第7話

 三頭の馬の蹄が夜の街に響く。

 疾うに陽も落ち真っ暗な通りが、今夜は十三日目の月に照らされ先がよく見える。目抜き通りからは少し奥まっている場所だが、ここ最近は日中なら汗ばむ程の陽気で今日は天気も良いせいか、他に人影がまったくないわけでもない。

 一つ向こうの通りからもやはり二、三頭の馬の蹄の音が聞こえる。こんな時間に出掛ける目的はこちらと同じ。どこかの姫の処へ通うのだろう。

 政次と兼良は道長の護衛として同行。送り届けたら今日の仕事は終了だ。


 政次が前を行く道長に話しかける。

「道長様。今度の姫君には、随分のめり込んでいらっしゃいますね。」

 兼良も続く。

「そうですよ。ひと月以上も一人の姫君だけに通い続けるなんて、これまでの道長様からは考えられません。」

「そうか?」

「そうですよ。ひと月どころか、ふた晩通ったことさえないじゃあないですか。」

 呆れ顔で兼良は息を吐く。

「・・・そうだな。」

 道長の意外にも深刻そうな声に、供の二人は顔を見合わせた。

「何か違うんだ。これまでの姫君達とは。何がどうなのか、自分でもよく判らないが、その・・・。無理強いして嫌われたくないとか・・・、抱くと儚く溶けて消えてしまうのではないかとか・・・。」

「「え!?」」

 供の二人が驚愕の声を上げた。そんなことは信じられないと。

「もしかして、道長様?まだ香絵様とは、何もナシ・・・?」

「まあ、そーゆーこと、だ。」

 こういうことを躊躇なく聞けるのは兼良だ。そしてその兼良の質問に、道長は少し顔を赤くして上を向き、ぽりぽりと鼻を掻く。

「うそぉぉ。」

「・・・・・・。」

 初めて見る道長の照れている姿を、一人は驚嘆の声を上げ、一人は無言で、まじまじと見詰めた。

「香絵が言うのだ。愛があるから男女は結び付く。愛のない交わりなど許されないと・・・。」

 道長は半月程前を思い出す。



 道長が部屋へ入るとすぐ、香絵はその日読んだ物語の話を始めた。

 余程感激したらしく、大きな綿入り座布団に体を沈める道長の横に座り、熱心にあらすじを語る。

 遠賀は小さな若い国で、史書や政書等の『国が生きるための書物』以外、国の中で生まれた物語を持っていない。だからそれは、外の国から持ち込まれた御伽話だった。


「ね?とても素敵なお話でしょう?」

「ああ、そうだな。」

 と口では言いながら、実は道長、御伽話になどまったく興味はない。

「わたくしもいつかこんな恋をして、愛する人と結ばれるのでしょうか・・・。」

 うっとりと呟く香絵の言葉に、これまでただ聞き流してきた道長が、ぴくりと耳を動かす。

「恋をする?愛する人と結ばれる?」

「はい。いつか。」

「無理だろう。それは異国の御伽話だ。遠賀の話ではない。」

「無理?どうしてですか?人は愛し合って幸せな結婚をするのでしょう?」

「はははは。」

 ここで道長は笑ってしまった。香絵と出逢った経緯いきさつを忘れていたのだ。

遠賀ここでそんな夢物語を望めはしないよ。」

 ああ、これがまずかった。

「夢物語?どうしてですか。なぜ望めないのです?それは、この物語ように素敵な恋はまれかも知れませんが、やはり心ときめく恋をして、幸せに愛を育みたいと、姫ならば誰だって憧れるものでしょう?殿方には解からないかも知れませんけどっ!」

 一気にまくしたてぷいっと横を向くその頬は、空気を含みぷっくらと膨らんでいる。

 これまで、しっとりと落ち着いた物腰の香絵しか見たことのなかった道長は、少々戸惑いを覚えた。

 つむじを曲げてしまったらしい香絵を見て、道長はやっと思い出した。香絵は異国そとから来たのかも知れないのだと。

 慌ててその場を取り繕う。

「そうか。すまん。そうだな。そうだ、憧れるものだ。そう、そう。」


 国境で見付けた香絵を、道長はその足で忠勝の邸へと連れてきた。宿からここまでどこにも寄らず、人目から遠ざけ、片時かたときも目を離さず。香絵はその間、他者ほかからの情報をまったく得ていない。

 もしも異国の姫であるならば、遠賀の常識など知るはずもない。

 おまけに香絵には記憶が失い。遠賀の育ちであったとしても、そんなことはまったく忘れているのかも知れない。


「そうですっ!憧れるくらいよろしいでしょ?」

 道長は大きく肯く。

「もちろん!香絵も恋をして、愛する男と結ばれるのだな。うん。そうだ。」

 やっと香絵も機嫌を直して、道長にいつものしっとりした笑顔を向ける。

「はい。いつの日か、きっと素敵な出逢いをするのです。」

「出逢い、ねえ・・・。」


『いつの日か、って、未来の設定か?それは、私は枠外ということにならないか?』

 今度は道長がちょっと面白くない。意地悪な質問をしてみたくなった。

「もしその前に、忠勝が縁談を持ってきたらどうする?」

 香絵はにっこり答える。

「もちろんお断りいたします。愛していないのに結婚など出来ません。」

「輿入れしなくともいいから、寝所の相手をしろと言われたら?」

 香絵は「ほほほ。」と一笑。

「そのようなこと、とんでもありません。愛があるから結ばれるのです。愛のない交わりなど、許されることではありません。」

 静かだが、きっぱりと断言した。



「お前達、そんなこと考えたことがあるか?」

「いえ・・・。」

「全っ然。」

 供の二人はそれぞれの首を振る。


 それはそうだ。この国で、愛だの何だの、そんなことを考える者など少ない。

 姫は男が抱くためにある。男側の好みはあっても、姫に選ぶ権利はない。

 姫の相手を選択し、合否を決定出来るのは父親だけ。その判断も、導くものは相手の身分。決して愛などではない。

 父親が余程高い地位にいて、娘のわがままも許せるほど溺愛していれば、あるいは姫の好みも取り入れられるかも知れないが、それは希に見る特例というやつである。

 遠賀とは、男の男による男のための国だ。

 姫には何の選択権も与えられない、愛のある結婚など御伽話にしか存在しない国なのだ。


「そうだろう?遠賀でそんなこと考えるやつなどいないだろう?そうなのだ。それなのに、香絵は違う。」

「確かに香絵様は、他の姫君とは違いますね。考え方も、お姿も。あの白く透ける様な肌は、遠賀の、いえ、この世の人とは思えないものがあります。」

 冷静に見解を述べる政次に、少し興奮して兼良が相槌を打つ。

「そう。それに透明感あるあのお声。鈴を転がすような、とは真にぴったりですよね。あのお声で名前を呼ばれたら、んー、思い出すだけで背中がぞくぞくします。上品で物静かでしなやかな振る舞いは神々しい程高貴で。ああ、あの細く白く美しい指に触れたい。悩ましいあの瞳に見詰められたら、もう、空だって飛べそう。

 はぁ、数え上げればきりがない。まるで、」

 兼良が恍惚の表情で、溜息交じりにそらを仰ぐ。

「あの月からでもいらしたような、神秘的な姫君です。道長様が夢中になられるのも分かりますよ。本当に美しい。」

 頭上に輝く明るい月に香絵の姿を思い描く。


 兼良が思い出せる香絵の姿は、出会った日とその翌日だけ。忠勝の邸に送り届けた後は、一目姿を垣間見ることさえできなくなった。何故なら、道長と忠勝の守りが厳しく、鉄壁だからだ。きっとこのひと月強の間、香絵の姿を見た男は道長と忠勝以外皆無だろう。

 初日は暗い中で、しかも香絵は土塗れだったから姿は良く見えなかったが、その翌日の可憐で美しい風姿を想い心ここに在らずの兼良は、道長の刺すような視線にはっと我に返った。

「い、いえ、私は道長様に成敗せいばいされるのは嫌ですから、香絵様の相手が道長様であるならば横恋慕なんて愚かなことは致しません。決して。」

 と、胸の前で両手を小刻みに振る。


「それにしても、の姫君に求婚している殿方の数はすごいですね。どうなさるおつもりです?」

 政次が唐突に話題を変えた。道長に睨まれ冷や汗たらたらの兼良に助け船のつもりかもしれない。

 そう、道長にはそれも悩みの種だ。

「先日忠勝にも相談された。求婚者が多くてとか、誰にしようかとか・・・。いや、あれは相談とは言わんな。ただの娘自慢だ。それとも私を煽ってるのか? 」

「さすが忠勝殿、強気ですね。」

「経理の纏め役ってこの国の国家予算握ってますもんね。恐いもの知らずだ。」

「私が毎夜通っているのだ。他の選択肢などなかろうに。あれはわかっててわざとだな。」


 遠賀では男が姫の元へ通う。普通は父親の許可を得て、姫の部屋へ通る。それで妻に迎えたいと思えば、自分の家へ連れて帰る。家に入れる妻は一人きり。妻の美しさは男の沽券となる。麗しい奥方は大いに自慢でき、羨望の的となるのだ。

 しかし上には上がいる。美しい姫の噂は次々に湧いて出る。だから大抵の男は、家に妻がいても他の姫のところへ通う。自慢の種は上者じょうものであるほど良い。

 父親の許可を得られず、こっそり忍び込み無理やり姫を自分のものにする不届き者もいる。中には決闘覚悟で、人の妻をさらって自分の家へ連れ帰る男までいる。だから美しい姫の周りの男達は、父親も、夫であろうとも、気が抜けないのだ。


「私も兼良同様、道長様でしたら香絵様を譲りましょう。お二人はどこの御夫婦よりも似合っておられます。しかし、香絵様を他の男に奪われるのは我慢なりませんね。」

 先頭を行く道長が眼光鋭く振り返る。

「政次、お前もか。」

「はい。」

 政次の真っ直ぐな瞳に、道長は息を吐いた。

 政次も兼良も、香絵に会ったのはあの二日間だけだ。香絵と初めて出会ったあの日と、その翌日のこの町へ帰って来た日。たったそれだけの時間で、この二人にここまで言わせるとは・・・。


 まあ、道長も人のことは言えない。初日にこの町へ連れてくることを決断したのだから・・・。道長はもう一度小さく息を吐く。

「仕方ないな。香絵を見て恋せずにいられたら男ではない。

 が、問題はそこだ。最初の夜に忠勝にはよく頼んでおいたのだ。男は一切香絵に近付けるな、決して会わせるなと。」

 忠勝は忠実にそれを守ってくれている。香絵を実の娘としてまで。


 忠勝は香絵を迎え入れた日に、邸表の忌装を片付けた。咲の弔いを止めたわけではない。邸の中は忌中のままだったが、人目に触れる場所からは咲が亡くなった痕跡を全て消し去った。忠勝本人も翌日から出仕し、まるで何事も無かったかのような振る舞いだ。咲の死を知らない者は、忠勝が不幸に見舞われたなどとは思いもしないだろう。

 娘の不幸を知っていてお悔やみを言う者にも「何のことでしょう?娘は元気にしておりますよ。」と返す。驚いた相手は悲しみのあまり気がふれたのかと訝ったが、すぐにそうではないと知る。どうやら養女を得たらしい。しかし実の娘扱い。世間一般の――父親の出世の駒となる――養女ではないという意思表示だ。それを証拠に養女の護りは固く、一縷の隙もない。忠勝の娘への溺愛加減を知る者は『これは手を出してはいけないやつだ。』と分別する。『わざわざ逆鱗を触れに行って、寝ている龍を起こす必要もない。』と。


 忠勝の作り出したそんな状況の中、直接香絵を見た男はいないはず。なのだが、

「女達の口から外へ洩れたらしい。香絵を見て恋するのなら当然だろうが、誰も会ったはずはないのにこれだ。まったく、噂とは恐ろしい。」

 忠勝の娘は病弱だったため、姿を見たことがあるのは、身のまわりの世話をしていた数人の女達だけだった。そしてその死を知っているのも、ごく限られた者のみ。その者達には勿論口止めしてある。

 しかし、忠勝が香絵のために新しく雇った女の口から、香絵の美しさが外へと伝わり、噂は男達の間にあっという間に広まった。


「忠勝殿の娘御は、大層美しいそうだ。」

「不思議な衣を身に纏い、それはもう、この世の者とは思えぬ程だという。」

「病弱なのは、死神が姫君に魅せられてしまったからだと聞いたぞ。」

「いやいや私は、姫君のあまりの美しさに、死神も命を奪うことが出来ず、退散したと聞いた。」

「その様に美しい姫君ならば、一度お逢いしたいものだ。」

 云々。

 軽々しく一夜の申し込みになど行けない状況は、正式な求婚が殺到するという結果を招いてしまった。


 どうしたものかと、道長は考える。自分の屋敷へ連れてゆくのが一番だが、忠勝夫婦から再び娘を取り上げるのは忍びない。香絵のおかげで、あの夫婦は今も生きていると言っても過言ではないのだから。

『困ったものだ。いっそ私も忠勝の邸に住んでしまおうか。』

 などと頭を悩ませているうちに、忠勝の邸が見えてきた。

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