第15話
世界的なIT企業が出資する財団の肝煎りで、瑠奈は海を渡ることになった。
プリンストン高等研究所に呼ばれることになった。
研究所に所属する超ひも理論や量子重力理論の泰斗と意見を交わし、量子スパコンプロジェクトの進展に当たって有益な示唆を得ようという意図だった。
財団が差し回したプライベートジェットに乗って、羽田空港から出発する。
「羽田空港って、世界一着陸料が高いんじゃなかったか。時は金なり、か」
機内ではフルコースがサーヴされる。
「すごいな」
瑠奈がふと窓の外を見やる
「どうした」
「気になる。だれか、つけている」
「……空の上なのに?」
青い空を背景として、雲が見える。むくむくと成層圏まで盛り上がった積乱雲だ。
「ただの入道雲だよ」
河田は笑った。たしかに、雲の凸凹は、なにかの顔に見えなくもなかったが。
しかし瑠奈には、まったく違ったものが見えていた。なにかがこの飛行機に、平行して飛行しているのを――
東海岸では、世界中から選りすぐられた天才が集まる高等研究所で講演を行った。
瑠奈へ、我先に握手を求めた。
続いて、西海岸のシリコンバレーへ飛ぶ。スケジュールに余裕はなかった。
「ナイス・トゥ・ミーチュー」
IT企業の本社で、トーマス・シュテルマンは瑠奈へ握手を求めてきた。
世界屈指の富豪と言われ、総資産はおよそ1兆ドルと推測される。世界中にメンバーを持つSNSの創始者であり現CEO。
彼が動かせるカネは、並みの国の国家予算にも匹敵する、と言われる。
最近では宇宙旅行や深海探査のプロジェクトに多額の投資を行い、しばしば世間を驚かせている。宇宙太陽光発電プロジェクトも、そのひとつだ。
その彼の次のターゲットが、どうやら量子スパコンのようなのだ。
「きみに見せたいものがある」
研究所でシュテルマンは瑠奈を案内した。
プロジェクターがスクリーンに画像を投影する。
石ころだらけの荒野を6輪のタイヤをはいたマシンが、ゆっくり進んでいる。
同じ姿のマシンが出来た。
「フォン・ノイマン・マシンだ」
フォン・ノイマン・マシン。自らを複製できる機械のことだ。
「すべてを複製することはまだ出来ないが、ボディやシャーシなどの部位なら複製が可能なんだ。電子回路などの供給を制御することによって、増殖を制御するようになっている。完全な実用化まで、あとワンステップだ」
実用レベルに達すれば宇宙太陽光発電プロジェクトも、より大規模に推進できる。
「それにはドクター・ルナの開発した量子スパコンによるシミュレーションが不可欠だ」
「なるほど」
「言葉と同じだよ。フォン・ノイマン・マシンの振る舞いは再帰的なんだ。言語の構造が分かれば理解も出来る。マシンを動かしているのはプログラミング――そう、言葉だからね」
「次に、もっと面白いものをみせよう。こちらへ」
歩いていった。
そこはまるで水族館のようで、巨大な水槽の中には、イカの群れが泳いでいる。
「これは」
「ある研究所で開発された、生体量子コンピュータだよ。イカの一種を遺伝子操作した。発光器官と、眼球の水晶体を量子偏光器官に流用したんだ。
データを読み出すにはこれを使う」
イカたちは、プローブのようなものを引きずりながら泳いでいる。
「超伝導量子干渉計を脳に組み込んである。イカ《Squid》にはイカ《SQUID》を、ということだ」
下手な洒落にぎこちなく愛想笑いをした。
「生物細胞を3Dプリンタで積層し、組織を再現する
これらの技術を組み合わせれば量産が出来る。いや、増殖だな。生物だから」
シュテルマンが言ったことは、さらに想像を絶していた。
「現在、このイカのDNAをバクテリアに組み込む研究をしている。細胞の一つ一つが量子ビットを処理する能力を持つ。こいつを
自ら増殖する量子スパコンのできあがりだ。
「あとは瑠奈くん。きみが開発したアルゴリズムさえあれば、この地球上の情報をすべて計算し尽くすことも可能だ」
「量子スパコンでは無味乾燥だ。いい名前が欲しいところだ」
「そうだな……『ケツァール』というのはどうだろうか?」
「ケツァール……たしか、そんな名前の鳥がいましたね」
河田はスマホで検索し、画面にケツァールを映した。
「和名はカザリキヌバネドリ。中南米に分布し、古代アステカでは農耕にして創造の神、ケツァルコアトルの使いとされた。量子(Quantum)と同じく「Q」で始まるし、それに、緑色に輝く羽の色は、レーザー光を彷彿とさせるじゃないか」
シュテルマンはさも満足げに頷いた。
同じ頃。
山下真理衣は、量子脳研究所に残っていた。
瑠奈も河田も海外出張中なのに。
自分は、この研究所に残っている。
去年まで、瑠奈が来るまで、この研究所の主役は自分だったはずだ。画期的な理論を打ち立てたはずなのに、その手柄は瑠奈の元へ行ってしまった。
わたしは取り残されたのか……。
もやもやする気分の中で、瑠奈が発表した論文を読んでいた。
量子コンピュータの性能を引き出す画期的なアルゴリズムについて
(これは……!)
引っかかるところがあった。
真理衣の理解で正しいかどうかは、確証が持てない。
しかし、この予想が当たっていたら……
真理衣は悪い予感がした。
ソースコードも「人間」が理解できるものではなかった。
瑠奈の書いたソースコードは「ひばり」によるコンパイルを経て、実行可能なものになる。
その前に
嫌な気分が続いていた。
真理衣はもやもやを振り切るかのように、自室のピアノに向かった。
弾くのは久しぶりだったが、指はじきに動きを思い出した。
モーツァルトのピアノソナタ、イ短調K310。「ピアノソナタ第8番」と呼ばれているものだ。
ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト。音楽の世界で「神童」といえば真っ先に名前が出てくる人物だ。父親の英才教育によって幼い頃から才能を開花させ、綺羅星のごとき作品の数々を残して、早世した。まるで天から遣わされて、すぐにいるべき場所に戻ったように。
わたしも「神童」だったはずだ。
幼い頃有名な指揮者が彼女の演奏を聴いて、こういったという。
「あなたが本格的に音楽の道に進めば、10代のうちにショパンコンクールで優勝できる。世界一のピアニストになれる」
しかし、自分は研究の道を歩んだ。
迷いはなかった。
自分の能力が十全に生かされるのは、研究の世界だと確信していたからだ。
音楽の世界は「古典」で完成され尽くしている。演奏者は、それを再生するだけの世界だ。そこに入るよりはるかに意味のある行為だと思えたからだ。
しかし――
わたしはモーツァルトではない。サリエリだったというの?
そんなばかな。
黒い霧が脳裏から去らない。
わたしにないものを、瑠奈は持っているという。
「神の言語」
彼女の脳に刻まれた高次元の言語、
そんなはずは……ない、はずだ。
あんな子に、「神」の福音があるはず、ないじゃない。
恩寵はわたしにこそ相応しい。
あんな子に、わたしたちがずっと丹精込めて育ててきた花園を荒らされるのは、たまったもんじゃない。
瑠奈、あなたは何を考えてるの? 何をしようとしてるの?
第3楽章に入る。
指の運びとともに、彼女の思考も疾走した。
ある言語学者が「音楽とは脳にとってのチーズケーキに過ぎない」と言っていた。
自然には存在しない、人間の精神機能の敏感な部位を、心地よくくすぐるために精巧に作られた、脳のジャンクフード。
――違う。
音楽は天の旋律であり、神の恩寵だ。断じて薄汚い灰色の神経細胞の塊に宿っているものではない。
瑠奈。あなたの脳みそがどんな構造でも、所詮人間の持ち物。神と直接取引できるなんてあり得ない
(神よ!)
「天上の旋律」をみずからの指で再生する恍惚。
そう。この世は「神」の夢だ。
真理衣は「真理」に触れた、と確信した。
激情が背骨を貫く。
演奏が終わった頃、彼女は、果てていた。
帰国したとき、河田は山下真理衣に呼び出された。
「何の用ですか」
「お食事に行きませんか。ふたりだけで」
「……どういう風の吹き回しですか」
そういえば今日の真理衣は、ずいぶんめかし込んでいるようにも見える。
「瑠奈に連絡していいかな」
「構いませんよ」
スマホを取り出し、電話をかけた。
――今日、ちょっと遅くなっていいかな。約束反故にして申し訳ないけど。
――真理衣でしょ。
河田は息をのんだ。
――そうだよ。
――行ってらっしゃい。早く帰ってきてね。
山下真理衣の運転するBMWに乗って、湾岸のホテルに乗り付ける。
予約を入れていたのは、最上階のレストランだ。
ふたりは個室に案内された。
「予約していたんですか」
うなずいた。
「今日は河田さんとふたりきりで、お話がしたいんです」
訝しかった。
次々に運ばれてきた料理も、高級だというワインの味も、まったく記憶には残ってない。
一通り片付いたところで、真理衣は本題を切りだした。
「河田さん」
真剣な表情だ。
「……どうしました?」
「単刀直入に言います。わたしと、結婚して下さい」
そういって、真理衣は河田の胸に寄りかかった。
「えっ!?」
とっさに払いのける。
「ばかなこと言うなよ」
「彼女とは別れて、わたしと一緒になって」
「それはできないよ」
「あなたが彼女と結婚したのは、彼女を研究の世界に入れるため、だったはず。ならばもう、所期の目的は達したはずよ……」
「そんなんじゃないんだ」
河田はかぶりを振った。
「まさか、本気であの子を好きだって言うの?」
「本気ですよ」
河田はキッとなった。」
「……きみと釣り合うと思うか。ぼくみたいな馬の骨が」
「そんなこと」
「きみは勘違いしているよ」
真理衣は憮然とした。
「申し訳ないけど、今日は帰るよ。ごちそうさま」
席を立つ河田に、哀願した。
「お願い……」
その真剣な眼に、河田は一瞬足を止めたが、再び歩き出した。
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