第17話
それからしばらくして、瑠奈が言ったことは、それに劣らず衝撃的だった。
「情報流出の犯人が分かった」
瑠奈はにやりと笑った。
「データベースへのログを観ると、ルート権限でアクセスされていた形跡があった。それを使えるのは、真理衣だけよ」
そして真理衣を見やった。
「なんだって? ほんとうなのか……!」
真理衣は無表情だ。
「情報を渡す手引きをしたのは、真理衣なのか」
真理衣は仮面のように反応しない。
「……」
「きみがやったのか」
「そうよ」
真理衣はようやく口を開いた。
「大臣の娘が、スパイに手を貸すだなんて」
河田の言葉に目をかっと見開き、正面を見据える。
「スパイ? わたしは、特定の国や企業だけがケツァールを独占するわけにはいかないと思ったのよ」
「どういうことだ」
「量子コンピューティングは、核エネルギーやバイオテクノロジーのように、社会に巨大な影響を及ぼす。いえ、人間社会だけじゃないわ。物理法則に影響を与えかねない事態を引き起こすのが判明した以上、このまま闇雲に推進するわけにはいかない」
「……」
「わたしたちはここで立ち止まり、引き返すべきよ。自然の
「……そんなちょーイケてないこと、お断りよ」
瑠奈は吐き捨てた。真理衣は瑠奈を指さして、言った。
「降ってわいたような知能をもてあそぶばかりのあなたには、分からない。わたしたちは『神』の被造物であること。物理学や数学を研究していることと、それは矛盾しないのよ」
真理衣のジャケットの内ポケットから、なにかが見え隠れしている。
ネックレスか数珠のようだが、付属しているのは……十字架だ。
「ロザリオか。きみがカトリックだったなんて、知らなかった……だから『神』と戦うわけにはいかない、というのか」
真理衣は頷いた。
「あなた方には分からない真理を、わたしは得たのよ。神の啓示を……」
うっとりとした表情で、自分を抱きしめる。
「……なんのことだ?」
「あのときも、ぼくを巻き込もうとしたんだな」
「そうよ」
そして瑠奈を睨んで
「瑠奈ちゃん。あなたは不幸なのよ」
真理衣は言った。
「そんなことは分かってる」
「生まれや育ちのことじゃないわ。今のあなたの状況が不幸なのよ」
遠くを見るような目つきになる。
「パパが言っていた。パパはクルマが好きだった。エンジンだけが強力でも、クルマはきちんと走ることが出来ない。強力なエンジンにふさわしいシャーシーやタイヤ、ブレーキ、それに乗り手。未熟な乗り手が操るなら、クルマは走る凶器になる。『文化』に制御されない知能だけが卓越しても、人間は完全になれないのよ。偏った才能、『知恵』によって制御されない能力は、ひとを不幸にするだけ」
瑠奈はあからさまに馬鹿にする表情をした。
「……真理衣、じゃあ、あんたは量子アルゴリズムを満たせるソースコードが書ける?」
瑠奈は嘲った。
「……」
「数学は誰にでも平等だってのは、嘘なの? 都合が悪くなると、育ちの良さを持ち出すの?」
そして瑠奈はにやりと笑った。
あからさまに侮蔑した笑いだった。
「妬いてるの? ひろちゃんとのこと」
動揺が真理衣を襲った。どす黒い感情が、心の奥から噴出した。
「この……」
続けて英語で罵り言葉を口にした。雌犬という意味だ。彼女がその言葉を口にしたのは、産まれて初めてだった。
(なんてことを……)
真理衣は、自分の放った言葉に戦慄した。
頭を抱えて、うずくまった。
「……とにかく、出るところに出て、全てを話してくれ。いいな」
河田は真理衣の肩を両手でつかむ。
「明日まで待つ。明日のうちに自首しなければ通報する。きみを警察に売るような真似は、したくないんだよ」
黙って頷いた。
「ぼくらは帰るよ。きみも気を落ち着けてくれ」
研究所を出たとき、不意に、瑠奈は言った。
「危ない!」
立ち止まった。
ふたりの面前を、猛スピードで車が通り過ぎた。建物の影になるところに身を隠す。車は轟音を立てて壁に激突する。
スクラップになったクルマの上に、破片や埃がパラバラと降ってくる。
横転し、前部は原形をとどめないほどひしゃげていた。その車には、見覚えがあった。
「まさか……!」
部屋を出て、山下真理衣は、駐車場に駐めてあったBMWに乗り込んだ。このまま警察に出頭するか、いったん家に帰って家族に打ち明けるか、決めかねていた。
このクルマは、もともとは父親のものである。80年代に生産された古いものだったが、子供の頃から家族で乗っていて愛着があったので、譲ってもらったのだ。
徐行して発進し、いつものように、研究所の敷地を出ようとした。
(これから、警察に行くの……)
フロントガラス越しに正面玄関が見える。視界に写ったのは、瑠奈と河田だ。家に帰ろうとしているのか。
どくん。
そのとき、心臓が大きく収縮する。
(ここで、ハンドルを切れば……)
よぎった考えを、即座に打ち消す。
しかし。
不意に忘我の感覚が湧き上がってきた。身体の芯がふんわりと暖かくなった。
――あのときと同じだ。
(どうして、こんなときに)
ふわっと意識が浮遊する。運転中なのに、いけない。
「……!」
クルマがいつのまにか、ふたりの歩いている方向へ向いている。
あわててブレーキを踏んだ。つもりだったが、踏んだのはアクセルのペダルだった。
真理衣の背筋に寒気が走った。
BMWは急加速した。がくん、とショックでシートベルトが食い込む。
――用済み
そのとき、不意にそんな考えが浮かんだ。いや、思い知らされた。
用済みにされたのはこの国か、それとも情報を売った国か。
いや、「神」からなのか……。
真理衣はどうにかブレーキを踏み、ハンドルを切った。
BMWは金網を目前にしてUターンした。タイヤに引っかけられた樹木はなぎ倒される。
車体は遠心力で大きくバンクし、片輪が宙に浮く。真理衣はアクセルをさらに踏み込む。質量1500キロの車体は、瑠奈と河田に向かって、加速しながら突っ込んでくる。
(……!)
「ひろちゃん、危ない!」
ふわっと身体が動いた。
瑠奈が河田を突き飛ばしたのだ。
紙一重のところで、BMWの車体は河田の脇をすり抜けていき、そのまま、はるか後方の建物に突進していった。
「……!」
真理衣が事態を把握したときは、もう手遅れだった。
彼女が最後に見たものは、視界いっぱいに広がる、建物の壁だった。
周囲に衝撃音が響き渡った。
本館の建物は関東大震災直後に「同じ規模の地震が襲っても倒壊しない」というコンセプトで設計され、80年以上の時間を経過した今でも頑健そのものだ。
剛構造の建物の壁は衝突のエネルギーを受け止め、BMWにそのエネルギーを送り返した。BMWは原型をとどめず破壊された。
車体はタイヤを空に向けてひっくり返り、運転席のあった箇所は跡形もなくひしゃげ、残骸の隙間から血が流れていた。
目前の事態を理解したとき、河田は叫んだ。
「山下さん!」
救急車が到着すると、現場はブルーシートで覆われ、救急隊員以外の視線は遮られた。
警備員が駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか?」
「はい……!」
「あなたがた、怪我はないようですね」
「とりあえず」
現場から離れて
「どういうことだ……」
瑠奈はぽつりと言った。
「未来が見えた。真理衣のクルマがこっちへ向かって突っ込んでくるのが」
「見えるのか?」
「言ってなかったけど、最近、5分10分先の未来が見えるようになった。以前もぼんやり分かることはあったけど、今はほとんど正確にわかる」
「……それって」
河田の脳裏に、ひとつの言葉が浮かび上がった。
ラプラスの
19世紀フランスの物理学者、ピエール=シモン・ラプラスが提唱した概念である。
ある瞬間においてすべての物質の状態を把握し、解析するだけの能力の知性が存在するなら、この知性にとって不確実なものは何もなくなり、未来に何が起こるかを間違いなく知ることが可能になる。
このような超越的知性を持つ存在をもってすれば、この世の全ての事象は予測可能である。
しかし、そんな「悪魔」は量子力学の「不確定性原理」によって否定された、はずだった。
20世紀以降の量子論の世界観によって葬られた19世紀の悪魔。
しかし、その量子力学を応用した量子スパコンが極めて大きな計算リソースを持つことで、近似的な――あくまでも近似的だが、可能になってしまうと言うことなのか。
なんたること――
真理衣の事故は、現職閣僚の娘であり若き女性科学者の死として大きく扱われた。しかし、単なる運転ミスによる事故とされ、彼女が関わっていた諸々のことは、表向き、なかったことにされた。
葬儀の次の日、文部科学大臣――真理衣の父が、不意に研究所へやってきた。私人として、のようだ。
「このたびは、お悔やみ申し上げます」
河田は頭を下げた。彼は娘の最期の有様も、その前どんな話をしていたかも知らないだろう……。
「見せてくれないか」
案内されて、量子スパコン「ケツァール」が設置されているサーバールームに入る。完全に調節された空気が彼を包む。
体育館ほどの広さを持つ部屋には、ずらりと箪笥ほどの大きさのラックが並んでいる。
「ひとりにさせてくれ……」
彼は涙を流した。
ひとしきり泣いたあと、顔を上げた。
「これが、真理衣の夢みていたものか! 素晴らしい! なんと素晴らしいんだ! 我が国はふたたび電子立国となりトップに君臨するのだ! 年寄りにやるカネで量子スパコンを作れ! 二位じゃダメなんだ! 選挙? 有権者? 世論? 国際関係? そんなものすべてどうでもいい! 物理法則を変えるのだ! 変えろ! 変えろ! 我々を縛り続ける、あまりにも不自由な物理法則から解き放たれるのだ! はーははははーはっはっは……はぐぅ!!」
血管がぶっちぎれた。仰向けにぶっ倒れ、頭によって強打された床はお寺の鐘をついたような音を立てた。
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