第14話
「神の言語」プロジェクトに関わっていたのは河田だけではなかったし、瑠奈のような素質を持ったものは、ほかにも発見されていた。素質において瑠奈ほどのものはいなかったが。
かれらも自分の素質を自覚しないままに進学したり、就職していた。しかし、特別に成績がよかったり記憶力に秀でたりするものはいなかった。脳内で言語を司る部位に「神の言語」を理解できる回路がインストールされていたことと、現実の生活は関係がなかったのだ。
研究所では量子コンピュータの研究はいっそう進捗した。CPUは改良され、一度に計算できる量子ビット数は増えていった。「量子超越性」を得たコンピューターの計算能力は、もはや指数関数的に上昇するのみだ。
しかし。
いつの間にやら、とんでもないことになってしまったが、いまだに解けない謎がある。
なぜ瑠奈だけが量子コンピュータをオペレートできるのか。
ふさわしいアルゴリズムのプログラムを書けるのか。
それは彼女の脳の機能、構造と関係があるのか。
「これをつけてみてくれ」
相本は瑠奈にカチューシャのようなものを渡した。
「量子コンピュータへの入力デバイスだ」。脳検査にも使っている光トポグラフィーの原理を応用したものだ。
脳内に光を当て、血流の流れを読み取ってコマンドに変えるのだ。もともと身障者用に開発されていた入力デバイを改良したものだという。
瑠奈は量子スパコンの開発者にしてプログラマー、そしてオペレーターだった。
データを取りながら
「変だな」
相本が河田に相談を持ちかけた。
量子スパコンの挙動と瑠奈の脳活動のモニターを取ったところ、驚くべき結果が出た。
「シンクロしてるな」
「……なんてことだ」
彼女の脳は、量子コンピュータとつながっている。インターフェイスなしに、ダイレクトに。
大沢に相談したところ、腕を組んでこう語った。
「この現象を説明するには『量子脳理論』を持ち出さなければならないのか」
人間の脳が紡ぎ出す「意識」には量子力学的過程が関与しているという仮説である。
かつて数学者のペンローズが説いたそれは、あまりにも大雑把で突っ込みどころが多く、「意識」に科学のメスが入ることに不快感を覚える「文系」を喜ばせただけだった。
しかし。
「トンデモ説でしょう、それ」
「それでしか、説明がつかない」
大沢は言った。
「ペンローズの量子脳理論の大きな欠陥は、人体内では量子もつれ状態が持続せず、容易に破壊されてしまうということにある。しかし、彼女が開発した量子コンピュータをご覧。ほんらいなら発生するはずのエラーがほとんど起こらないんだよ。量子もつれ状態が破壊されないと言うことなんだ。同じ原理が働いているとしたら、どうだろうか」
「なるほど……」
「すごい!」
瑠奈の参加した論文が公にされるたび、皆が口をそろえて驚嘆する。
瑠奈の提唱したアーキテクチャで、量子コンピュータの開発は飛躍的に進歩した。
瑠奈は、量子コンピュータの隘路だったアーキテクチャとアルゴリズムを一気に解決してしまったのだ。
実証機を経て、いよいよ大型の機械が作られることになった。量子CPUをいくつも並列させ、同時に計算する。従来型のスパコンに取って代わる「量子スパコン」である。
しかし量子スパコンは「器」に過ぎない。通常のコンピュータが、ソフトウェアがなければ「ただの箱」に過ぎないように、量子スパコンにも適切なソフトが必要なのだ。そしてそのソフトは、適切なアルゴリズムで書かれなくてはならない。
量子スパコンのための適切なアルゴリズムは、瑠奈のような人間にしか書けないのだ。
「シンギュラリティも夢ではないのか」
そうささやかれるようになった。
プログラミング言語から「ひばり」が生成したプログラムは人間には理解できないものだった。
そして完成した量子コンピュータは、従来のコンピュータとは全く違ったものになった。
このコンピュータの本体は「光」である。レーザー光線を特殊な結晶に照射し、結晶内の原子に量子もつれ状態を作り出す。量子的重ね合わせによる超並列計算が行われ、瑠奈の開発したアルゴリズムによって答えを導き出す。あらゆる計算が、驚異的な速度で実行できる、という触れ込みだ。
ノイズの問題もほぼ解決し、最適なパフォーマンスを得ることが出来るようになった。
一部で「量子コンピュータ」と喧伝されているが量子効果を使っていない”なんちゃって”量子コンピュータとも、最適化問題にしか使えない量子アニーリングとも根本的に違う。
これこそ、量子の世界で演算を行うコンピュータだ。
しかし。
公開鍵暗号がめちゃくちゃ早く解読できるなんてことは、量子コンピュータができることの可能性のごく一部に過ぎなかった。
いままで、量子コンピュータは汎用性に欠け、組み合わせ最適化問題など特定の目的にしか使えないと思われてきた――それでも社会に与えるインパクトは大きいのだが。
世界中の大学、研究所、IT企業が血眼になって探していたブレークスルーが、突然見つかったのである。
「それは畢竟、『ことば』の問題だったのか」
相本は感慨深く言った。
低レベルの論理構造しか持たない「人間の言葉」で書かれたプログラムは、多世界を股にかけて計算する量子コンピュータのポテンシャルを引き出すことが出来ない。ほんらいの性能を発揮させるには「神の言語」で書かれたプログラム、アルゴリズムが必要なのだ。
量子スパコンは、ハードウェアからして全く違う。
弾道計算のために作られた世界最初のコンピュータであるENIACと、現在のスマホやパソコンの内部でやっていることはまったく同じ、0と1による計算だ。速さが違うだけなのだ。さらに、半導体で作られた集積回路はムーアの法則に束縛される。
名ばかりでない理想の量子コンピュータは、それよりも大きな飛躍なのだ。文明の有りようは根本から変わるだろう。
あれよあれよという間に、量子コンピュータは実用段階になった。
この国のメーカーN社もF社も、海外のS社やH社も、瑠奈が開発したアーキテクチャに基づき、こぞって同じ原理の量子スパコンを建造したのだ。
しかし、瑠奈が開発したアルゴリズムが無い限り、真の性能を発揮することはない。
量子コンピュータの飛躍的進展は、この国発の科学の成果として世界中で大きく報道された。
取材の申し込みは、相も変わらず引きも切らなかった。
それはこの国のトップにすら影響を与えていた。 真理衣の父親――文部科学大臣は研究所にやってきて、檄を飛ばした。
「どんどん作れ。金の心配はするな」
しかしこの国にそんな金はなかったはずだ。
国の会計は、道路を作ったり、田舎や年寄りに金を配ったり、武器を買ったり、公務員に給料を払ったり、ずっと前からしている借金の利子を払うので精一杯だったはずだ。
しかしこの件には、まるで沸くように予算が付いてきたのである。
「カネなんて、財務省の尻を蹴っ飛ばせば、いくらでも出てきますよ」
施設を見学に来た文科省の官僚は、そううそぶいていた。
財務省は国の財布を握る「最強の官庁」でほかの省庁は頭が上がらないはずだったのに、立場が逆転している。いつからこうなったのだ。
テレビのニュース解説では、識者がこう言っていた。
「かつて『電子立国』と呼ばれていましたこの国は、前世紀末以来の長い低迷と停滞を経て、いつの間にかこの分野でも他国の後塵を拝するようになってしまいました。だが、このプロジェクトで開発される量子スパコンによって状況は一変します。これまでのスパコンとは比べものにならないほどのパフォーマンスを出すことが出来るんです。世界で初めて既存コンピュータを凌駕する量子コンピュータを作った意味は計り知れなませんし、一部に量子効果を使っているだけのアナログコンピュータを『量子コンピュータ』だと言い張るインチキもしなくてよくなります。これだけの量子スパコンが出来れば、間違いなく世界のトップに立つことが出来る。二位ではダメなんですよ」
瑠奈は次第に量子スパコンと一体化していった。
BMIから直接にコマンドを送り、脳内にイメージを直接送り込むことが出来る。
ソフトのバージョンアップにより、シンクロ率は向上し、彼女の思考と演算結果は区別できなくなったのだ。
彼女の脳は拡張された。世界中の量子スパコンが、瑠奈の脳になったのだ。
その結果……
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