第36話
道長は香絵の頭を撫でながら、しばらく父を招くための段取りを考えていた。
すると道長の上で、香絵が物語に引き込まれ、くすくすと笑いを洩らした。つられた道長の顔にも笑みが浮かぶ。
「香絵は今、
「はい。とっても。」
くすくすと物語に笑いながら答えた。
「そうか。」
香絵から天井へと移した瞳は悲し気な色に変わり、道長は他の
「母も、幸福を感じたことがあったのだろうか」
ふと道長の口から零れた言葉に、香絵は物語の文字を追うのをやめた。
これまで道長の母の話を聞いたのは一度きり。道長は母の為に医学を学んだと、静に聞いたそれだけだった。
「今宵は母の話をしようか。」
香絵は開いていたページにしおりを挟み、物語を閉じて傍らへ置く。そして香絵の帯の上にある道長の手にそっと自分の手を重ねた。
道長が語り始める。
母は昔の話をしない人だった。
訊かれると辛そうな顔を・・・いや、感情を
だから私も訊かなかった。
私が覚えているのは遠賀へ来る少し前くらいからだ。
あの頃、母は正式な奥方として父の屋敷で暮らしていたらしいが、まだ私は幼かったからな。そのへんのことはよく分からない。
ただ母は花が好きで、その頃、私にもよく摘んできてくれたことは覚えている。花の名も教えてくれたが私は全く興味がなくて、「何度教えても覚えぬ。」と母はよくこぼしていたよ。
母が苦労して咲かせた異国の花を薙ぎ散らして、叱られたこともあったな。
・・・ここまでは道長の声も明るかったが、ここからトーンが落ちる・・・。
同じ屋敷にいたはずだが、私はそこで父に会った記憶がない。父というものが存在することすら知らなかったように思う。
・・・そこで一度言葉を切ったが、すぐに話を続けた・・・。
この国を建てたのは母だ。
父は他の女を奥方に迎えるため、母に小さな国を与え、屋敷から出した。
国といっても、自分の国の端にある土地を少し削って与えただけだが、それがその後の母の生き甲斐となった。
『遠賀』の名を付けたのも母だ。賀川から遠く離れたいと願ったのか、賀川からは遠く淋しいと思ったのか・・・。
ともかく母はそれから、この国を一人前に育てるため、そして私を国王とし、この国を託すため、心血を注いだ。
きっと並の苦労ではなかっただろうな。その頃の私はそんな事、考えもしなかったが・・・・・・。
私が成人すると母はすぐに女王の座を退き、私を国王に立てた。
そして間もなく病に倒れた。
二冬を床の上で過ごし、花の季節を迎えずに逝かれた。
・・・静の言っていたのは、この頃の話だろう。
道長は淡々と語り、香絵は黙って聞く。二人とも
母が賀川を出た
父には何人もの愛人がいたし、母のことなど気にも留めなかった。
私が会った記憶がないということは、父は何年も、母の部屋へ渡らなかったということだ。
そんな中で私を産み、育て、賀川を出てからも、遠賀の国と私のためだけに生き、それで母は幸福だったのだろうか。
・・・母に想いを馳せているのか。香絵の返事を待っているのか。道長は天井を見つめたまま、そこで黙ってしまった・・・。
香絵は道長に何か言葉を掛けたいと思ったが、何を言えばいいのか・・・。
香絵には道長の母の心を計ることなど出来ない。きっと道長の母は幸福だった、と口で言うのは簡単だが、それで道長の心が安らげるとは思えなかった。
ただ道長に重ねた手に少しだけ力を込めた。
道長の手が香絵の手の上へ移動して、ぎゅっと握り返してきた。
「香絵、父を遠賀へ招く。いいか、父が来ている間は気を抜くな。決して父に姿を見せるな。遠賀の男も、賀川の男も、気に入れば姫を抱く。男がその気になれば、姫に
いつものように『道長様ったら過保護なんだから。』と聞き流してしまえない。
自分の父親をこんな風に話さなければならない道長の辛い気持ちが、強く握られた手から伝わってくる。
それが香絵の心に重たく残った。
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