狙撃

第19話

「ん・・・。痛っ・・・。」

 朝目覚めると、頭が痛んだ。

 香絵の起きた気配に気付いて、静が隣室から襖越しに声を掛ける。

「お目覚めですか?」

「はい。どうぞ入ってください。」

 襖が開いて、静がくすくす笑いながら入ってくる。

「香絵様。わたくし達に『ください』は必要ありません。わたくし達は香絵様にお仕えしているのですから。」

 香絵は痛む頭を手で持ち上げる様にして、寝床に起き上がった。

「それは前にも聞きましたけど、やはり失礼かと・・・。」

「そんなことはありません。仕える者に指示するのは当たり前ですから。道長様の体面もありますし、ね?」

「そうですか?じゃあ気をつけてみます。」

「ふふ、面白い方ですね。香絵様は。」

 静は笑いながら、懐から小さな包みを取り出した。

「お薬をどうぞ。頭が痛みますでしょう?昨夜は随分お酒をお召しになったのですね。」

「え?お酒?・・・・・・。『そういえば、微かに覚えているような・・・。何だかとても恥ずかしいような・・・。』わたし、どうやってここまで・・・?」

 薬の包みを受け取りながら聞いてみる。

 静は水を用意しながら答えた。

「道長様がお連れになりました。初めて香絵様がここへいらした日のように、大切にお抱きになって。」

『う、やっぱり・・・。』


 恐怖と不安が胸を占めていたあの日は、道長が震える香絵を自分の羽織で包み込み、手も足も出ない状態で屋敷の最奥にあるこの部屋まで抱いてきた。

 今、香絵の身の回りの世話をするためこの部屋に常駐している姫達は、香絵が来て何日か経ってから道長に雇われた。だから香絵付きの姫の中で、それを知っているのは静だけだ。


 静は母と一緒に、幼い頃からこの屋敷で暮らしているそうだ。

 静の母は夫を亡くしてからずっと道長の母に仕え、道長の母亡き後は道長のお世話役として、先日まで道長の側近くで務めていた。現在は体調を崩して療養中。

 初めて紹介された時に、道長がそう言っていた。


「あの、静様?」

「ほら、また。」

「え?」

「様、は不要です。」

「あ。ごめんなさい。」

「この奥の間では香絵様が一番高い地位にいらっしゃるのですから、そんなに気を使う必要はないのですよ。何でも申し付けてくださいね。」


 香絵はここの居候だから一番高い地位にいると言うのは語弊があると思うが、にっこり笑う静は優しい人なのでわざとそんな風に言ってくれるのだろう。温かそうで、安心して頼れるお姉さんのような人だ。


「あの・・・。道長様のお世話をしていらっしゃる方や、他のお部屋で仕事をしていらっしゃる女性はお年を召した方が多いのに、わたしの部屋の姫様方は、皆さん若い方ばかりなのですね。」

 水差しから水を移した、背の高い硝子の器を取ろうと伸ばした静の手が、ふと止まった。

「そうですね。香絵様が退屈なさらないように、若い方をここに集められたのではないですか?」

「そうかしら・・・。」


 道長が姫達を集めたのは、香絵が部屋に籠もり道長を閉め出していた時だ。道長は香絵のわがままに呆れ、連れてきたことを後悔したのかも知れない。ずっと香絵を気にかけてくれいたけれど、もう放ってしまいたいのかも。

 香絵に構う時間を取らなければ、道長はもっと自由に過ごせる。

 奥付きの姫達によれば、道長はもともと遊び好きで、夜毎に出かけていたらしい。女性にもモテていつも誰かしらお相手がいたのに、三月みつき前からぱったりお付き合いが無くなったという。

 そんなことをわざわざ香絵に話す姫はいないが、噂話は漏れ聞こえてくる。

 きっと香絵の世話に時間を費やしていたせいだ。

 姫の多くは婚活のためにこのお勤めに来ているそうだ。誰が好みだとか、誰が有望だとか、毎日話に花を咲かせている。ただ、思ったより男性との出会いが少なすぎるのが不満なのだとか。

 この部屋に若い姫しかいないのは、道長様もそろそろ誰か自分のお相手を見付ける為に姫を集めたからではないだろうか。・・・・・・。香絵はずっと気になっていた。



 籠っている七日間は、考えるのに十分な時間を香絵に与えた。いろいろ考えた。“自分がここにいる意味”なんて哲学的なことにまで辿り着いてしまうほど。

『道長様は困っているわたしを助けてくれた。林で迷っているわたしを拾ってくれて、行き場の無いわたしに住む場所と家族を作ってくれた。そして今はご自分の家にわたしの居場所を与えてくれている。』

 最初はこの屋敷で働けばいいのかと思っていた。使用人として置いてもらえるのではないかと。だが、初日にどんな仕事をすればいいのかと静に尋ねたら、それは違うと、香絵に仕事などさせられないと言われた。

 道長は自分の家族として、香絵をこの屋敷に迎えたのだから、ここで好きなことをして過ごせばよいのだと、懇々と説明を受けた。

 そして静は最後に、

「道長様は肝心なことを何もお伝えしていないのですね。」

 と、呆れたような、困ったような顔をした。


 道長は本当に優しい人だ、と香絵は思う。たくさんのもの、目に見えるものも見えないものも、本当にたくさんもらった。

 では、自分は?自分から道長には何が返せるのか?もらうばかりでいいはずがない。一方通行でいいはずはないのだ。何か返したい。考える度、焦燥感に苛まれる。

 静が、道長は昼間この屋敷内で仕事をしている、と言った時に思いついたのが道長の仕事の手伝いだったが、未だ役には立てていない。

 道長は優しい人だが、ずっとこのままここにいられるとは限らない。

 役に立たなくて必要ない存在なら、いつかいらないと思うのではないか。優しい道長はそれでもここに置いてくれるかも知れないが、捨てるに捨てられない厄介者になるのは嫌だ。

 そんな考えに囚われると一層、早く自分にもできる何かを見つけたい、と焦りを感じるのだ。



「昔は若い方も多かったのですけれど、もめ事が絶えなくて。」

「もめ事?」

「はい。道長様の気を引こうと工作したり、喧嘩したり。あまりひどいので、道長様が皆親元へ返してしまったのです。」


 当時の道長は選り取り見取りの中から、気に入った姫を選んでは、とっかえひっかえしていた。それが姫達を行き過ぎた行動へ導いたのだが、それを香絵に伝える必要はないと静の胸の中にしまわれた。


「普通他のお邸へ仕えるのは、夫を亡くした方や、年を過ごしてしまって輿入れを諦めた方と、ほとんど年配の女性です。でも、殿方に頼る生き方をしたくないという方もいらっしゃいますし、中にはご自分で結婚相手の殿方を見付けたいという姫君もいらっしゃいます。大抵は父親に却下されてしまいますが。この部屋の姫君達はそんな中から、道長様が慎重にお選びになったようですよ。どなたも家柄の良い姫君ばかりです。」

『家柄の良い姫君ばかりを道長様が・・・。』


 静の言葉は、香絵の不安を大きくした。

 その中から道長の結婚相手が見つかれば、その中からではなくてもいつか道長が結婚すれば、ここはその人の居場所となる。自分などが居て良い場所ではなくなるのだ。

 ああ、早く何か役に立ちたい。


 静は青く透けた、綺麗な器に入った水を差し出して、

「さ、お飲みください。少し苦味はありますが、すぐに頭痛は治まりますよ。道長様の調合なさったお薬はよく効くんです。」

「道長様が?」

「はい。道長様は以前、病気のお母様のために医学を学んでいらして、お医者様よりも薬品にお詳しいんです。でも最近は忙しくなられて、滅多に御自分で調合なさらないんですよ。香絵様のことが本当に大切なのですね。」

 香絵は包み紙を開いて、赤、青、白の混じった粉末を見詰めた。すると紙に何か書いてある。静から水を受け取ると、粉末を残さず口へ入れた。

 静の言ったように少し苦かったが、すぐに甘味が口に広がった。道長が飲み易いようにと甘味を足してくれたのだ。

 香絵は正方形の白い包み紙に書いてある文字を読んだ。

「くくっ・・・。」

 くすくすと急に笑い出した香絵に、「何か?」と不思議そうに静が問う。

「見て。」

 香絵が薬を包んでいた紙を渡す。

『酒癖が悪い。今後、人前での飲酒を禁ず。』

「まあ。道長様ったら。」

 くすくすと静も笑いを零した。



 その時、襖の向こうから声がした。

「香絵、仕度は出来ているか?」

 噂をすれば何とやら。道長が香絵を迎えに来たのだ。

「いけない。お話しに夢中になっちゃって。もうそんな時間?」

「はい。急いでお仕度を。」

 香絵は慌てて床から出て、静は部屋の隅に用意してあった香絵の衣を取り出した。

「申し訳ございません。すぐに整えますので、しばらくお待ちくださいませ。」

 静が部屋の外で待つ道長に声を掛けると、

「いや、いい。今日は政次と兼良も二日酔いで、剣の稽古は中止だ。かわりに三人で少し馬を走らせてくる。」

 そう言って、道長の立ち去る足音がした。


 それを聞いた時、香絵の心に何かが走った。ピリッ、と静電気のような軽い刺激。

「待って・・・。」

 香絵が道長を引き止めに走る。

「道長様、待ってください。」

 慌てて部屋から飛び出してきた香絵は着替えの途中で、静が未だ整えている最中だった乱れた胸元を手で押さえ、もう片方の手で握り込んだ袴の紐を引きずっている。生の胸と足がギリギリのところまであらわだ。

 道長は足早に香絵の所まで戻って、自分の羽織で香絵の姿を覆い隠し、辺りを見廻した。

 廊下にも庭にも人影はなくほっとする。

「香絵。何という姿だ!こんな乱れた姿で部屋を出るのではない。」

 羽織で覆ったまま、部屋まで連れ帰った。

 静が慌てて道長に頭を下げる。

「申し訳ございません。」

「静が謝ることはない。香絵に姫としての自覚がなさすぎるのだ。慎みなさい。」

 道長に叱られ、香絵は小さな声で「ごめんなさい。」とうつむいた。


 道長は溜息をつくと訊いた。

「で?何か用があったのか?」

 香絵はふっと顔を輝かせ、道長を見上げる。

「はい。わたしも連れて行ってください。わたしも外を駆けたい。」

『駄目だ!』

 と言いたい。屋敷から出るなどとんでもないと。

 しかし、瞳をきらきらさせ見上げる香絵に、どうしても道長は嫌とは言えない。

「・・・分かった。」

 渋々承知する。

「早く仕度を済ませろ。」

「はい♪」

 るんるん、と心を弾ませ着替える香絵に、本当は部屋に閉じ込め、表になど連れてゆきたくない道長は、頭を抱える。

 そんな二人を、静は微笑ましく眺めていた。



 香絵は何となく、落ち着かない心を感じていた。久々に表に出られる嬉しさとは裏腹に、何に急かされるような、予感のような焦燥感のような、よく解らないもので胸の鼓動が大きくなる気がした。

 どうしても、道長について行かなければ・・・。

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