第12話
政次は執務室に戻ったが、幸久はまだのようだった。
扉を開けると、くしゃくしゃに丸められた紙が足元に転がってきた。同じような書き損じた紙屑が部屋のあちこちに幾つも散らかっている。道長が書類を書き違え、丸めて投げたものらしい。
香絵が狙われているのかも知れないことで、道長のイライラは先程よりも更に増してしまったようだ。
そんな道長の前に立つ者がいる。
道長はまだ気付いていないようだったが、その者が一歩踏み出したことで道長の手元が影になり、手を止めた。
『ああ、誰だ?こんな時の道長様に接触を試みるのは、空腹の虎の尾を踏むようなものだというのに・・・。』
「邪魔だ。退け。」
政次が心配した通り、地を這うような低い声が部屋に響いた。だが、影を落としている人物は退く気配がない。道長は舌打ちして、視線を上げる。
相手の顔を見て、驚いた。
「香絵・・・。」
力の抜けた呟きが道長の口から洩れる。
「何だ。その姿は。」
道長の執務机を挟んで対面に立つ香絵は、髪を頭の後ろで高く一つに纏め、そのまま腰辺りまで垂らしている。軽い上衣に袴をはいて、今この部屋にいる道長達と同様の姿は、まるで男の出で立ちである。
「わたし、七日間考えました。そして、決めたのです。猫被りは止めようって。」
「・・・何?」
道長は何の事だか分からない。
猫被り?ああ。言葉の意味は知っている。で、それが何だって?
「わたし、忠勝様の家ではずっと猫を被っていました。実の娘ではないのに本当に大切にしていただいて。期待を裏切れなかったのです。亡くなった姫君の姿を重ねているのが分かったから。あの方達の、夢を壊せなかった・・・。」
香絵はうつむいて辛そうな顔をした。が、すぐに笑顔を上げた。
「でももう止めます。女だからと部屋に籠もっているのは、性に合いません。わたしはこの方が自然に感じるのです。」
ああ、そういうことか。女だから奥から出してもらえないと思ったのか。男なら出てもよいだろうと?
『まったく私の気持ちを解っていない。』
女を皆閉じ込めておきたい訳ではない。香絵だから大切に隠しておきたいと思っているのに。
道長は首を振って、子どもを諭すように語りかけた。
「香絵、駄目だよ。男の姿をしたくらいではそなたの美しさは隠せない。美しい若者や少年を好む男も多い。今度はそんな奴らに狙われるぞ。私はこの国の好色な男達から、そなたを、護りたいのだ。」
香絵はにっこり微笑む。
「
道長は眉を下げ、とても残念な困りきった顔をしている。
いやいや、そうじゃないって。ひいき目なんかじゃないから。全然大丈夫じゃないから。
それに剣を習うって、そんな危険なことさせられないだろ。
気持ちは嬉しいけど、させられないよ?
「香絵、無茶を言うな。女に剣は難しい。刀は重くて扱い難いのだぞ。頼むから奥で大人しくしていてくれ。」
「嫌です。わたしは、わたしを護るために道長様が人を斬るのを見るのは嫌です。好色な殿方に狙われるのも嫌です。でも、だからって、道長様が奥へいらっしゃるのを部屋に籠もって待つだけなんて、わたしは嫌なのです。少しでもいいから・・・。」
頬を少し朱に染めて、顔を伏せる。
「道長様のお側でお役に立ちたい。」
「「「うっ。」」」
その可憐な姿に、部屋にいた男三人の息が詰まった。
これは、反則だ。絶世の美姫にこんな可愛いことされて断れる男がいるか?
否!
断れるはずがない。
道長は額に手を当て、天を仰ぐ。
「香絵。そなたは何故そんなに愛らしいのだ。・・・はあぁ・・・駄目だ、参った。愛しすぎて私はそなたに逆らえないぞ。」
香絵は道長の愛しいという言葉に心を震わせた。
『ああ、よかった。まだ嫌われてはいない。義父様と同じように、愛しいと言ってくださる。』
香絵の顔が輝く。
「じゃあ♡?」
ああ、ダメだ。その顔は駄目だよ。
不埒な男ばかりが溢れかえる危険極まりない外の世界に出てくるなんて、
だが、せっかく直った香絵の機嫌を再び損ねたくはない。
ううむぅぅ・・・・・・。
道長は困った顔を戻さずに、それでも頷いた。
「よい。男の姿で剣を習う事を許す。ただし、」
道長が『ただし』に力を入れたので、香絵は『剣は許すが奥から出るな』と言われると思い、次の攻めを考えようと身構えた。ここで引く気はないのだ。しかし、
「私の傍から離れるな!私以外の男に触れるな!近付くな!!」
道長は香絵の瞳を睨むように言った。
その姿に、香絵は義父の在りし日の姿を思い出す。
そういえばいつだったか、一緒に外出した時に同じような顔で同じようなことを言っていた。
ふっと笑いを漏らした香絵に、道長はいっそう顔を渋くして、念を押す。
「いいな?!」
「はいっ。」
香絵の喜ぶ顔に、側ではらはらしていた政次と兼良もほっと胸を撫で下ろす。
「兼良、刀を貸せ。」
「はっ。」
兼良は腰の刀を鞘ごと道長に渡した。
刀を受け取ると、鞘から抜き、眺め、宙を斬ってみる。
「これでも重いか。」
刀を鞘へ納め、香絵に渡す。
「軽くて使いよい刀を作ってやろう。それまでこれを持っていなさい。」
「はい。」
「兼良には私の物を
「やたっ♪有難う御座います。」
身分の高い人物から物品を下げ与えられるのは光栄な事。それも刀となれば、兼良にとっては『超ラッキー』なたなぼたもんである。香絵に触れてもらうのは申し訳ないくらい使い古した一振りが、一流刀鍛冶による特注品に化けるのだから、喜びのあまり踊ってしまうのも無理はないだろう。
ああ、でも、兼良くんっ、華麗なジャンピングターンだけど、この部屋の広さでそれは・・・。
「香絵。」
「はい。」
道長が厳しい顔で振り返る。
香絵も少し心を緊張させる。
「仕事はおいおい探してゆく。当分は側で私のすることを見ておけ。」
「はい。」
「剣は明日から教える。厳しいぞ。覚悟しておけ。」
「道長様が教えてくださるのですか?」
道長がにっと笑った。
「こんな面白そうなこと、他の者にさせられるか。」
先程までの不機嫌が嘘の様に、道長は楽しそうに仕事の続きを始めた。動きは軽く、鼻歌でも聞こえてきそうだ。
香絵はこっそり政次に聞いてみる。
「道長様って剣はお上手なの?」
「そうですねぇ。十五歳の時に御師範にお勝ちになって以来、誰にも負け知らずだそうですから、多分この国では一番お強いと思われます。」
「へえ。そうなんだ。すごいのねぇ。」
香絵が感心していると、道長がちらっと二人を見て、わざと大きな声で言った。
「政次、何をこそこそしている。香絵に触れてみろ。たとえお前でも許さんぞ。」
道長父さんは嫉妬深くて過保護である。政次は滅相もないと、両手を広げ首を振った。
ずっと香絵に
香絵は部屋の隅に並んでいた予備の椅子にちょこんと座り、自分に出来る仕事を見付けようと、三人のする事を眺めた。
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