第21話

 笑って笑って、空になった息を大きく吸い込んだ時、香絵は道長の背中の向こうに何かが光ったのを見た。

 森の中に何か・・・?

『!!』

 その正体を認めると、香絵の体は素早く反応した。

「伏せて!」

 香絵に飛びつかれ、道長が後ろに倒れる。

 ひゅん、と一陣の風が道長の頭上を過ぎた。そして、それは香絵の左腕を掠める。

「っ!」

 香絵が一瞬だけ顔をしかめた。

「香絵!」

 地に背中が着くと、道長は上にいる香絵を抱いてそのまま体を反転し、香絵を覆い隠すように伏せた。

 その間に政次は短剣を投げ、兼良は森へと走る。

 兼良は木々の中に消え、すぐに一人の男を連れて戻ってきた。



 男は左手で右の肩を押さえ、そこから血を流している。政次の短剣が刺さったまま。

「この者一人だけのようです。他に人影は在りません。」

「うん。」

 兼良の報告に、道長は自身の体を起こし、香絵の体も引っ張り起こす。

「念のため、辺りを視てきてくれ。」

「はっ。」

 香絵の背に付いた土汚れを払いながら言う道長の命に、政次が動こうとした時、

「他には誰もいねえ。俺だけだ。」

 男が顔を横に背けたまま言って、ぎりっ、と奥歯を噛みしめる。

 政次は一度足を止めたが、確認のため森へ入っていった。

 兼良が後ろに回した男の腕を捻り上げる。

「お前は何者だ!?なぜ道長様を狙った。道長様が誰なのか、知っての事か。」

 男の顔が苦痛に歪む。しかし、問いへの答えはない。



 男を兼良に任せ、道長は香絵の左腕を取った。香絵は少し痛そうな顔をしたが、声も上げずにそれを隠そうとする。

 道長が少し乱暴に左袖を破り取ると、腕に一本赤い筋が走り、そこから血が幾筋も流れている。懐から手拭いを取り出し縦半分に裂いて、流れる血を拭き取っていった。

 自分の方が痛そうに唇を噛んで香絵の腕を拭く道長に、香絵は微笑んでみせる。

「大丈夫。掠っただけですから。」

「馬鹿者!せっかくの美しい肌に傷など付けて。」

 血を綺麗に拭き取ると、次が流れる前にと、手早く残り半分の手拭いで傷を縛った。

「きつくないか?」

「はい。」

 香絵は止血のため手拭いの上から傷口を押さえた。その右手の甲には土がついて小さく血が滲んでいる。

 香絵が道長に飛びついて倒した時、道長の頭部を庇うことを忘れなかったからだ。道長はとっさの時でも受け身が取れる程度には鍛錬している。さっきも後頭部を強打しないよう、頭は浮かせたはずだ。そうでなかったら、香絵の右手にはもっと酷い擦過傷ができていただろう。

 痛いだろうに香絵はそんな顔を見せず、口に出さない。代わりに道長の顔がいっそう痛みに歪む。手を伸ばして飲料水を入れてきた水筒を荷物から取り出し、香絵の右手を取って丁寧に洗った。香絵の傷を見ると、道長の心臓がきゅうぅと疼いた。

「何と無謀な事をするのだ!」

 怒ったような道長の口ぶりに、香絵は『何故?』と頭を傾げて道長の顔を見詰める。

 道長は人差し指で香絵の腕の傷を指し、胸の方へゆっくり動かすと、つん、と突いた。

「少しずれていたら、香絵は死んでいるぞ。」

 道長が自分のことを心配しているのだと知ると、香絵はにっこり笑んで、

「道長様が死んでしまうよりはましです。」

「っ。」

 その答えに道長は胸が詰まり、思わず香絵を抱き締めた。

「香絵っ。香絵は私の命の恩人だ。今香絵が救けてくれなければ、私は二度とこうしてそなたを抱くことも出来なかった。命など惜しくはないが、香絵と離れるのは耐えられん。」


 道長の腕の中で香絵は思う。

『少しは道長様の役に立てた?』

 それならば嬉しい。でもまだ足りない。怪我するかも知れない危険からたまたま道長を救えたとしても、そんなの今だけだ。一度きりの幸運が、これからずっとを保証してくれるはずがない。もっと何か、出来るようにならないと。

 そう思うと、香絵の心は絞られるような痛みを感じる。道長の胸の温もりが、痛い。


「道長様・・・放してください。痛い・・・。」

「駄目だ。我慢しろ。」

 道長は香絵を抱き締め、現在いま、確かに香絵が腕の中にいることを確認していた。

『大丈夫だ。香絵は、ここにいる。』

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