創作と癒しと

神崎 創

掌編「パンダ」

 給料もらって働いているんだもの、仕事で疲れたとしても、それはある程度仕方がないと思う。

 でも、私がどっと疲れているのは、仕事がハードなせいじゃない。

 上司が私に向かって放った言葉のせい。

 それも、たった一言。


「桃井さん、うちにはうちの、やり方ってものがあるんだよ」


 上司であり社長である私よりずっと年上のオッサンの一言に、身体中のすべての力という力を根こそぎ持って行かれたような気がした。

 うちにはうちのやりかたがある?

 ふざけるな、クソじじい。

 その「うちのやり方」に対して、得意先からクレームがついたんだっつうの。

 社員の私がみたって、そのやり方はおかしい。うちの会社の都合を得意先に押し付けておいて「顧客第一」とか、どの口が言うんだと思う。

 ともかくも放置しておいたらまずいことになりそうだったので、社長に報告しつつ、さりげなく改善案を述べてみた。そう、本当に、さりげなく。

 が、さすがはねちっこい社長。私の言い回しが気に入らなかったらしく、例の一言を吐くに至る。

 顔に露骨に「下っ端のお前が余計なことを言うな」といわんばかりの表情を浮かべつつ。

 もう、唇の先端まで飛び出しかかった怒りの言葉を飲み込むのに、気の遠くなるような精神力を要した。むしろ、何とか抑え込んだだけ私は偉い。果てしなく偉い。

 代わりに昼の休憩時間、近くのパチンコ屋に駆け込むなり思いっきり叫んでやった。

 

「あんた、バッカじゃないの!? 死ね!」


 パチンコ屋ならうるさいから、叫んでも誰にも聞こえないだろうと思ったのだ。

 が、私の怨念がこもっていたらしく、叫び声は騒音を突き抜けて店員まで届いたらしい。びっくりした顔で見られてしまった。

 多少恥ずかしくはあったけど、まあほんの少しは留飲が下がっただろうか。

 そうして会社に戻り、午後の仕事に勤しんでいると、社長がふらりと傍へやってきた。

 ヒマだからぶらついているのかと思っていると、不意に


「……桃井さんも、もう少し社会ってものを学んだほうがいいな」


 顔つき、口調、いずれも超上から目線。

 俺は何でもわかっている。でもお前、何も知らないひよっこ、みたいな。午前中に私から意見された腹いせに、嫌味を言いにきたに違いない。そういうクソじじいなのだ、この社長は。人間としての器がギネス級に小さすぎる。

 さすがに、頭の血管が切れるかと思った。

 あんた、何様?

 私がいったい、何をしたって言うんですか? そりゃあ私、ただの下っ端の女性社員ですよ。でも、会社にとって良くないことになりかけていたから、やむなく伝えただけじゃないですか。あんたの経営する会社のためでしょーが! 私情も私利私欲も、これっぽっちも挟んだ覚えはありません!

 なのに、そうやってわざわざ嫌味を、それもさんざん時間が経ってから言いにくるとはこれいかに?

 怒りが脳天を突き抜け天井をぶち破り、はるか宇宙の星まで届いたような気がする。

 危うく、叩いていた電卓をぶつけてしまいそうになったが、必死に「落ち着け、私。これをぶつけたらこの老いぼれじじいは死ぬ。こんな奴を殺して刑務所に入るなんて、間抜けの沙汰だ。世界中の笑い者だ」と、自分に言い聞かせた。爆発しそうになる怒りを鎮めるのは、死ぬような思いがした。

 で、辛うじてとったリアクション。


「……そうですね」


 社長のほうを向くことなく、伝票の計算をしながら短く答えた私。我ながら、咄嗟のことにしては神対応だったと、自分で自分を褒めてやりたいくらいだ。

 すると社長、何も言わずに去って行ってしまった。私が忙しそうにしていたからか、あるいは相手にしてもらえなくて不愉快だったのか。恐らく、後者だと思う。バカなヤツだ。

 何かと面倒くさい社長だったが、私も雇われている身だからある程度我慢はしてきたつもり。

 でも、今日のアクシデントにはほとほと疲れてしまった。

 もしも社会の厳しさ検定とかいうものがあったとして、やったら合格できるかどうかわからないけど、私だって少しは理解しているつもり。

 社会っていうのは、すごく厳しい。挫けてしまいそうになるくらい。

 まあ、厳しいのは仕方がない。みんな、そうやって嫌な思いとか悔しい思いをしながらも、給料をもらうために必死になっている。そうしないと生きていけないから。

 でも、わざわざ他人を罵ったり傷つけたり突き落としたりするのってどうよ?

 それを社会の厳しさって定義しちゃうのは、なんかヘン。そこに、誰もが納得するような理由なんてないんじゃないの? 結局は個人の感情、身勝手、ワガママでしょ? どうなのよ、社長! ねぇ? 社長くらい偉くなったんだったら、わかっているんじゃないの? 俺は知っている、みたいな顔してたよね?

 退社後、てなことを考えながら歩いていたら駅に着き、改札口を通ろうとした。

 すると、いきなり「ピンコーン!」とか鳴って、行く手を塞がれてしまった。

 あ、あれ!?

 定期、一昨日買ったばかりなんだけど……。

 すぐに事務室から駅員が出てきたが、これまたオッサンのそいつはうざったそうに顔をしかめながら近寄ってきて


「定期、切れてんじゃない? さもなきゃ、ちゃんとタッチした?」


 いかにも私に非があるような口ぶり。

 予期せぬアクシデントに狼狽えまくっていた私は、定期を見せながら


「これ、買ったばかりです! 読み取りのところにしっかりタッチしたんですけど……」


 ついつい下手に。

 定期が正当なものであることを確認したオッサン駅員、無言で私の手からパスケースをひったくると、自分で自動改札機のカード読み取り部にぺしぺしと叩きつけ始めた。

 しかし、自動改札機はクイズで連続正解したみたいにピンコンピンコン鳴り続けるばかり。

 これはおかしいと思ったのか、


「ちょっと、待ってて。……あ、後ろ並んでいるから、こっちで!」


 言い捨てて、パスケースを持ったまま事務室へ入って行ってしまった。

 ややしばらく待たされたのち、やっと戻ってきたオッサン駅員は


「あれね、カードICの不具合だったみたい。違うカードに替えといたから」


 パスケースを返して寄越した。

 はあ、不良品ですか。それじゃ自動改札も通らないよね……って、ちょっと待ってよ!

 あなた、いかにも私が悪いみたいな言い方してたけど、悪いのは不良品をよこしたJRのほうでしょ! 謝んなさいよ! いや、あんたみたいなヒラじゃ納得できないから、駅長出しなさい、駅長を!

 ――などとは口が裂けても言えない、小心者の私。


「ど、どうも……」


 反射的に口をついて出たのは、どういう訳かお礼だった。

 小者社長とのやりとりでたださえ疲労困憊しているというのに、横柄な駅員によるこのアクシデントで、私はますますぐったりしてしまった。本当に、ツイてないときにはツイてないものだ。

 全身の元気が残り一パーセントくらいになっている私は、最寄りの駅で降りると真っ直ぐ帰りかけた。帰りたかった。

 が、ふと、朝家を出る前に覗き込んだ冷蔵庫の中身が脳裏を過る。

 確か、空っぽだったような?

 いやいや、食べかけのハーゲンダッツがあるじゃないか……って、そんなものが夕飯になるわきゃない。

 やむなく、足をコンビニへと向ける。疲れ切っているのに、一人断食はごめんだ。せめてお腹一杯ご飯を食べて、それから寝たい。今日はドラマの日じゃなかったっけ?

 そうしてコンビニに立ち寄った私。大好きな「とろけるチョコプリン」を発見して気分を良くし、いそいそとレジへ向かった。何かの都合で店員が一人しかいないらしく、客が並んでいる。

 だけど、今の私はイライラしたりしないよ。

 なかなか買えないデザートが手に入るんだもの、少しくらい待ってあげてもよくてよ?

 で、次の順番が私、というタイミングで前にいたお兄さんが会計を終えて立ち去りかけた瞬間。

 不意に、横からオバンがやってきてレジの前に陣取るなり


「肉まん一個とあんまん二つ、それにから揚げちゃん三つにプレミアムブレンドコーヒー三つと……ああ、おでんももらおうかしら?」


 まさかの鬼注文。

 どれも店員泣かせの要手間商品じゃないですか!

 というか、問題はそこじゃない。

 今どき小学生でもやらない横入り。堂々とやってのけるか、このババアは。私の後ろに並んでいるタクシーの運ちゃん風オッサンと、いかにもお水なお姉さまが目に入らぬか。

 私一人だったら、ぐっと堪えて何も言わなかっただろう。

 が、運ちゃんの「チッ」という舌打ち、それにお姉さまが「いい加減にしてよね」と小さく呟くのを耳にしたとき、私はとある行動を取らねばならない運命を悟っていた。どちらも「とてもお急ぎ」な方々なのだから。


「あ、あの……」


 愛しのチョコプリンを胸に抱きしめつつ、本日最大の勇気を振り絞って声を発した私。


「並んでるんですけど」


 すると。

 オバンがキッと振り返った。

 私に向けられたその眼差しに、名状しがたい憎悪が滲んでいる。


「何よ! ちょっとくらい譲ってくれたっていいじゃない! そんなに時間は変わらないでしょ!」


 逆ギレですか。

 っていうか、あなたのそのえげつない注文、十分時間がかかる内容だと思いますけど?

 仮にババアの買い物がガム一個だった、くらいにして


「ごめんね? すごく急いでるんだけど、先にお会計いいかしら?」


 笑顔でそう言ったならば、背後の二人もまだ納得したに違いない。大急ぎでガム一個買うって、どんな事情だっていうツッコミはおいといて。

 しかし、この厚かましいババアにはそういう機知も愛嬌も、微塵も具わっていないらしかった。まあ、その大迷惑な注文じゃあ、笑顔でごめんねと言われても許しませんけど。

 店員の大学生風なお兄ちゃん、対応に困ってフリーズしている。

 結局のところ、ババアは最後尾に回される羽目になった。

 というのも、彼女の横暴ぶりにカチンときたらしい運ちゃんとお姉さまが


「おばさんさあ、俺達並んでんだよ?」

「どきなさいよ! 横入りしてんじゃないわよ!」


 非難をコンボで浴びせたため、厚顔無恥のババアといえども引き下がらざるを得なくなったのだった。

 お二方の援護射撃によって本日最後の理不尽は辛うじて回避できたけれども――レジ袋を提げて夜道を歩く私は、気持ちがずんと底辺まで沈み込んでいくのを止められなかった。チョコプリンには申し訳ないけど、さっきのささやかな幸せは綺麗に雲散霧消している。

 わざわざ嫌味を言う偏屈社長に横柄な駅員、そして図々しい逆ギレババア。

 人格が犬畜生以下の生き物に立て続けにかかわりあってしまったということもある。

 でも、私がへこんでいるのはそういうアンラッキーな目に遭ってしまったことじゃなくって、もっと別のところにあるんだよね。 

 ――どうして人は、他人に対してこんなにも尖り合おうとするのだろう?

 自分を守りたいから? 自分の領域を侵されたくないから? だからトゲを伸ばすの?

 でもね――それじゃダメなんだよね。

 自分の間合いを奪われないように相手に向けてトゲを伸ばせば伸ばすほど、向こうからこっちに向けて伸ばされるトゲも長くなる。相手だって、自分を守ろうとするんだもの。

 クロスカウンターなそのトゲ、避けきれないで全部刺さっても平気なの? すごくすごく、長いんだよ? 串刺しだよ? 心に刺さってしまったら、簡単には抜けないんだよ?

 もしかして、自分には絶対刺さらないって、思ってる?

 違うよ、違う。

 相手にトゲを向けた瞬間から、相手のトゲはもう自分に刺さっている。

 最初は痛みを感じないだけ。でも、気付いた時にはすごく痛い。そしてそれはたいてい、自分で気付くよりも他人によって否応なしに気付かされる。だから、痛みも倍になる。

 だったら、トゲじゃなくって、つるんとした平面だったいいのだろうか?

 ――それもどうだろう?

 平面同士がぶつかったら、お互いに弾き合う。それだと対立しているのと同じこと。

 人間関係って結局、受け止めたり受け止められたりのギブアンドテイクがあればこそ円滑にいくものじゃないかなぁって思う。上手く表現できないけど、凹凸とかギアとか、そんな感じ? きっと、友達に訊いたらみんなが賛成してくれるかどうかはわからないけど、少なくとも反対する人はいないに違いない。

 でも、多くの人は言うんだろうな。そんなものは綺麗事、理想論だって。

 社会で上手く生きていくって、どうすればいいんだろう?

 人間関係って、どうすれば上手くいくわけ?

 クソ社長に言われたように私、やっぱり社会のこと全然わかってないのかな? 腹立たしいし悔しいけど、なんかそんな気がしてきちゃったよ。

 ああ疲れた。

 どっと疲れた。  

 どうしよう、回復の見込みがたたないこの精神的疲労感。自分の無力さみたいなものを感じるときが、いちばん堪える。といって、こんな私を優しく包み込んで励まして癒してくれる恋人もいない。

 もう嫌だ、何もかも。

 本当に辞めてしまいたい。あんなどうしようもないクソ社長の顔なんか見たくもないし。今すぐ死んでくれたらどんなに楽だろう。――ダメだ。無職の身分に転落しちゃうってば。

 どこにもやり場のない、暗い気持ちになってアパートへと戻ってきた私。

 ふと、窓に目をやると、煌々と明かりが点いている。

 あれ? 私、部屋の電気点けっぱだったのかしら? いや、昨晩寝る前に消したはず。

 それとも、誰かが入り込んだとか? 私以外に鍵の持ち主なんて、大家さんくらいだけど……いくら大家さんだって、借主の部屋に勝手に入ったりしないだろう。じゃあ、ストーカーの類? 満員電車で痴漢にすら遭わないこの私をストーキングするような変わり者がいるとも思えないけど。

 怪しみつつ、ドアノブの鍵穴に鍵を差し込むと――案の定、ちゃんと鍵はかかっていた。

 ドアを開け、恐る恐る上がり込んだ私は、部屋の入り口で呆然とした。

 突き当りの壁際に、横向きに置いているベッド。それにもたれかかるようにして、そいつはぺたりと床の上に座っていた。

 ものすごくわかりやすい、警察の車両を彷彿とさせる。白と黒のツートンカラー。

 頭の両側にそれぞれくっついている黒い半月。つまり耳。

 目が墨でぐりぐり塗ったくったようにでっかい楕円。いや、正確には目の周りが黒いのだ。

 毛で覆われたずんぐりとした身体、太くて短い手足。

 その生き物の名称を、三歳の子供だって正確に言い当てるだろう。ずばり――パンダ、と。

 そう、パンダ。

 私の部屋にどっかと居座り、お食事中。サクサクと竹を食っている。

 ええと……これはいったい、どういうことだろう?

 どこかの動物園から脱走してきて、たまたま私の部屋にあがりこんだのか? いや、鍵はかかっていたわけだし、窓だって破られていない。それに、パンダが一頭脱走したら、ニュースになっているはず。姿形は可愛らしいくせして、中国じゃ「大熊猫」とか呼ばれているし。サイズといい面構えといい、どう見ても猫じゃなくて熊の親戚っぽいですけどね。

 おいおい。

 そうするとこいつ、どうやって部屋に入って来たっていうの?

 もしかしたらこのパンダ、ご丁寧に大家さんから合鍵もらったとか――んなわけないよね。

 もう、理解不能。

 ぽかんとしたまま突っ立っていると、竹一本平らげたパンダがつとこっちを見た。


「……」


 狭い部屋の中で、でっかいパンダとサシで見つめ合っている私。

 なんなんだ、この意味不明なシチュエーションは。

 と、ちょっとの間固まっていたパンダ、不意にその片腕を動かした。

 ええ!? ひょっとして私、襲われる!? パンダって確か、人間襲うよね? 世界の衝撃映像とかいう番組で、観た記憶がある。

 ――が。

 剣士が剣でも抜くようにして、背中のあたりからすっと竹を取り出したパンダ。そうして、またもしゃもしゃと喰い始めたのだった。

 その竹、どこから取り出したんでしょうか。

 つーか、背中に竹を隠し持っているパンダとか、聞いたことがありませんけど。

 ますます混乱してしまい、どうしたらいいのかわからない。一瞬、警察に通報しようかとも思ったりしたけど「すいません、部屋の中にパンダがいます!」とか言ってみたところで「警察にいたずら電話とはいい度胸だな! 国家権力をナメるなよ!」とか怒られてしまいそうな気がしなくもない。

 すると


「……そんなところに立って、何してんだ? 座れば?」


 不意に、パンダが声を発した。

 男性の声だった。低くどすが利いていて、若い男性じゃなくてどちらかといえば四十代男性風な声。子供が聞いたら怯えてしまいそうだけど、妙に落ち着いた調子があって私は怖いとは感じなかった。

 

「あ、え、はい。そ、そうですね……」


 言われた通り、部屋の真ん中にあるテーブルの前に腰を下ろした私。

 ふう。

 今日も一日疲れたなぁ。とりあえず、ご飯を食べてシャワーを浴びてから、お楽しみのチョコプリンを食べることにしようかな、って――えええぇ!?

 パンダが、パンダが喋った!?

 パンダって、喋る生き物だったっけ?

 人間と会話してコミュニケーションするパンダなんて、テレビでも動物園でもみたことありませんけど。

 私はぎょっとした顔でパンダを見つめた。

 が、彼は相変わらずにべもないつらつき(パンダに表情なんかあるわけないけど)で、さくさくと竹を食べ続けている。

 手にしていた一本を丸々食べつくし、口の中で咀嚼していたものを飲み下すと


「……げぷ」


 軽くゲップをかましてくれた。

 で、また背中から「しゃきーん!」って竹を取り出すと、バリバリ食べ始めた。

 竹がどれだけ美味いのかはしらないけど、とにかくわき目も振らずにかぶりついている。

 その食いっぷりをじっと眺めていると、ちらと私の方に目線を向けたパンダ。かじりかけの竹をすっと差し出してきて


「……何だ、食いたいのか? ただの竹だぜ?」


 呉れるらしい。

 あ、ありがとう、ございます……。

 しかしながらこの私め、竹を生で食べるとお腹壊しますので。というか、生だろうが煮付けてようが、竹なんて食べられませんけどね。


「あ、いや、私、竹とか食べられないんで」


 やんわり断ると、パンダは竹を引っ込めて


「……だろうな」


 自分で食っている。

 態度は不愛想そのものだけど、どうやら根は親切なようだ。

 それだけのやり取りだったが、私の中でこのパンダに対する警戒心が急激に低下していったことだけは確かである。

 たかが竹一本。

 でも、自分の食べている、しかも好物(と、人間が勝手に思っているだけかもしれないけど)を何のためらいもなく差し出してくれたことに、妙な感動を覚えていた。

 今日という一日の中でたくさんの人間と接触したけれども、私という存在に対して好意とか親切とか示してくれた人は誰もいなかった。むしろ、嫌味を言われたり疑われたり、とどめに逆ギレされたり、負の態度のオンパレード。だから、私はすっかり疲れてしまっていたのだ。

 なのに、人間でもないパンダが、なりゆきかもしれないけれども、親切にしてくれた。

 心がカサカサに乾燥していた私には、すごく有難く思えた。勝手に不法侵入して食事されていることなど、どうでもよくなってくるくらいに。

 ああ、そうだ。そうだった。

 このパンダ、どうしてここにいるんだろう? よりによって、この狭い私の部屋なんかに。


「あ、あの」


 恐る恐る話しかけると、パンダは竹をかじったまま


「ん?」


 オジサンのような返事をした。


「あ、あなたは、パンダさん……ですよね?」

「……人間にはそう呼ばれているな」


 それもそうか。

 パンダが自分で「我々の呼称はパンダである! 以後、図鑑等にはそのように表記するように」って宣言するわけないものね。


「ええと、どうしてここに、いる……いらっしゃる、んですか?」


 パンダに敬語か。

 何を口走っているんだろう、私。

 肝心な質問をぶつけてみると、パンダはつと竹を口に押し込む手を停め


「……わからない」


 と、すごくわかりやすい一言で答えてくれた。いや、結局肝心な部分がまったく不明ですけど。


「はあ……」


 それ以上ツッコミようがないので不得要領に頷いた。お食事を邪魔するのも気が引けたし。

 ただし、彼は私の気持ちを見抜いたかのように、こう付け加えたのだった。


「……邪魔をして、悪いとは思っている。どこにも行きようがないから出て行けないんで、今は勘弁して欲しい。まあ、何かできることがあったらするが」


 おお、けっこう律儀な方だ。

 こういっちゃなんだけど、大きな図体で私の居場所を圧迫していること以外、これといって迷惑じゃないといえば迷惑じゃない。大人しく竹を食べているだけだし。どうやらオスみたいだから、着替えをするときにちょっと困るかなとか思ったけど……相手はまあ、パンダだ。彼の関心のほとんどは竹にあるんだろうし、私の下着姿や裸なんぞに興味をもつとも思えない。

 できることはする、なんて協力的なことを言ってくれたのは嬉しいかも。

 今どきの人間社会じゃ、その言葉を聞くのはすごく難しいことになってしまっている。

 それだけでも十分な気がする。


「あ、まあ、私は別に……。お困りのようですから、とりあえず、お気の済むように」


 とまで言ってからふと、私はとあることに気付いた。

 パンダさん、身体中が白と黒の毛に覆われている。

 チンチラのうさぎさんとかアルパカさん的な「もっふもふ」感はないけれども、ことのほか毛並みがきれいだったりする。野生のパンダは地べたを転がったりしてドロドロになってたりするが、いま目の前にいるパンダさんは正真正銘の白黒。買いたてのぬいぐるみのよう。

 ぬいぐるみ。

 そうか、ぬいぐるみか。

 なんだか、でっかいぬいぐるみに見えてきたぞ。

「きゅっ!」って抱き付いたら、さぞかし心地よいんじゃないだろうか? いや、意表を衝いて剛毛かもしれない。だったら、頬ずりしたが最後、肌が傷ついてしまいますけど。

 軽くためらいはしたが、すでに私の中に「この大きなぬいぐるみに抱き付いてみたい」という衝動が雲霞のごとくむくむくと湧き起っていた。


「あ、あの、じゃあ……一つだけ、お願いしてもいいですか?」

「ん?」

「ちょ、ちょっとだけ、抱き付いてもいいですか?」


 また背中から新しい竹を「しゃきーん!」と取り出したところで、動きを停めたパンダさん。

 動物の種類によっては、触られたりするのを嫌がるのもいる。もしかしたら彼にも「おいおい、それは勘弁してくれよ」とか断られるかもしれない。まあ、それはそれで仕方ないとは思いますけど。

 が、パンダさんはすぐに


「……ああ。別に構わないぜ。好きにしな」


 事もなげにOKしてくれた。

 ……え、マジ?

 いいの?

 パンダさん、太っ腹! っていうか、本当に腹回りが太いよね。


「じゃ、じゃあ、失礼しまして……」


 私はパンダさんににじり寄ると、その大きな身体、脇腹のあたりからそっと抱き付いてみた。

 頬や首筋にあたった感触は意外にも――ふさふさ、だった。剛毛じゃない。

 胴体に両腕を回すと、やっと届くかどうかというくらいに太い。

 弾力があって、ほんのりと温かくて、えらく心地よい。

 これはもう、真夏日のエアコン、冬のストーブのような気持ちよさだ。

 あまりにも素敵すぎる感触に


「ぉふ……」


 思わず声が漏れた。

 私に抱き付かれているパンダさん、大して気にする風もなくひたすら竹を召し上がり続けている。竹をかじるたびに身体から伝わってくる、小さな振動。

 私の脳裏にふと、幼かった頃に両親に抱っこされた記憶がよみがえる。

 父や母の胸にぴたっと顔を付けると、心臓の鼓動や呼吸する肺の収縮が感じられたっけ。よくわからないけど、あの感じは私を妙に安心させたものだった。

 いま私が抱き付いているパンダさんには、両親になかったものがある。

 このもふもふ感。

 なんともいえない、毛並みの優しさ。

 頬ずりすると、たくさんの毛が強すぎず弱すぎず、ちょうどよく私を撫でてくれるのだ。

 全身で柔らかな感触を受け止めているうち、気持ちが安らいでいくような気がした。

 器の小さい頑固社長に横柄な中年駅員、それに逆ギレの厚かましいババア。

 一日のうちにたくさん嫌なことがあったというのに、それらがだんだんどうでもいいことのように思えてきた。恐るべし、もふもふ。

 明日も明後日も、そしてその次の日もずっと、たくさんの人間がいる中へ出ていけば、また今日のように嫌なことに出会うだろう。もっともっと嫌なことだって、あるに違いない。

 でも、こうして温かくて温かいもふもふに優しく癒されたならば――また、頑張っていけそうな気がする。

 仲の良い友達がよくマッサージに行くって言ってたのが、何となくわかったかもしれない。

 人の心を癒すものは、言葉だけとは限らないんだよね。

 すうっと気持ちが軽くなったとき、思わず口をついて出た言葉がある。


「……ありがとう、パンダさん」


 そう。

 今日の私、一度も言ってなかった。

 ありがとうっていう、感謝の言葉。

 人は疲れすぎてしまうと、ありがとうって言えなくなる。この世の中、疲れすぎた人達ばかりが集まっているから、なかなかありがとうが言えないし聞こえない。だから、ぶつかり合ってばかりいる。

 ありがとうって言われて嬉しくない人なんて、一人もいないと思う。たぶん。

 今日の私、他の人のぎすぎすに引き摺られて、一緒になってぎすぎすしちゃってた。

 明日からは一緒になってぎすぎすするのはよそう。そうやって一人で暗い気持ちになって一人で落ち込んでいたら、自分が辛いだけ。他の人がどうとかじゃなくて、大事なことは自分がどうするか、だから。

 パンダさんは相変わらずもしゃもしゃと竹を食べていたが


「……なに、そんなんでいいならお安いご用だ」


 短くそう言った。

 でも、私の気持ちをわかってくれたような、そんな気がした。

 感情表現が下手な人みたいに不愛想だけど、ふわっと受け止めてくれてるって、わかるよ。いまの私なら、わかる。


「ねぇパンダさん、もう一つ、お願い」

「ん?」

「どうか、ずっと、いてください。こんな家でいいなら、ずっといてください。お願いします」


 気が付けば、そんなお願いを口にしていた。

 するとパンダさん、その大きな手でそっと私の頭を撫でて


「……そう言ってもらえるなら、ありがたいことだ」


 今日はじめての「ありがとう」を言ってもらえた。

 ちょっとだけ、泣きそうになった私がいた。 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る