第13話
その日も、山下真理衣は瑠奈に料理を教えにやってきていた。
「今日は、ビーフシチューを作ります」
食材をスーパーで買い込み、台所で
牛肉の塊。タマネギ。
もも肉の塊を切って、タマネギ、にんじん、ハーブを入れたブーケガルニと一緒に煮込む。
煮込んでいるあいだに、付け合わせとサラダを作る。
トマトを切っているとき、
「ねえねえ」
瑠奈は、山下真理衣に話しかけた。
手には、数学雑誌を持っている。
「あそこ、間違ってるよ」
「なんですって?」
数学雑誌には、真理衣が証明した定理が掲載されていた。
数学界で長年の課題とされていたもので、発表されるなり、数学業界にセンセーションを巻き起こしたのだ。査読がまだ済んでいないが、この証明が正しければ、彼女はフィールズ賞間違いなし、とも言われている。
ホワイトボードに数式を書き込む。
「ここがこうなって、こうなんじゃない?」
「……」
真理衣の顔が引きつっていった。
「ビーフシチュー、出来たよ」
料理が食卓に並ぶが、どうもそんな雰囲気ではない。
「うん、おいしいよ」
難しい顔をする真理衣を横目に、河田はおざなりに感想を言った。
程なくして、査読の結果が返ってきて、証明にエラーがあったことが判明した。つまり、瑠奈の方が正しかったことが証明されたのだ。
真理衣の手柄は、瑠奈に横取りされてしまった。客観的には違うだが、彼女の中では、そうだった。
数学業界では、未知の大天才がいるという噂がじわじわと広まっていった。
やがて、瑠奈が数論の未解決問題を証明したというニュースが大々的に発表された。そのニュースは世界的に権威のある科学雑誌のトップ記事になった。
「量子コンピュータ研究のギャルは量子論、数論の超天才だった」
「定説を覆す大発見」
「万能の天才」
相次いで、瑠奈たちが制作した量子コンピュータが「量子超越性」を得たことが大々的に報道されたのだ。
停滞していた量子コンピュータの開発に巨大なブレークスルーをもたらす内容もセンセーショナルだったが、それ以上に目を引いたのは、やはり瑠奈だった。
ギャルファッションの「若き天才学者」である瑠奈は、たちまちのうちにメディアの寵児になった。
ネット記事に続いて、紙の新聞や雑誌、テレビのワイドショーまでもがはやし立てた。
「異次元の才能」
「来年にもノーベル賞を獲ってもおかしくない画期的な研究成果」
カメラを構えた一団が、大学の正門前に陣取るようになった。
TVのインタビューでは、ミカが「高校時代の友人」という触れ込みで出演して、あることないことを喋っていた。まあ、嘘ではないけれど。
これではなおさら、結婚のことはいえない。伏せることになった。
それを横目に、研究開発はどんどん進捗していった。
フロアに設置される量子コンピュータのラックは増え、人員は増員されていった。
研究費用も増えていった。去年まで、文房具を買うのにも四苦八苦していたのは、何だったのか。
量子コンピュータプロジェクトの拡大は止まらなかった。
大学に隣接する土地が買収された。マンションが建つ予定だった更地に、研究棟が建てられることになった。
数理科学研究所は改組され、量子脳科学研究所として再編された。
新生した研究所は、量子脳科学部門、量子言語学部門、量子計算機部門から構成されている。
そして瑠奈はなんと特例で学部生のまま、量子脳科学研究所の
すべてのキーパーソンは瑠奈だった。今や彼女を中心に回っているのだ。
そんなある日。
死んだ杏奈の両親――瑠奈の祖父母が突然、連絡してきたのだ。
「縁戚」である以上、むげにも出来ないので応ずると、親戚一同も加わって、銀座の料亭でもてなされた。
居並ぶのは、いとこやらはとこやら、大叔父やらひいじいさんの玄孫の嫁やら。
卓の上にはお作りだの天ぷらだのが所狭しと並び、次々とビール瓶の栓が抜かれる。
杏奈の葬式のときとは全然違う扱いだ。
「瑠奈ちゃん、ノーベル賞候補なんでしょ。すごいじゃない」
どうやら、景気のいい新聞記事を読んだらしい。
「親戚なんて、会ったこともないひとばかり」
瑠奈はぽつりと言った。
「あんたは我が家の誇りだよ」
「これからも、よしなに頼みます」
マスコミの取材は、この家にも及んだらしい。
「……ところで、おいくらくらい貰ってるの?」
「大したことないです」
「そんなことないでしょう」
ビールをつぎながら、「親戚」はカネの話を延々と続けた。一切触れようとはしなかった。
河田は渋い表情だった。
なんで貧乏人ってのは、はした金でマウンティングしようとするんだ? せこい恩を売って倍返ししてもらおうと思うんだ?
不愉快さしか感じなかった。
「みなさん、マスコミにはくれぐれも、余計なことは言わないでくださいね」
帰りしな、河田は念を押した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます