第20話

 いつものように供の二人を後に従え、前に香絵を乗せ、抜けるような青空の下、道長が馬を走らせる。道長の薬が効いたのか、香絵の頭痛はすっかり治まっていた。

 政次と兼良は普段と変わらない様子で馬を駆っている。二人も二日酔いだと言っていたが、もう平気なようだ。彼等も道長の薬を飲んだのかも知れない。それとも、仕事だから我慢して平気な顔をしている?だったらすごい。勤め人の鏡だ。


 なんて香絵が考えていると、街並みを離れ、道は山道となる。

「この道はあの時の・・・。」

 あの夜と同じ道だと香絵は気付いた。あまり思い出したくないあの夜。悲しい出来事。

 そんな香絵の気持ちを気遣ったのか、道長は道を外した。少し廻り道をして、木々に覆われた山道を登ってゆく。



 程無く山頂と思われる小さな野原へ出た。

 この山自体はあまり高くないが、下に鈴木の街並みが一望出来る。今日は五月晴れの爽やかな遠乗り日和で、鈴木の町をぐるりと囲む若葉繁る山々が映える。


 道長は先に馬から降り、香絵を抱え降ろす。政次、兼良もひらりと降り立ち、二日酔いの片鱗も見えない。

 道長が『お疲れ様』と馬の首筋をぽんぽんと叩き手綱を放すと、馬は少し退がって足元の草をみ始めた。

 風はなく、朝の柔らかな陽光が差す中、4人は街を見下ろす。いらかの波がきらきらと朝日を反射して眩しい。

「良い眺めだろう?」

「はい。美しい街ですね。道長様のお屋敷はどれですか?」

「あれだ。あの朱色の屋根。」

 道長の指す方を見ると、街の中心付近に堀に囲まれた朱色の屋根の大きな建物が並ぶ一画がある。

「朱色の屋根の中のどのあたりですか?」

「朱色の屋根は全て道長様のお屋敷です。」

 斜め後ろから添えられた政次の言葉に、香絵は驚いた。目標を間違えているのかと、街中を探してみるが、朱色の屋根はその一画しかない。

「え?あれ全部?・・・あんなに大きいの?」


 内に暮らしていて、広い屋敷だとは思っていた。が、どうやら香絵が知っている場所は、道長の屋敷の全てではなかったようだ。朱い屋根の屋敷はどう見ても、他の家々とは比べものにならないほど大きい。堀の周りに隣接する、地味な色をした屋根の家々もずいぶん大きそうに見えるが、朱い屋根の塊は、何倍?何十倍?

 それより何より、他とは造り自体がまったく異なる。

 周囲の堀は幅が広く、はっきり長方形と分かる敷地。その三分の二ほどを、朱色の屋根の建物が占める。

 堀に架かる橋は一つ。それが表通りと敷地内を結び、たくさんの人々が行き交うのが見える。入ってすぐの表庭にも、小さな黒い点が動いている。


「大きくて当たり前です。国王のお屋敷ですから。『朱雀御殿』と呼ばれています。」

『え?何?』

 胸を張り明るい声で言う兼良の言葉を理解できない香絵が首を傾げる。

「こくおう?」

「あれ?ご存知ありませんでしたか?道長様はこの国の王でいらっしゃいます。遠賀は他国に比べれば小さな国ですが、豊かな良い国です。俺は好きです。道長様は俺の好きなこの国の国王です。」

「え?・・・っとぉ・・・」

 香絵は瞬きを繰り返して、言葉の意味を吟味する。

『う?・・・うそーぉ!』

 驚きの表情を隠すこともできず、隣に立つ道長を見上げた。

 道長の顔を指差して、

「国王?」

「ん?」


『優しくて、いつも冷静で、時々厳しくて、強くて、それから・・・。』

 そう考えてみると、確かに国王らしい毅然とした態度?

『皆が道長様に仕えていたし、道長様は皆に命令していた。仕事の書類もほとんどが国政に関する物で・・・。』

 といっても、香絵は他の人といる道長などほとんど見たことはないのだが・・・。

『でも・・・。でも!』


「うそっ。だって誰も道長様のこと、殿様とか、上様とか呼ばないっ・・・。」

 香絵は理解の及ばない事態に混乱し、眉を下げ泣きそうな顔で呟く。

「香絵の国ではそうなのか?」

「そう。国王様や側近の偉い方々は、上様とか、お殿様とか・・・。あ・・・?えっと?そう?・・・・・・?」

 言っているうちに自分の記憶に自信がなくなってきた。

「よく、分かりません・・・。」

 二日酔いが戻ってきた?少し頭痛がする。香絵は手をこめかみに持っていった。

「そうか。まあいい。深く考えるな。」

 道長は香絵の身体を気遣い、そう言って頭を撫でた。


「しかし忠勝は余程香絵を手放したくなかったのだな。私の身分を隠しておくとは。」

 道長の言葉に政次が「確かに。」と返す。

「?それって、どういうこと?」

 香絵は相槌を打った政次を振り返る。

「男は普通出世を望みます。ですが戦のないこの国では、なかなか出世のチャンスなどありません。何かにずばぬけた才能があるとか、身分の高い家と婚姻を結ぶとか。

 香絵様には道長様が、この国の王が毎夜お通いでした。これ以上の出世のチャンスはありません。忠勝殿がこの国の平均的な父親であるならば、自分の養女が道長様の奥方となられるためのあらゆる努力をし、香絵様にも相手の身分を伝え、決して道長様の心を放さぬようにと言い含めるでしょう。」

 道長が続ける。

「そうだな。だが、一度誰かの奥として他の家へ嫁ぐと、父親とていつでも会うというわけにはいかない。忠勝は男が何より望む出世よりも、娘と暮らす幸せを望んだのだ。あのまま生きていれば、いつか香絵と奥方を連れて、誰ひとり訪ねても来ぬような山奥にでも転居してしまったかも知れないな。」

「そんなに大切にしてくださったのですか。義父とう様は・・・。」

 香絵は優しい顔しか見たことのない、たった40日だけの義父ちちを思い出す。


「香絵っ!」

 突然道長が大きな声を出してので、香絵はびくっと身体を揺らして、道長を見上げた。

 道長の両手が香絵の頬を包む。

「泣くなよ。泣くでないぞ。そなたの涙は私の寿命を縮めるのだ。」

 必死に訴える道長に、香絵は何だかおかしくなって、くすっと笑った。

「やだ、道長様ったら、そんなお顔で。」

 両手で口元を隠すようにして、香絵はくすくす笑った。

「顔?何か変か?」

 冗談なのか。本気なのか。いかにも真面目な顔をして両手で自分の頬をペタペタと触る道長がおかしくて堪らなかった。

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