第18話

 香絵を抱き上げ奥の間まで運ぶと、香絵のために雇った姫達が驚いて駆け寄る。

「大丈夫。酒に酔ってしまっただけだ。床を用意してくれ。『明日の朝は頭痛がするかも知れないな。薬を調合するか。』後で誰か私の部屋へ薬を取りに来るように。」

 香絵を寝床の上にそっと寝かせ、静に声を掛けた。静には奥の間の一切いっさいを任せている。香絵より一回りほど年上の美しい姫だ。

「かしこまりました。」

 静が答え、道長が部屋を出てゆくと、奥の間付きの姫の一人が静の元に進み出た。

「静様、わたくしがお薬を取りに参ります。わたくしに行かせてください。」


 姫の名はえい。昨日奥の間付きの姫を追加雇用した中の一人だ。

 彼女はこの時を待っていた。思ったよりもずっと早く訪れたこの好機、道長に近付ける時を。

『これはチャンスよ。逃す手はないわ。行けばきっと、道長様と直接お話しすることが出来るわ。』



 廊下を道長の部屋へ向かいながら、栄は考える。

 確かに香絵は美しい。人を魅き付ける不思議な魅力がある。道長が魅かれるのも分かる。

『わたくしだって香絵様は好きよ。でも・・・。』

 でも、道長の事は別だ。


 五年前に一度、道長は公用で臣下である信重の邸へ立ち寄った。信重が道長に家族を紹介した時、栄も家族の一人として対面した。

『あの時わたくしは、あんなに美しくて、魅力的な殿方を初めて見たわ。』

 もう一度逢いたい。そんな栄の願いも空しく、道長はその後、信重の邸を訪れることはなかった。

『それからは毎夜、父様に道長様の話をねだって聞かせてもらったっけ。』

 信重も栄の気持ちにはすぐに気付いた。栄が道長の元に嫁げば、これ以上の出世の道はない。それ以来、信重は栄の周りに男が近付かぬよう気を配った。

『父様の話を聞く毎に、道長様が恋しくなっていったわ。輿入れするなら道長様って、いいえ、絶対わたくしが道長様の奥方になるんだって、そう決めたのよ。』


 小さい頃から、栄は身分の高い殿方の所へ輿入れするための教育を受けてきた。両親も本人もそれが当たり前だと、疑うこともなく。

 この国の多くの姫は、栄と同じように育てられている。もちろん姫の幸せのため。そして、父親の出世のため。


 以前道長は、よく気に入った姫の元へ訪れていた。気が多いのか、女好きなのか、どの姫も一夜限り。かなりの遊び人だと噂された。そのうちわたくしの所へも、と待ち望む姫は星の数。栄もそんな中の一人だ。

『でも、わたくしは違うわ。一度通っていらしたら必ず気に入ってもらえる。絶対!』

 実は姫達は皆そう思っていながら、結局一夜きりだったのだが、それは栄の知るところではない。


 姫は殿方の通って来るのを待つしかない。信重は道長に会う度、「ぜひ私の娘を」と薦めていたのだが、そんな家臣は数知れず。結局栄の元へ訪れることなく、道長は香絵を屋敷に迎え入れた。

『道長様が奥方様をお迎えになったと聞いた時はショックだったわ。でも・・・。』

 信重はそこで諦めた。屋敷に入れる奥方は一人。しかも超一品という噂。この後道長が栄の元に通ったとしても、それは浮気に過ぎない。栄の幸せも、自分の出世もない。

 でも栄は諦めきれなかった。

『逢って嫌われた訳ではないもの。相手の姫君と比べられるチャンスも与えられなかったのよ。納得出来ないわ。』


 道長の屋敷で奥方付きの姫を集めていると聞いて、栄は自ら志願した。

 姫達が香絵の側仕えとしてこの屋敷に来た目的。それは当然、この仕事に選ばれた名誉を重んじ、父の名を汚すことのないよう、全力で仕事に取り組むこと。そしてもう一つ、この屋敷で働く殿方に見初めてもらい、奥方となり輿入れすること。

 だが、栄の目的は違う。狙うは一点、ただ、道長のみ。


 信重は栄が屋敷に上がることを反対した。自分が良い相手を探してやるからと。

 信重は栄が、道長に代わる相手を自分で探すために申し出たのだと思った。他の邸へ仕事に出る姫の大部分は、その為に行くのだから。古い考え方しか出来ない信重には、輿入れの相手を姫自ら探しに出るなど、はしたないことに思えた。

 しかしそれでも、どうしてもと言う栄を止められるほど、理不尽な父親でもなかった。


『どんな方なのか、会ってみたかったのよ。決して一人の姫に留まることのなかった、道長様の選んだ女性ひと。どんな人だろうって。』

 そんな思いで会った香絵は確かに美しく、女の目から見ても魅かれるものがある。この人なら道長に似合っている。多分自分よりも。

 一度はそう考え、諦めかけた。


 ところが道長は、毎夜奥へ渡っても、香絵が眠ると自室へ戻ってしまうという。確かに昨晩道長は、夜更けに自室へ戻って行った。

 聞けば香絵が輿入れしてから七日ほど、二人は口もきかなかったらしい。

『政略結婚だったのかしら。それとも略奪?香絵様は道長様を愛して輿入れなさったのではないのかも知れない。』

 過去の明かされない謎の姫君。意にそわない結婚。これは割り込む隙があるのでは?

『わたくしはお屋敷に来てから、何度も香絵様に間違えられたもの。きっと道長様の好みにも合っているに違いないわ。』

「そうよ。チャンスさえあれば、わたくしだって。」



 栄は道長の部屋の前に正座し声を掛けた。

「道長様、お薬を頂きに参りました。」

「入れ。」

 襖の向こうから道長の応えがある。初めて直接自分に掛けられた言葉に胸が躍った。

「失礼いたします。」

 一礼して、静かに襖を開ける。道長は薬を調合していた。

「すぐに終わる。なかで待て。」

 手を休めず言う。

 栄は「はい。」と再び一礼して、どきどきしながら部屋へ入った。


 道長が、調合した薬を三つに分け、紙に包む間、栄は熱っぽい視線を送り続けた。が、道長は気付いたふうもなく、出来上がった薬を見て「ふっ。」と小さく笑いをこぼす。

 初めて見た道長のやわらかい笑顔に栄は上気したが、振り返った時にはいつもの冷たいともとれる引き締まった表情で、「頼む。」と薬を差し出した。

 栄は道長の傍までにじり寄り、両手を出しながらあらん限りの思いを込めて道長を見つめたが、道長は気にも留めず栄の手に薬を入れた袋をのせる。

 栄は薬を受け取り、退出するしかなかった。



 廊下を帰りながら、栄は肩を落として「ほう」と溜息を吐く。

「名前さえ聞いてくださらないなんて・・・・・・。」

 がっかりしたが、これくらいでくじける栄ではない。

 とにかく姿は見ていただいた。香絵付きの姫の中に自分がいることを知っていただいた。滅多にお目に掛かれないだろう道長の笑顔も間近で拝めたし、次にはもっと頑張ろう。

 そう考えていた。

 どこまでも前向きなのである。それが長所なのか短所なのか。分析するのはちょっと難しいかも知れない。

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