第6話

 次の日の夜遅くなって、道長は忠勝の邸へ出かけた。

 昨夜は別れてから、今日は一日中、ずっと香絵のことが頭から離れなかった。早く香絵に逢いたかった。

 しかし、留守にしていた分の仕事が溜まっていて片付けるのに時間が掛かってしまったため、こんなに遅くなってしまったのだ。



 忠勝の邸へ着くと、まず客間へ通される。

 そこで待っていた忠勝は、昨日とは別人のように顔色も良く、生気に満ちていた。

「ようこそ、道長さ・・・。」

「忠勝頼む。頼むから明日から屋敷へ出てきてくれ。」

 忠勝の挨拶が終わるのも待たず、道長は懇願した。

「私とお前が留守の間、仕事が溜まり放題だ。経理の纏め役のお前がいないとどうにもならん。」

 そんなはずはない。屋敷の経理方けいりかたは優秀だ。自分一人いないくらいで滞る訳がない。長く休み暇乞いまでした忠勝が、再び出仕し易くするための方便だと忠勝には分かっている。

「さようでございますか。しかし娘との時間があまりにも楽しいので、さて、どうしますか・・・。

 いやぁ、今日は朝から一緒に散歩しまして。食事も一緒に。

 そうそう、温室栽培の早摘み苺が手に入ったので一緒に食べたのですが、娘は苺が好きなようで、それはそれは幸せそうな笑顔で―――」

 忠勝の惚気のろけ話に、『私は今まで会いたいのを我慢して仕事をしていたのに・・・。』と道長の目が据わってゆく。

 忠勝は「ふっ」と笑いを零すと、一転、居ずまいを正して道長に向かう。

「冗談です。お心遣い有り難く、明日より勤めさせていただきます。」

 忠勝は深い感謝を込めて頭を下げた。


 道長は安堵に胸を撫で、その後改めて忠勝から今日の香絵の様子を聞いていると、茜が客間へやって来た。

「道長様がいらしたと聞きましたので、ご挨拶に参りました。」

「茜。そなた香絵の相手をしていたのではないのか?」

 忠勝が問うと、茜は顔を曇らせた。

「それが、ずっと道長様を待っていたのですけれど、顔色が悪い様なので、先程無理に休ませたのです。」

「それはいけないな。道長様、診ていただけますか?」

 道長へ振り返った忠勝は、もうすっかり父親の顔をしている。



 道長が香絵の部屋へ通る。普通、家主の許可を得て男が姫の自室へ通る時、他の者は遠慮するのが暗黙の了解。つまり、そういうこと。

 そして香絵の場合、道長が直々に連れてきた姫だ。なおさら、周囲は『そういうこと』と納得している。

 なのだが、今日は茜だけ、どうしても香絵が心配でついて来た。


 香絵の部屋の前へ来ると、茜は香絵を起こさないように、そっと襖を開ける。

 しかし香絵は、その微かな音に驚いて目を覚ました。

「ごめんなさい。起こしてしまったわね。道長様がいらしたのよ。」

 茜は香絵に柔らかく語りかけると、道長に小さな声で告げる。

「昨夜もずっとあの調子なのです。小さな音にも怯えて・・・。あれでは精神こころ身体からだも休まりません。」

 茜も忠勝同様、母親の心を取り戻したようだ。

 道長は『分かった。』と頷き、香絵の横に座った。香絵は起き上がり床の上に正座する。薄い肌衣はだきぬだけの香絵の肩に、茜が上衣うわぎぬを掛けた。

「具合が悪いと聞いたが。」

「いえ、少しだるいだけです。」

「どれ。」

 道長が香絵の後ろ頭を手で持ち、額と額をくっつけた。香絵の頬がほんのり色づく。

「熱はないようだな。こっちはどうだ?」

 胸に耳を当てる。香絵の顔は明らかに赤く染まった。初心な反応に道長も茜も『可愛らしい』と目を細める。

「大丈夫。疲れが出たのだろう。」

 茜に『心配ない。』と目で合図する。

 茜は安心して、「では、わたくしはこれで。」と部屋を出た。


「さ、横になりなさい。」

 道長はゆっくり香絵を寝かせ、自分も床のかたわらで横になる。左肘を衝いて枕にし、右手で香絵の手を握る。

「この家はどうだ?」

「はい。とても良い所です。忠勝様も茜様もお優しくて。

 茜様など昨夜は一晩中わたくしに付いていてくださいました。お話ししながら、わたくしのために衣を作ってくださったのですよ。朝にはすっかり出来上がっていて、今日はそれを着ました。」

「そうか。そういえば私も茜に衣を作ってもらったことがあるな。茜の衣はとても着心地が良い。」

「はい。」

 嬉しそうに笑った香絵を見て、ここへ連れてきてよかったと思った。

「あの頃私はまだ子どもで、茜は―――。」


 暫く道長が昔話をしていると、香絵は静かな寝息を立て始めた。

 これまで何人もの姫の所へ通ったが、こんなにまったりと時間を過ごしたのは初めてだ。目的はひとつだったから、速攻いたすことをいたして、さっさとその場を後にしていた。

 香絵の頬に手のひらを滑らせ、『姫の寝顔とは、なんと愛しく思えるのだろう。』と、初めて感じた。


 香絵の顔を飽きもせず眺めていると、風が木の枝を揺らし、かさかさっと音を立てた。その音に、びくっ、と香絵の体が反応する。

『こんなわずかな音にも怯えるのか。かわいそうに。』

「心配ない。風が木を慈しむ音だ。」

 できるだけ優しい声で言って、道長は握った香絵の手を、きゅっと握り直した。

「私がついている。安心して休んでいいよ。」

 香絵は半分眠ったままで、繋いだ道長の手を自分の頬へ持っていった。そしてそのまま深い眠りに落ちていった。

 道長もまた疲れの為、そこで朝まで眠ってしまった。



 それから毎夜、道長は忠勝の邸へ通った。香絵が寝入るまで傍らで手を繋ぎ、そこで朝を迎えることが習慣となった。

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