第16話

 帰国した瑠奈たちを待ち受けていたのは、不穏な話だった。

 しばらく前。

 量子スパコン「ケツァール」につながるPCに不審なアクセスログがあったのを、研究者のひとりが発見した。

 今やサイバー攻撃は日常茶飯事だったので、最機密の情報はネットからは遮断された場所に保管するのが常道だ。

「ケツァール」も、ネットからは繋がれていない。光ファイバーケーブルで接続されている数台のPCだけがアクセス手段だ。

 この研究室に、スパイがいるのか……。

 つづいて、大沢の研究室が何者かに荒らされたという報せを受けた。

 警備システムがハックされ、予備システムに切り替わるわずかな隙を狙って侵入され、資料が盗難された。

 ただの泥棒の仕業ではないことはあきらかだった。

 続いて起こったことはさらに衝撃的だった。

「神の言語」がSNSに流れたのである。

 それは、ネットを遮断して大規模な情報統制を行っている国だった。

 河田にはすぐに分かった。どこから流出したのか。

 恐らく、大沢の研究室から持ち出されたのだろう。

「乱暴なことしやがる」

 河田は言った。

 海の向こうでは、瑠奈のような存在が大勢現れているのか。

 不穏な予感はいよいよ強くなったが、それを証明する事件はすぐに起こった。

 昼休み。

 学食へ向かう河田に、さりげなく寄り添ってきた若い男がいた。

 一見、学生のように見える。大学自体は結構な大所帯なので、学生全員の顔など把握は出来ない。

 いちばん大柄の男が、耳元でささやきかけた。

「河田宏典特任教授、ですよね」

「そうですが」

「お話がしたいのですが……科学以外のお話を、ですよ」

 河田もすっかり「有名人」になったので、この手の男はいないでもない。もっとも、かれらが聞きたがるのはおおかた、瑠奈のことなのだが……。

「すみませんが、忙しいので……」

 慇懃に辞去しようとすると、すかさずふたりの男が河田の両脇を固めた。

「こちらへ」

「おい……!」

 ジャケットの男が内ポケットから何かをちらつかせる。

(!)

 次の瞬間、腰に激痛が走り、身体の力が抜けた。

(スタンガンだ!)

 気づいたときには、遅かった。

 肩を組まれ、身体を密着させられた。これでは逃げられない。

 校舎の裏手にある駐車場に、出入り業者の商標が描かれたバンが止まっている。後部はスモークガラスで、中の様子はうかがえない。

 ドアが内側から開く。

 あくまでさりげなく、乗り込まさせられた。

 後部座席で男ふたりが、河田を挟む形になった。

 隣の男も、ブルゾンの懐が不自然に膨らんでいる。怪しい動きをすれば、そこにぶち込まれている鉄塊が火を噴くはずだ。

 もうひとりは、あくまでさりげなく密着しながら、たくみに河田の身体の自由を奪っている。

「どうするんだ」

「すぐにわかりますよ」

 外の景色の分からない中で、1時間ほど走っただろうか。

 降ろされたのは、建物の中だった。

 倉庫やガレージのようにがらんとしている。

「暗いので、足下に気をつけて下さいね」

 ドスの利いた口調で注意を促される。

 部屋の中に入れられると、扉が閉まった。ごうごうという音とともに、床面がすうっと上昇する感覚があった。エレベーターだ。貨物用のものらしい。

 エレベーターは停止し、ドアの外へ引きずり出された。

「どこなんだ、ここは?」 

「じきに分かります」

 窓は閉ざされていて、外の様子は分からない。

 河田の右側にいた男が答えた。どうやら彼がリーダーらしい。

 放り投げられるように、ソファに投げ出された。舞った埃が容赦なく鼻孔に飛び込み、くしゃみが立て続けに3発出た。尻には固い感触。どうやらバネがへたっているようだ。粗大ゴミだったものらしい。ゴミの集積所なのか。

「居心地はよろしいかどうか分かりませんが、せいぜい、くつろいでいてください」

 くつろげるはず、ないじゃないか。

 周囲には河田を拉致した男たちが、一分の隙もなく監視していた。みな、サングラスをかけていた。恐らく、視線を気取られないためだろう。

「ぼくに、何の用だ」

「先ほど申し上げたとおり、ビジネスの話ですよ」

「量子スパコンか」

「そうですね。ハードの理屈は分かりますが、あなたがたが達成したパフォーマンスが、どうしても再現できないのですよ……そうそうたる頭脳が総力を結集しても、その手がかりすらつかめない有様。我が国で一番有能な科学者でも、どんなからくりなのか見当もつかない、と嘆いておりましてね。このままでは仏作って魂入れず、ですよ。われわれは、魂が欲しいのです」

「……」

 そこまで、分かっているのか。

 この男たちの背後にいるのは、どうやら国家的な組織らしい

「あんたら、あの国か」

「……すぐに、分かりますよ」

 男は言った。

「あなたが3年前に発表した論文を読みました。脳内に異質な文法生成回路を持つ存在と、その可能性。

通常の人間が理解し得ない認識に至る

 そしてその言語構造は、あなた方が開発した量子スパコンの機能と、密接に関係しているということ。

「わたしたちの国には、この国の10倍の人口がいる。しかし、彼女のような能力を発揮できるものは、いまだに発見されていない」

 だから、あんなことを。

 国家機関が絡んでいるのか。ならば、自分の叶う相手ではない。

 ひょっとしたら、もっと荒っぽい方法を使ったのかも知れない……想像したくないが。

 それとも、河田が瑠奈に巡り会えたのは、奇跡だったのか。

 唇をゆがめた。

「あなたがたは、この研究が秘めている重大な可能性について、いまだ気づいていないようですね」

「重大な可能性?」

「文字通り、世界を揺るがす可能性ですよ」

「……ぼくは一介の研究者だ。そこまでは知らない」

「あなたで分からないなら、瑠奈さんにも、ご協力願わなければならないかもしれません」

「……!」

「やめろ!」

 叫んだが、観念したとき、視界がブラックアウトした。

 悪寒のような気持ち悪い感触が、全身を走った。

 浮遊する感触だけがあった。眼を開けたが、まぶしすぎてわからない。やがて目に光が慣れ、周囲がどこだか分かった。

 そこは、大学のサーバールームだった。

 拉致されたときの服ではなく、ぶかぶかの黒いスーツを身体にまとっていた。自分のものではない。

 下着までぶかぶかだ。

 どろどろしたものが床に散らばっていた。それは、ひどく不潔なもののように思えた。

悪臭に顔をしかめた。

 目の前に、瑠奈が立っていた。河田は我に返った。

「おれ、逃げ出せたんだ? なにが起きたんだ?」

 瑠奈は黙って微笑んだ。そして口を開いた。

「量子テレポーテーション」

「なんだって? それはあり得ない……」

 河田はうめいた

 量子テレポーテーションとは、量子もつれの状態が空間を超えて転送されることで、その原理は量子コンピュータと同じである。

 しかし、テレポーテーションのような現象は、量子的スケールの存在において発生するものであり、日常生活のような古典力学が支配する巨視的な状況で発生する可能性は、ほぼない。

 その確率が操作できる、としたら。

「なぜ……?」

「量子テレポーテーションは、物体そのものを瞬間移動させるのではなく、その量子状態を空間移動させる。ちょうど男がこの部屋に押し入ってきた。大男だったから、ちょうどよかった。ひろちゃんの肉体は、その男と入れ替わって合成されたのよ」

「……」

 足下にこぼれている気味の悪い有機的な物体は、その男のなれの果てだったのか。この男が転送された向こうはどうなっているか……想像したくもない。

 瑠奈は続けた。

「みんな、量子コンピュータの、本当の可能性を知らないのよ」

 量子コンピュータは、計算リソースを他の宇宙から持ってきている――ということは。

 世界のパラメータである物理定数、物理法則が変わってしまう、ということだ。

 量子テレポーテーションは、ほんらい微視的な領域でしか観測されない事象が、巨視的な次元で実現された、ということである。

 しかし、平行世界の法則を持ってくることが出来ることが判明した。量子効果の極端に大きな世界の「法則」を持ってくれば、人間を量子テレポートションさせることも可能、ということなのか。

 物理法則そのものが変わってしまう。

 それは、シンギュラリティよりすごい、そして、恐ろしいことだ……。

 数日経って。

 某国大使館員の何人かが、「不適切な活動」のため好ましからざる人物ペルソナ・ノン・グラータと認定され、国外退去処分に遭ったというニュースを知った。

 そのうちのひとりは、あのとき倉庫で見た顔だった。

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