるため、側仕えの姫達と香を焚いていた。

 今日一日賑やかなことは禁止されているし、決して部屋を出ないと道長に約束している。香絵も事情は十分理解しているが、ここのところ雨続きで室内ばかりだ。暇を潰すことにも飽きてしまった。鬱憤も溜まってくる。

 何か面白いことはないものか。


 そこへ静が慌てた様子で入ってくる。いや、実際かなり慌てている。平常心を失うくらいに。

「香絵様、逃げます。お急ぎください!」

「何があったの?」

 香絵はいつもと違う静の様子に驚いて訊ねた。

「あの男が来ます。政次様が知らせてきました。早く逃げなければ。」

 静の顔は青ざめている。

「わたくしはあの男の恐ろしさを知っています。あの眼は思い出しただけで鳥膚とりはだが立つ・・・。父は、あの男から母を所望され、献上することを拒み殺されました。母は無理やり犯されました。幼いわたくしの目の前で!」

 冷静さをすっかり失くし、震える手で香絵の男姿の衣を用意する。そんな静の手を香絵が押さえた。

「待って、静様。落ち着いて。わたしが逃げたら、道長様はどうなるの?」

 静は手を止める。胸の前で震える両手を結び、「ですが・・・・・・。」と呟く。


 一人の姫が進み出た。監査纏め役、藤済の娘、操。

「わたくしが代わります。香絵様の代わりに、」

「それは出来ません!」

 操が言い終わらぬうちに、香絵が断る。

 代役が影となる。その案に、香絵の中で栄が浮かぶ。軽い気持ちで頼んだ替え玉。道長にバレて、栄を傷つけて、栄が去っていった。最悪だ。全部自分のせいだと、思い出す度に自己嫌悪に陥る。

 今回バレればそれどころではない。静の父を殺すような男なら、その場で手討ちにされるかも知れない。そして、バレなかったとしても、良い結果を生むとは思えない。

「駄目よ!無理やり賀川へ連れて行かれるかも知れないのよ?!」

 絶対にダメ。そんなことさせられない。

「香絵様のためなら、わたくしはそれでも、」「!そうだ。」

 香絵は操の口に人差し指を当て、片目を瞬いた。

「わたしにいい考えがあるわ。墨を取ってもらえる?」


 文机に一番近い所にいた梓が墨を取って香絵に渡すと、香絵は鏡に向かい紅を取り出した。

 顔に何やら描いている。

 紅など引いては逆効果なのにと、姫達は心配した。のだが・・・・・・。

「どうかしら?」

「ひっ・・・・・・!!」

 振り返った顔は、くすませた地肌の色、頬に影を作り痩せこけて、今にも死にそう・・・いや、すでに生きていない死者のようだ。おまけに顔中紅い発疹だらけ。すぐ下にクマを飼っている目から生気を抜いて、疲れた表情を作れば、造形が整っている分、更におどろおどろしい。


 始めは驚いた姫達も、これならいけるかもと思った。

「それなら、手にも描きましょう。」

 操が紅を手に取り、香絵の手に発疹を作る。

「ではわたくしも。流行り病なれば、わたくしにもうつりました♪」

 梓が自分の紅を取り出し、鏡を覗くと、

「わたくしもっ♪」

「あら、わたくしにもさせてください♪」

 と皆が紅と鏡を取り出す。

「駄目よ。皆同じではかえって怪しまれます!」

「そうですね。ではわたくしはやめましょう。」

「お手伝い致しましょうか?」

「そちらの手はわたくしに描かせてください♪」

「見てください。いかがでしょう?」

「まあ、操様。お上手ですわ♡」

「本当。この辺りなんて、まるで腐っている様ですもの。」

「きゃー。気持ち悪い♪♪」

 香絵の部屋からは暫らくの間、きゃっきゃと、楽し気な声が聞こえた。


 事の成り行きを呆然と見ていた静は、姫達のはしゃぐ姿に落ち着きを取り戻していった。

 やっと笑顔を見せると、

「皆様、お静かに!道長様からのお触れが出ているのですよ。」

 声を押さえつつも姫達をたしなめる余裕が帰ってきた。

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