第30話
静は栄を慰め、二人で廊下に座して、戸の陰から香絵と道長を見ていた。
そして、騒ぎを聞いて廊下へ出てきた姫達。
今の一幕を彼女たちに観られていたと思うと、香絵の頬は朱く染まった。
香絵には聞こえない小さな声で、静が栄に尋ねた。
「今でもお二人の間に割り込めると思いますか?」
「いいえ・・・。」
栄は迷いもなく頭を振る。
人を愛する気持ちを軽く見ていた栄には、今の二人の姿は衝撃的だった。
栄にとって愛の対象は地位の高さ。
道長に一目惚れしたのだって、道長の身分を知っていたから。勿論、道長は容姿に於いても魅力的だ。最初に魅かれたのはそこだったかも知れない。でもそれを上回るほど、栄の価値観は身分に囚われていた。
相手が国の最高の位を持っていなければ、果たしてここまで執着したかどうか。
まず高い位の奥方の座を手に入れて、そこから生まれる情とか思いやりといったものが、愛となる。父と母のように。
栄はそんな形の愛しか知らなかったし、誰も教えてくれなかった。
なのに香絵は違う。身分など見ていない。道長は国王だというのに、この国で最高の位を持っているのに、意に沿わないことは従わない。自分の心に愛を感じなければ、決して流されない。体を許したりしない。
姫が殿方の情事に嫉妬するなんて、それを表に出すなんて、決してしてはいけない行為だと栄はこれまで思っていた。そんなことで傷付くこと自体が、馬鹿げていると。
でも、相手の『身分』ではなくて『その人』を愛しているなら、傷付いて当然。
嫉妬して、逃げて、泣いて。香絵は自分の気持ちに何て正直なんだろう。羨ましい。そして、憧れる。
道長にしたって、遠賀の殿方なら奥方以外の姫を抱くなど当たり前。道長には何の非もない。そのはずなのに、香絵を傷付けたことを気遣っていた。
政略結婚で輿入れ――香絵もそうだと栄が勝手に思っているのだが――の場合、姫に否はない。それでも道長はこれまで香絵に伽を無理強いしたりしなかった。あんなに想っているのに、香絵の心を大切にして。
栄は今まで知らなかった。こんな愛があるなんて。
男は奪い、女は従う。そうじゃない愛し方があるなんて。
なんて素晴らしい。なんて美しい。なんて心を魅かれる。
栄は両手を衝いて、香絵に頭を下げた。
「申し訳ございませんでした。」
香絵は身を低くして、栄の両手を取った。
「そんな。謝るのはわたしの方です。わたしがあなたへ影を頼んだばっかりにあんな事・・・・・・。」
「いいえ、わたくしが悪かったのです。わたくしが道長様を怒らせてしまって・・・。」
香絵が首を振る。
「何があっても、どんなにその
香絵は本当に申し訳ないと深く頭を下げた。
『道長様は栄様のような女性がお好みだったのね。ううん、栄様個人がお好きなの?強引な手段を取ってしまうほど?結婚相手として栄様を選んだ?』
香絵はそんなことを思ってチクリと胸を痛ませる。
勢いでつい告白してしまったけれど、自分が道長にふさわしくないことはわかっている。道長も困っていたのだろう、曖昧な反応だった。
香絵は記憶喪失の居候だ。なのに道長は娘のように愛しいと言ってくれる。それならば当分はその気持ちに甘えたい。道長の恋が成就するまで。せめてそれまで、娘の立場から、道長の恋を応援するつもりだ。
栄にも静にもすぐに分かった。道長が栄に乱暴な事をした理由を、香絵は誤解している。道長はただ単に男の欲望から嫌がる栄を襲ったと、香絵は思っているのだ。
静と栄の二人は顔を見合わせたが、何と説明していいのか・・・。
彼女等の側に立つ道長はやっと、絶好の機会を逃してしまったことに気がついた。
香絵が道長の想いを解っていないのは知っている。今の会話からしても間違いない。香絵から「道長様が好き」と告白されたその時こそ、道長にとってまたとない絶好の機会だったというのに。道長は風に舞う花びらとともに喜びに舞い上がり、真実の想いを伝える機会を逸してしまった。
『ああ!・・・しまったぁぁ・・・・・・。』
後悔しても時は戻らない。
この後、栄は「今後を考えたいのでお暇をください。」と願い出た。
道長はあっさり了承したが、道長の恋路を邪魔してしまったのかも?と心配した香絵は、必死に栄を引き留めようと説得を重ねた。
しかし結局香絵も栄の決断を覆すことは出来ず、栄は父親の家へ帰っていった。
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