第25話
香絵は帰りの馬の上、手綱を握る道長の両腕の間で考えていた。
ずっと心に引っ掛かって、すっきりしない。
きっとあの場の方便だったのだ。素性の知れない女だと言うわけにもいかずに使った方便。そう考えれば気に掛けることなどない些細なことだ。
そう、ほんの些細なことなのだけど、細くて小さな棘のように先端が少しだけ心に刺さって、微かに表面を撫でただけでちくちくと
気になって仕方ない。頭を離れてくれない、あの言葉。
政次は猟師に言った。香絵のことを「王妃」と。
香絵の部屋はたぶん道長の居住区分内にあるのだろう。だから誤解されているのだろうか。道長の妻になったのだと。
朱雀御殿で香絵は道長の家族のような待遇を受けているし、まるで奥方様のような扱いではある、らしい。記憶のない香絵にはそのあたりの基準もよくわからないが。
国王の奥方ならば勿論『王妃』で間違いはない。
だが、事実はそうではないことを香絵は知っている。
道長は優しくて親切な人だ。だから記憶を失くした迷子で、養父母まで亡くした香絵を不憫に思って、面倒をみてくれている。
香絵のことを大事だと言ってくれる。大切に接してくれる。
だがそれは、いつか忠勝が言ったように、拾ってしまった責任感とか父性愛とかの類だ。香絵から厳しく男を遠ざけようとするのも、父親ならば当たり前のこと。
男が女に、夫が妻に抱くような恋情を、道長から感じたことはない。
香絵は道長の妻ではない。では何かと問われれば、居候というのが正しいだろうか。
居候は妻ではない。道長の情を勘違いしてはいけない。いつまでも親切に甘えていてはいけない。早く何か出来ることを見つけて、自立しなければいけない。
なのに周囲の人が妻だと思っている?政次も?誤解している?政次だけだろうか?他にも誤解している人がいる?
とにかくこのまま放置しておくわけにはいかないだろう。早く誤解を解かないと、道長に迷惑がかかるかも知れない。
道長がそんな風に誤解されていることを知ったら、どう思うだろう。誤解を避けるために改めて距離を取られるのは嫌だ。それは淋しい。
道長の存在を有り難いと思う。頼りにしている。一人立ちの手段だってまだ何も見つけていないのに、今放り出されたら途方に暮れてしまう。
「痛むのか?」
ずっと黙り込んでいる香絵が思わず零した溜め息を聞いて、道長が声を掛けた。
無意識に右手が左腕の傷を押さえていたらしい。気持ちを沈ませる考えに囚われていれば思い出さない痛みも、意識がそこへ戻ると、づきん、づきん、と脈を打つ。
でもこれくらいのことで――とはあくまでも香絵の見解で兼良あたりに言わせれば『一大事』なのだろうが――道長や供の二人に心配させては申し訳ないと、香絵は首を振る。
「いえ。」
「我慢するな。痛いならそう言いなさい。」
「山の上では我慢しろと言いました。」
「ん?そうだったか?」
道長は、ははは、と楽し気に笑って、香絵の頭を自分の方へ引き寄せた。引き締まった胸にこつんと頭を
『こうしていると心地好すぎて、何も考えたくなくなる。』
目を閉じ、道長の腕の中で馬に揺られていた香絵は、『!』突然閃いた。
「道長様。わたしにも馬をください。」
一瞬香絵に目をやり、前を見て沈黙した後、道長は小さく息を吐く。
「いつかそう言うと思った。駄目だと言っても無駄だろう。私には香絵の頼みを断るだけの意志の強さはないと分かったからな。屋敷へ戻ったら一番大人しい馬を選んでやる。ただし、屋敷内だけだ。勝手に表へ出かけたりするなよ。」
「はい。――そうします。」
香絵はにこにこと答えた。
返答の中に小さな声で「なるべく」と入っていたが、道長には聞こえなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます