第9話

 馬で走る。

「もう目を開けていいよ。」

 忠勝の邸が見えなくなり、喧騒も届かなくなった所で、道長は香絵に囁いた。

 香絵はゆっくり目を開く。身体の緊張を解くと、心も解けた。優しく見下ろす道長の顔を見たら、涙が止まらなくなった。

 香絵が道長の胸に顔を埋め激しく泣いている間、道長は馬を止めた。


 暫らく待ち、少し落ち着いてきたのを見ると、ゆっくり歩を進める。道長の左手は、その間ずっと香絵の髪を優しく撫でている。

「今宵は月がきれいだ。」

 ぅっく、ふぇっ、っく。としゃくり上げながら、香絵は天を見上げた。

 下方の少し満たない月が、明るく光を返している。静かな月を見ていると、心も静まっていった。

 月を眺める香絵の顔を見詰め、道長が語りかける。

「私がいる。必ず私が香絵の傍にいるから。何も心配しなくていい。」

 優しい声に、やっと止まりかけた涙がまた溢れた。

「よしよし、泣くな。香絵が泣くと、私の胸も締めつけられるようだ。・・・!そうだ。」

 道長は閃いた。いいことを思いついた。これなら少しは香絵の気持ちを慰められるかも知れない。

「良い所へ連れていってやろう。」

 そう言うと、道長は香絵の体をしっかり腕に抱え込み、馬に足で合図を送る。馬は駆け出した。

 供の二人も後に続く。



 やしき街を抜け、下町を過ぎ、村里から山道に入る。

 少し登った所で道長は供二人に『ここで待て』と、後手で合図した。

 そこからまた少し登った所で、馬を止めた。道長は馬を降り、香絵を抱え降ろす。

「少し歩くよ。足下に気を付けて。」

 月は木々に遮られながらも微かに足下を照らしているが、道は無いに等しい。大木の根や、大きな石がごつごつと出ていて、とても歩き辛い。

 道長にはよく来る慣れた道だが、手を引かれた香絵も初めての土地と思えぬほど、軽くついて来る。

「山道には慣れている様だな。」

「そうでしょうか。?。わたくしは山の方の生まれなのかしら・・・。」

「歩き辛そうなら抱いてゆこうと考えていたのに。ふん、つまらん。」

 記憶を辿ろうとした香絵を、道長が遮った。


 香絵が過去を手繰り寄せようとすると、道長はつい邪魔をしてしまう。つい、だ。悪意はない。

 理由はわかっている。思い出して欲しくないからだ。

 思い出せば帰る場所があるかも知れない。待っている人がいるかも知れない。

 自分勝手な思いだ。なんて狭量な男だ。自覚している。

 それでも手放したくない。そう思う。



「ふふっ。道長様ったら。」

 香絵が笑う。道長は眩しそうに目を細めた。

「そうだ。そなたは笑っているほうがいい。」

 道長が言うと、現実を思い出した香絵の笑顔が陰り揺れた。


 そこで木々が途切れた。

「まあ、これは・・・。なんて美しい。」

 香絵の形の良い紅い唇から、感嘆の息が洩れる。

 森に囲まれた小さな泉。水面からはゆらゆらと白い湯気が立ち、映した月が煙って淡い光を放つ。


 美しさに心を奪われている香絵の様子を満足気に眺めると、道長は衣を脱いだ。

「道長様?」

 上半身裸で、男の肌衣はだきぬ一枚となった道長を見て驚く香絵に、「ほら、香絵も。」と手を伸ばし、帯を解く。

 この国では見慣れない――茜が仕立てたのであろう――香絵の衣に、手間取ることもなく脱がせていく。微かに桃色がかった肌衣だけにすると、香絵の手を握って「おいで。」と引っぱった。

 道長はざぶざぶと泉へ入っていくが、香絵が立ち止まった。

 暦の上ではもう春も半ば。とはいえ、夜はまだまだ寒い。足に水が触れることを思えば、ふるりと身体が震える。

「大丈夫だよ。ほら、おいで。」

 道長は振り返り、両手で香絵の両手を引き、後退あとずさる。

 一歩踏み出した香絵の足が泉に浸る。

「温かい。」

「温泉だ。私の秘密の場所だからな。誰にも内緒だよ。」

 そう言って道長が片目を瞑ってみせる。

 膝がかる所まで来ると、両手を繋いだまま片手を香絵の頭の上から回し、腕を交差させて後ろを向かせ、抱え込む。膝を折り、静かに胸まで浸かって、香絵を自分の膝上に座らせる。

「はあ・・・。気持ちいい。」

「うん。月の下で浸かる湯は最高だろう?」

「はい。」

 香絵は頭を道長の肩にもたれさせた。

 月を見ながら、体が温まってくると、ふわふわと眠たくなった。何もかもが夢のように思えてくる。

 しばらくそのまま、静かに体と心をゆらゆらと漂わせた。


「そろそろ帰るか。」

 耳元で囁いた道長を見上げる香絵の頬がピンク色に上気して、眠そうな瞳がいろっぽい。

 道長は立ち上がりながら、一緒に香絵も立たせた。すると、濡れた肌衣が体にくっつき、肌が透けて見える。

 姫の裸体など見慣れている。そのはずなのだが、道長は息をのみ、胸がどきどきして目が放せない。

「道長様?早く衣を着ないと冷えますよ?」

「あ、ああ、そうだな。」

『この私が女の裸に見惚みとれるなんて・・・。』

 厳密には裸とは言えないのだが、ともかく動揺した気持ちを立て直し、香絵の手を引き泉から上がると、手拭いを一本香絵に渡した。

「これで拭けばいい。衣は自分で着られるか?」

「はい。」


 普通大きな家の姫は側に仕える女達に着せてもらうので、自分で衣を着られないことが多い。しかし香絵は預けられた身であったので、どこか遠慮があり、なるべく何でも自分でするようにしていた。

 それに香絵の着ている衣は、初めて会ったときに着ていた衣に似せて茜がわざわざ作り直していた物で、香絵にとってはこの国の衣よりずっと着やすく、他の女達には着せにくかった。


 濡れた肌衣の紐を解こうとした時、香絵は道長の視線に気付いた。

「あちらを向いてください。」

 そう言って、香絵は道長に背を向ける。

「あ、そうか。」

 道長は知らず知らず香絵に見惚れてしまう自分に照れながら、反対を向き、手拭いで己の体を拭いた。

『これは、思ったより重症だな。』

 道長は自嘲する。


 さっき忠勝の邸で香絵を探した時、もしかしたら香絵を失うのかと恐怖した。どんな惨状を目にしても冷静に対処する自信はあるのに、この中に香絵がいるかと思えば動悸が抑えられなかった。倒れた人影が香絵に重なると心臓が止まりそうだった。

 もし香絵があの中で倒れていたなら、本当に心臓は止まってしまったかも知れない。

『もし、もし香絵が・・・。』

 最悪の場面を想像しそうになって、道長は身震いした。

『大丈夫。私は間に合った。香絵はいる。私の傍に。もう二度と手放さない。』

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