掌編「妖精さん」
ある日、帰宅して部屋の明かりを点けると、テーブルの上に奇妙な生き物がいた。
人間の形をしているけれども、身体全体が異様に小さい。傍に昨晩飲んだビールの瓶がそびえているが、背丈はそれよりも低かった。
深緑色の地味な三角帽子の下に見えている逆三角形の顔には、間隔をおいて二つ並んだ横線、ほぼ中央に一本の縦線、そして縦線の下にはまた横棒が一本。つまり、目と鼻と口。子供の落書きのような顔だ。左右にぴょんぴょんと飛び出している尖った耳が不釣り合いに大きい。
首から下の胴体へと目をやれば、間接も指もない、棒っきれみたいな手足。黄緑色の千歳飴に見えなくもない。というよりも、皮膚はまるで飴でできているかのようにてらりとしていた。身体はおよそ頭二つ分。三頭身といえば、三頭身。
その変な生き物が、部屋に入って来た俺に正対して突っ立っている。
顔のパーツが全部棒線で出来上がっているも同然だから、表情がわからない。
容姿があまりにも変ちくりんすぎるものだから、俺は驚くのも怖がるのも忘れてじっと注視してしまった。
ぼんやりとした白い照明に照らされた、狭い部屋の中に漂う沈黙。
そんな不思議な状態がどれくらい続いただろう。
やがて、生き物が水平にしていた右の腕をひょいと上げるなり
「おかえりなさい」
声を発した。
何と言ったらいいものか、とにかく、人間の声ではなかった。
いや、奴は見るからに人間ではないのだが、そういう問題ではない。
男か女かと訊かれれば、恐らく男の声だ。
が、鼻にかかったようにくぐもっていて、しかし聞き取りにくい訳ではなく、ところが妙に甲高いという、一言で表現すれば名状しがたい声だった。今まで、こんな声で喋る人に出会ったことがない。その意味において、人間の声ではないと思ってしまったのだ。
声は変だが、かけてきたのは出迎えの言葉である。
思いがけない一言に、一瞬呆気に取られた俺だったが、つい
「……た、ただいま」
応じてしまった。
すると、
「こんな遅くまでお疲れ様。仕事、大変だったでしょう。まずは座ってくつろいで」
労いの言葉を口にしながら右腕をくいくいとさせて、俺を招いた。
遭遇して何分と経っていないのに、すっかり気を呑まれてしまっていた俺。
見るからに変な生き物なのに、帰ってきた俺を労ってくれたのだ。
そう、確かに俺は疲れていた。
面倒で厄介な仕事を先輩達に押し付けられ、それを片付けるのにこんな時間まで会社に残らざるを得なかったからだ。その先輩達はといえば、皆でさっさと飲みに行ってしまったようだった。
狡い。卑怯だ。自分達の仕事だというのに。
しかし、俺は口先まで出かかった言葉をぐっと飲み込むしかなかった。
相手はみんな、先輩社員なのだから。
そうして何とかやり遂げたものの、家路を歩く足はひどく重く感じた。
帰宅したところで家族はなし、電話やメールで愚痴をこぼせる恋人も友達もいない。一人寂しくテレビを相手に酒でも飲んで寝る以外にすることもない。こんな人生に何の意味があるんだろう。今日は会社でのこともあって、ついそんなことを思わずにいられなかった。
だから、部屋に入っていきなり変な生き物がいたことよりも、温かい言葉をかけられたことのほうがよほど驚きだった。この生き物は、いったいどういうつもりで俺にそう言ってくれたのだろうか。驚きはやんわりと関心に変わっていた。
生き物に促されるまま部屋の中へ入ると、スーツの上着を脱ぎながらテーブルに向かってどっかと腰を下ろす。
すると、生き物はひょこひょことテーブルの上を歩いて俺の傍まで近づいてきた。
奴の姿をまじまじと眺めてみると、遠くから見てもそうだったが、やっぱり変。例えるなら、お祭りの屋台で売っている飴細工に似ていなくもない。色が色だから、決して食べたいとは思わないけれども。
その表情のない、落書きみたいなおかしな顔を見ているうち、俺は何か話しかけたくなり
「何で、俺が仕事で遅くなったってわかったの?」
質問してみた。
と、水平な棒線に過ぎなかった生き物の目の両端が下がり、開き過ぎた八の字のようになった。
「わかりますよ。そういう雰囲気ですから」
ごく短く、生き物が答える。
俺にそういう雰囲気がある? 仕事で遅くなったっていう雰囲気?
なんかわかるような、わからないような言い方だ。
戸惑っていると、そんな俺の胸中を察したかのように、生き物がこう付け加えたのだった。
「あなたの顔は、頑張り終えた人の顔です。今の今まで頑張り続けてきた人と、手を抜いて適当にやっていた人と、同じ顔をしている訳がないじゃありませんか。そんなの、野良猫とイリオモテヤマネコを区別するくらい簡単なことですよ」
はあ。
どっちもネコ科で、しかもイリオモテヤマネコも言ってみれば野良なんですけどね……。
その例えの良し悪しはともかくとして。
生き物は淡々と言うのだが、俺は心の中に奇妙な安らぎが生まれたのを感じていた。
きちんとやっている人とそうでない人と、同じ顔はしていない。
すごくいいことを言うじゃないか。
上司にも知られることなく不条理に他人の仕事を背負わされてしまった俺に、奴の言葉はひどく新鮮に聞こえた。
正直、会社で仕事をやっている時は思った。
誰にも認められない苦労なんて、ただの骨折り損じゃないか、って。
でも、この生き物は、俺が苦労してきたことを一発で見抜いた。
だんだんと、奴がただ者ではないように思えてきた。いや、見てくれからしてただ者ではないのだけれども。
そこでようやく、俺は最初に訊くべきであった質問を発することになる。
「訊き忘れてたんだけど、君……何者?」
恐る恐る訪ねてみると、生き物は片腕をくにっと曲げて自分を指し
「私ですか? 私は妖精です。何の妖精でどこからやってきてどうしてここにいるか、それを訊かれると非常に答えにくいので省略させていただければ幸いですが」
おい。
そこを答えてもらわなくちゃ、何者なのか全然わからないじゃないかよ。
言われてみれば、確かに絵に描いたような妖精の姿ではあるのだが。
リアクションに詰まっていると、自称妖精は不意に棒状の腕を俺に向けた。
「今のあなたはすっかり疲れています。しかし、必死に頑張ったんですから、疲れて当たり前です。頑張っても疲れないでいられる人なんて、そうそういるものじゃありません。――いいですか? 疲れるまで頑張ったご自分を、素直に認めて褒めて良いのです。そういう時というのは、ほかの誰かから認めてもらったり、褒めて欲しいと思うのが人情ですけれども」
確かに、そうかも知れない。
俺は胸中、だけでなく大きく首を振って頷いていた。
「ですが、頑張るということは、孤独なのですよ。仮に、みんなが同じだけ頑張ったら、孤独にはならないのです。なぜだかわかりますか?」
「いや、わからない……かな?」
「頑張るから、相手の頑張りが理解できるようになる。頑張らないと、相手の頑張りなんてわかりようもない。今日はあなただけが頑張った。周りの人は頑張っていない。だから、あなたは孤独なのです。でも、その孤独に怯える必要は全くありません。いっとき孤独が辛くても、積み重ねた頑張りはいつか大きくあなた自身を成長させているものです。周りの人が、いつまでもその成長に気付かない筈がありません。どんなに地位や名誉や財産のある人間も、成長を否定することは出来ないのです」
妖精の言葉にじっと耳を傾けているうち、奴の顔がだんだん歪んできた。
あれ? なんかこいつ、喋りながらふにゃふにゃになってやがる。
思ったが――違った。
妖精が変形したんじゃなくて、俺の目から大粒の涙がこぼれていたからだった。
奴の一言一言が、やたらと激しく胸を打つ。
そうかも知れない。そうかも知れない。
俺、どんなに頑張っても見てくれる人が誰もいないって、そのことばかり考えて、いつも一人で悔しがっていた。わかってくれる恋人も友達もいなくて、どこまでいっても俺はひとりぼっちだって、いつも嘆いていた。
でも、そうじゃないんだ。
そのときは孤独に感じてしまうけれども、必死に積み重ねた頑張りは決して消えたりはしない。
自分がわからないうちに大きく大きく積み重なっていて、それでも自分には見えないけれども――だけど、そうなったときには周りから見えるくらいに大きなものになっている。一歩づつ登っていく階段のように。
涙と鼻水があとからあとから溢れてきて、始末に負えない。
慌ててティッシュの箱を探し、五枚くらい重ねてやっとのことで涙と鼻水を拭き取ると――さっきまで目の前にいた、あの変な妖精の姿はなかった。
「……あれ? 妖精さん?」
部屋中を見回してみても呼びかけてみても、こだまするのは俺の鼻声だけ。
どこへ行ったのだろう。
言うことだけ言って、さっさと消えてしまったらしい。
でも――俺の胸の中は、帰ってきたときよりもずっと熱くて、すっきりしている。
そう、今日の俺、やれるだけのことをやってきた。それは誰にも恥じることはない。妖精さんが言ったように、頑張り切れた自分を認めて、褒めてやろう。
そのあと、部屋着に着替えてから飲んだビールの味は言いようもないくらいに美味かった。
よし、俺はやろう。
先輩達に仕事を押し付けられようと上司にわかってもらえなかろうと、やるだけのことをやろう。
いつか、その頑張りが積み重なる日はやってくるのだから。
ありがとう、どこからきたのかわからない妖精さん。
またいつか会うときがあったら、その時にも「頑張った人の顔ですね」って言ってもらえるように、俺はこれからも頑張っていくから。
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