忠勝の娘

第5話

 此処ここ、鈴木の町は、この国の政治を司る地。国王の住む屋敷を中心に、国の運営に関わるほとんどの人が此処に住居を持っている。


 道長は自分の屋敷へは戻らず、一人の男を訪ねた。名は忠勝ただかつ。歳は道長よりだいぶ上だが、道長の信頼出来る臣下の一人だ。

 五日前の夜も、道長はこの邸を訪れていた。



「道長様、毎夜の弔問は有り難く存じますが、お忙しい御身で御座いましょう。これ以上のお心遣いはご無用にお願い致します。」

 言い回しは柔らかいが、もう来ないで欲しいということだ。意図はわかる。しかし、はいそうですかと引くことはできない。

「忠勝、そうはいかない。お前が屋敷へ出仕しなくなってから仕事が溜まる一方だ。出てくるまでは、様子を見に来るぞ。」

 道長もこちらの意思はしっかり伝える。


 忠勝は、ひと月前にひとり娘を亡くした。娘を何より愛していた忠勝の落胆は激しく、それからずっと自邸に籠もっている。

 この国では弔いに人を招く習慣はないが、道長は毎夜弔問に訪れていた。


「そのことで御座いますが、道長様。私におひまを頂けませんか。私にはもうお屋敷へ出向く、いえ、・・・生きていく気力さえも持てません。」

「待ってくれ。それは困る。お前に辞められては屋敷の経理が回らなくなる。娘御を亡くした悲しみはわかるが・・・。」

 道長はそこで言葉を切った。今の忠勝には何を言っても慰めにはならない。


 道長は娘を持ったことはないし、妻さえ持っていない。

 周囲の年配の臣下等しんからは、早く早くと急かしているのだが、道長にまだその気はない。その話になると道長が露骨に嫌な顔をするので、最近では臣下等も諦めムードになっている。

 そんな道長は、当然娘を亡くしたこともない。

 しかし、大切な人を亡くした気持ちなら知っている。悲しみに暮れ、暗い淵を覗き込んでいる人は、明るい頭上からの呼びかけに顔を上げるのも億劫なのだ。

 忠勝が、危ういながらも未だ此処にるということは、娘の七七日法要までは務めるつもりなのだろう。長くはないが、まだ間はある。今は何も言うまい。


 話の続きは帰ってからということにして、道長は五日間の予定で国境の視察に出た。

 忠勝のことは気がかりだったが、何故か視察を止めようとは思わなかった。逆に、何としても行かねばならない焦燥感を感じていた。その理由に道長は、全く心当たりはないのだが・・・。

 忠勝にはただ早まった事をせず、自分が帰るまで待っていてほしいと祈った。



 そして今日、香絵が忠勝に希望を与えてくれることを期待して、道長は忠勝邸ここへ戻ってきた。

 忠勝は道長がこの町を留守にしていた五日間で十年分も老け込んだように見えた。


「道長様、こちらの姫君は?」

 あいさつもそこそこに忠勝が訊いてきた。娘と同じ年頃の姫が気にかかるのだろう。対面に座る香絵を見ている。

「国境の近くで見付けた。名は香絵。」

 香絵の隣から道長が紹介すると、香絵が忠勝へ頭を下げた。忠勝も礼を返す。

「それしか覚えていない。何があったのか、過去の記憶を失くしているようなのだ。」

「なんと、お気の毒に・・・。」

 その声色に心からの同情がにじんでいる。忠勝が他事に感情を揺らしたことに、道長は希望を抱いた。

「それで忠勝に頼みがある。香絵を預かってはもらえないか。」


 妻の容姿が夫の沽券となり、自分の娘が出世の道具となる遠賀このくにで、他人に美姫を預けるのは、とても危険なことだ。美しい妻を得るために手段を択ばず躍起になる男もいるし、上位の男へ供するために娘のいない者が見目麗しい養女を取るのも珍しいことではない。もちろん道長は、忠勝がそんな人間でないことはよく知っている。

 だからこそ、香絵を彼に預けようと思った。


「それは・・・・・・。」

 忠勝は瞠目し、返答に詰まる。少しの逡巡の後、続けた。

「咲は私共夫婦のたった一人の娘でした。大切に育ててきました。本当に、何よりも大切に・・・。」

 声が擦れ、言葉が掠れる。

「それが、こんなに早くに逝かれてしまって。淋しくて・・・・・・淋しくて・・・っく。私共はもう生きてゆけぬのです、道長様。娘を失くしてはもう・・・もう、生きてゆけぬのです・・・。」

 忠勝は肩を震わせる。

 忠勝の隣で、道長が同席をと願った忠勝の奥方、茜が、零れる涙を袖で拭く。


 この国では身分が上の者からの依頼は絶対。即、承知の返事を返すのが当たり前。断れば役職を解かれるどころではない。罪人として牢に拘束されても仕方ない。臣下は否という選択肢を与えられていないのだ。


 それでも沈黙し返事がないのは、忠勝の、娘を想う深さが測られる。

 道長は、やはり彼等をこの世に繋ぎ止めるのは無理なのか、と落胆した。が、

「そんな・・・」

 香絵が身を乗り出して、茜の手を両手で包んだ。茜と視線を合わせた後、それを忠勝へと向ける。

「そんなことおっしゃらないでください。生きていればきっといつか良き日もあります。だから、そんな、悲しいことを言わないで。」

 涙を溜めた瞳で言った香絵を、忠勝は少し驚いた顔で見た。香絵の顔に重なるもうひとりの顔。忠勝の口からは無意識にその名が零れ出る。

さき・・・。」

 香絵に手を取られたままの茜も目を見開いて香絵を見ている。

 そして夫婦が見詰め合った。

 ややあって、忠勝は目を伏せる。溜まっていた涙がひと粒溢れ出た。

「道長様、咲は本当に優しくて良いでした。健康な体を授けてあげられなかった私共を責めることもなく、逆に気遣って。発作の度に、苦しいのは咲なのに、私共のことを心配する。

 最期も・・・別れ逝くあの時も、私共を思って、あの娘は言ったのです。生きて欲しいと。「生きていればきっといつか良き日もあります。」だからこの後も元気で長生きして欲しい、と・・・・・・。あまりの悲しみに忘れていました。いや、忘れたふりをしていました・・・。

 ・・・そうですか。・・・分かりました。ここでお断りして姫君を見捨てるような真似をしては、優しかった咲に叱られてしまいます。奥と二人で咲を追って逝こうと思っていた私共に、娘が還ってきたのですね。」

 忠勝が視線を上げて香絵を見る。その瞳は深く、篤い。

「承知しました。お預かり致しましょう。いいえ、頂きます。この姫君は、たった今から私共の娘です。大切に、大切に、お守り致します。」

 茜は香絵に包まれていた手で反対に香絵の手を包み込み、何度も何度も頷いていた。


「よかったな、香絵。今日からここが、そなたの家だ。」

 道長の言葉に香絵は涙しながら頷いて、忠勝たちに向かって両手をついた。

「よろしくお願い致します。」

「挨拶などいいのよ。さ、こちらへ。殿方には殿方の御相談がありましょう。わたくしたちは奥へ行ってお話ししましょう。」

 香絵は道長を振り返り、回答を求める。

「そうしなさい。私はまた明日来るから。ゆっくりお休み。」

 香絵は少し不安そうながらも、微笑んで頷く。

 茜は香絵の手を取り、そっとさすった。

「外は寒かったのね。こんなに冷えて。なお、わたくしの部屋を暖かくしてちょうだい。火を足してね。」

 茜が香絵から、部屋の隅に控えていた女に視線を移すと、「かしこまりました。」と女が頭を下げる。

 女は静かに襖を開け茜と香絵を先に通し、自分も部屋を出て静かに襖を閉めた。茜が香絵の手を引いて向かうのと、女は反対の方向へ歩いていった。きっと火にくべる物を取りに向かったのだろう。

 閉じた襖の向こうに遠ざかる足音を聞きながら、道長は安堵の息を吐いた。取り敢えずこれで落ち着いてくれるといい。香絵も、忠勝と茜も。


 茜は香絵の手を取ったまま廊下を歩きながら、香絵をしげしげと眺めていた。

「あなたは変わったころもを着ていらっしゃるのねぇ。」

 香絵は宿で洗濯してもらった自分の衣――身に付けたときのことを覚えていないのだからそうとも言い切れないが、これだけ体によく馴染んでいるからには、やはり自分の物なのだろう――を着ている。しかし、破れていたところを宿の女が繕ってくれて、元の型とは多少違った物になっていた。

「どこか遠方の民族衣装かしら。随分と動き易そうだから、こちらの衣装は窮屈かも知れないわね。咲の衣なら合いそうだけど、作り直した方がよいかしら。」

 茜のつぶやきに、香絵は慌てて頭を振る。

「いいえ。奥様、とんでもない。わたくしなら何でもよろしいのです。わざわざ作り直したりなさらないでください。」

「あら。母が娘のために衣を作るのは当たり前でしょう?遠慮なんかしてはいけませんよ。それに、奥様ではないでしょう。母様かあさまと呼んでくださらなくては。ね?」

「はい。」

 母と呼ぶには若すぎるように思える茜が、優しく香絵に笑いかける。

 優しい言葉が心に染みて、香絵の目に涙があふれた。

 何も分からない。道長と出会う前の事は。分からない過去も、これからのことも、考えれば不安しかない。もし道長に拾ってもらえずにあのままあそこにいたら、今頃どうなっていたか・・・。

 とにかく、不確かな存在に思える自分に、居て良い場所が与えられたことが嬉しかった。

「あらあら、どうしましょう。かわいそうに、心細かったのね。」

 茜は、香絵の涙を自分の袖で拭き、左手にある襖を開けた。

「さ、お入りなさい。座ってゆっくりお話し致しましょう。」

 香絵は頷き、茜の後に続いて部屋へ入った。


 女達が去った部屋で、忠勝が道長に問う。

「あの姫君を道長様がわざわざご自分でお連れした、ということは、私共のためばかりではないのでしょう?ゆくゆくは、ということでよろしいのでしょうか?」

「まあ、それもあるか、と思っている。昨日拾ったばかりだ。必ず、とは言えん。」

「さようで。しかし、頂戴したからには、簡単には手放しませんよ?」

「そうか、それは・・・困ったな。」

「精進なされませ、道長様。」

「ああ、そうしよう。」

 にやりと笑った道長に、忠勝がちょうど運ばれてきた徳利を取り、ずいと差し出す。道長は自分のために用意された盃を手に取った。お互いに相手の盃を満たし合って、二人同時に盃を煽った。

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