第10話

 香絵は肌衣の紐を解くのを止め、両腕を袖から外し、体に残る水滴を首から拭いていった。

 その時、香絵の目の前の草むらが、がさがさと鳴った。慌てて手拭いで胸を覆うと、そこには若者と呼ぶにはまだ幾つか年の足りない少年が立っていた。


 異変に気付いた道長が刀を取り、大股で少年へ向かう。

「何者だ?」

 少年は香絵の姿に心を奪われ、道長の声も耳に入らないようだ。その時、

「何を?!っっ!!」

 道長が刀を抜き、少年の腰から肩へ向かって刀を振り上げた。鮮血が舞う。香絵が息を呑む。

 少年はそのままの格好で後ろに倒れ、二度と動かなかった。

 驚いて身動ぎもできない香絵は、呆然と呟きを漏らす。

「どうして・・・。」

 道長は刀を降り血を払うと、鞘に納めた。

「香絵の肌を見た。許せん。」

「そんな!まだ子どもではありませんか!」

 道長は香絵の方に向き直り、ゆっくり歩み寄る。

「子どもはすぐに大人になる。香絵の姿が忘れられず、いつか奪いに来る。」

 道長が目の前まで行き手を伸ばすと、香絵は眉を寄せ後退った。まだ衣を身に纏う前だった道長の裸体は、少年の返り血で赤く染まっている。

「ああ。せっかく湯に浸かったのに、汚れてしまったな。」

 そう言って泉へ戻り、手と体に付いた血を洗い流した。


『何をしているのだ、私は。今、香絵の前で人を斬るなど。』

 あの惨状から連れ出し、やっと落ち着いたところだったのに、目の前で人を殺めるなんて。しかも、相手は子どもだ。道長にもわかっていた。

 だが、道長も平静ではなかったのだ。子どもであろうと、男という存在が道長の不安を掻き立てた。

 恐かったのだ。先刻、香絵を失うかも、失ったのかも、という恐ろしさを知ってしまった道長は、平常心を保てないほど、子どもでさえ恐かったのだ。


 香絵は立ったまま、声もなく泣いていた。道長は後ろから香絵の肩に衣を掛け、静かに問う。

「私が人を斬るのは嫌か?」

 香絵はこくんと頷く。

「ではその肌を私以外の男に見せるな。子どもでも年寄りでも斬る!」

 香絵の肩を廻し、こちらに向かせると抱き締めた。

「いつでも部屋に御簾みすを下ろし、男達に姿を見せるな。」

 香絵の体を離し、顔を見て、道長は「ふう・・・。」と長い溜息をついた。

『私がこれほど嫉妬深い男だったとはな・・・。』

「さ、帰ろう。」


 道長は衣を着た。香絵が衣を整えるのを待ち、馬まで手を繋ぎ歩く。

 馬に乗り、供の待つ所まで来ると、

「ちょっと待っててくれ。」

 香絵を馬上に残し馬を降り、兼良を呼んだ。そして香絵の耳に届かないよう、小声で指示する。

「泉の側で子どもを斬った。手に桶を持っていたから、湯を汲みに来たのだろう。こんな時刻だ。近くの者だと思う。家を探し、遺体を届け、弔いをしてやれ。屋敷に帰ったら、手伝いを何人か寄越す。」

「分かりました。」


 兼良が馬に乗り、泉へ向かうのを見送って、道長も香絵の所へ戻った。

「待たせたな。寒くないか?」

 馬の下から見上げる道長に、香絵は黙って頷く。

「よし。政次、先に帰って香絵の部屋を準備させろ。奥庭の見える座敷がいいな。部屋を暖めておけ。」

「香絵様をお屋敷へ連れてゆかれるのですか?」

 政次が手を口元に添えたのを見て道長は身を寄せ、耳を差し出した。

「それは、奥方様として?」

 普段はあまり感情を見せない政次は突然の事に、珍しく少し驚いた顔をしている。

「ん?何か不都合でもあるか?」

「いえ、私に異存は御座いませんが、しかし、あの方が納得するでしょうか。香絵様は何処からいらしたかも判らぬ、多分、異国の姫君です。」

「そうだな。忠勝の娘とは、もう名乗れないからな。」

「!道長様。では、」

 驚きに声が大きくなってしまった政次は、再び声を落とす。

「ではもうあの時、香絵様を忠勝殿に託した時から、奥方様としてお迎えするおつもりで?」

「ああ。お前だって、そのつもりで香絵の調査をしていたのだろう?」

「・・・気付いておられましたか。」

 道長は悪戯が成功した子どものような顔で『にっ』と笑った。

「だがまあ、大丈夫だろう。身分がどうのと、言いたい奴には言わせておけばいい。どうせどんな姫でもあの人の気には入らない。ほら、早く行け。」

「はっ。」と一礼し、政次は馬へ乗り、道長達の脇を抜け先に行く。すぐに木々に阻まれ、姿が見えなくなった。


「風邪をひくなよ。」

 道長は自分の羽織を香絵の頭からすっぽり被せ、馬を速足で進めた。

 香絵を自分の屋敷へ連れ帰る。もう決して失う恐怖に怯えたくはない。手元に置いて、誰にも見せず、誰にも触れさせず。大切に大切に護る。決して離さない。離れない。

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