第29話
『どうしよう。遅くなっちゃった。』
香絵は吹雪を急がせる。
鏡山の猟師の家に、道長が処方した辰の薬を、どうしても自分で届けたくて屋敷を抜け出したが、帰り道で迷ってしまったのだ。
もう陽は山の向こうへ落ちた。東の空から満月に近い月が顔を出し、足早に夜が迫る。
『道長様はもうお仕事を終えてしまったかしら。』
朱雀御殿の門をくぐり、庭を通って、奥庭の木戸の所まで吹雪を乗り入れる。庭は藤の花が満開で、強い風に紫と白の花びらがくるくると舞っていた。
香絵は吹雪の背から飛び降りると、彼女を振り返る。
「一人で馬舎へ帰れる?」
頭を振って香絵に応え、吹雪は馬舎の方へ歩き出した。
奥の間は静かだ。大丈夫、何の騒ぎも起きていない。香絵は急いで自室へ戻り、部屋へ入る。
『よかった、誰もいない。今のうちに。』
「道長様、お止めください。」
『・・・?』
奥の居室から戸惑いのような困惑のような静の声が聞こえた。
『?・・・何?誰か泣いてる?え?もしかして、バレちゃった?』
襖の端ぎりぎりまで移動してゆっくり頭を傾げると、見えたそこには着衣を乱した栄が横向きで
三人が気配を感じて香絵の方を向き、そのままの格好で硬まる。
香絵と道長の目が合う。
香絵は急いで襖を閉めた。
『今のは、何?』
「香絵!」
道長は慌てて立ち上がり、香絵によって閉じられた襖へ駆け寄る。
道長の足音を聞いた香絵は、逃げる様に駆け出していた。
胸の中が気持ち悪い。とにかくここにはいられない。道長の顔を見たくない。どうすればいいのかわからない。自分の顔を見せたくない。きっと酷い顔をしている。どこか遠くへ。ここから遠くへ。
道長が襖を開けると、部屋から廊下へ出る香絵の後ろ姿が見えた。
香絵は帰ってきた道を戻り、草履も履かずに奥庭へ駆け下りる。
「待て、香絵!」
待てない。待てない。胸の中から気持ち悪い何かが湧いてくる。哀しいの?苦しいの?理由もわからず、涙が込み上げる。感情が溢れる。でもそれが何ものなのかわからない。ここを離れないと。遠くへ。遠くへ。
追う道長は、奥庭から裏庭へ抜ける木戸の手前で香絵を捕まえた。
陽は暮れ、辺りはすっかり暗くなっている。風は一層強さを増し、藤の蔓を纏ったイチイの枝が声を上げて
「嫌、放して!」
香絵は体を
「駄目だ。放さない。」
「嫌です。嫌!」
何とかして振り解こうとするが、道長の力に敵うはずもない。
それでも逃げ出そうとする香絵に、道長が最後の手段を取る。
「大人しく戻らねば栄を斬る。私を欺いたからな。それに気付かなかった静もだ。」
ここから逃げ出したい。今見た事を忘れたい。とにかく遠くへ。と思っていた香絵の気持ちが、この言葉で一気に冷めた。
もがくのを止め、首を反らせて、涙の乾かない目で道長の顔を見上げる。
「卑怯です。道長様。」
眉を寄せ悲し気な香絵の瞳を、道長は悪びれる様子もなく見詰め返した。
「卑怯でもいい。何と思われてもかまわない。もう、逃がさない。」
道長の腕に力がこもる。背を丸め、自分の顔を香絵の肩に伏せた。
香絵が
「頼む。行かないでくれ。」
「道長様?」
道長の絞り出すような辛そうな声に、香絵は驚いた。
「私は香絵がいないと駄目だ。心配で、不安で、何も冷静に考えることが出来ない。頼むから、私の側を離れないでくれ。」
いつの間にか月は雲に隠れ、真っ暗になった
「わたし、今、分かりました。わたしは道長様が好きです。あの場を見てこんなに取り乱すほど、わたしは道長様を好きだって、今、気付きました。」
「香絵・・・。」
道長はゆるゆると顔をあげる。
初めて聞いた、香絵の心。告白。どんなに望んでいたことか。まさか本当に聞けると思ってなかった。だけどいつか欲しいと切望していた。
道長の胸に痺れるような感覚がじわじわと広がり、香絵への愛しさで溢れた。
道長が想いを込めて力いっぱい香絵を抱き締める・・・前に、香絵はするりとその腕から抜け出し、照れ隠しの笑顔で道長を顧みる。
「戻ります。だから栄様も静様も斬らないでくださいね。」
微笑む香絵の顔が、今まで以上に可愛くて、眩しくて。道長はこくんと頷く。頭の中は、香絵に「道長様が好き」と言われた感動が渦を巻き、他の事はお留守状態。前を歩く香絵に手を引かれ、ただ呆然とついて行く。足は地に触れているのかさえあやしい。
「でも道長様が姫君を襲うところなど、二度と見たくありません。次からは他の場所でしてください。」
冗談とも本気ともつかない香絵の言葉で、道長は現実に引き戻された。急いで反応する。
「とんでもない!もう二度と襲わぬ!約束する!!」
いや、それでは襲っていたことを認めているようなものだが、まあ確かに、乱暴に襲ってはいたのだが、いささか呆けている道長は間違いに気付かない。
香絵が少しだけ眉を下げて微笑んだ。
「はい。そうしてくださると、香絵はとても幸せです。」
香絵は道長の手を放し、少し前へ走ると、今度は明るい笑顔でくるりと向き直った。両手を後ろで結び、道長の顔を見ながら後ろ向きに歩く。
「あ、非常時は触れても許してあげます。」
「香絵、そなた信じてないな。」
「いいえ。わたしは道長様を信じています。」
くすり、と笑って踵を返し、さっき飛び出してしまった屋敷の廊下まで小走りで戻った。そして、立ち止まった。
香絵の目の前には姫が二人。
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