第10話
数理科学研究所の隣は、計算機棟である。大学が誇る大規模クラスター型スパコン「ひばり」は、この計算機棟にある。
スパコンはCPUとメモリを組み合わせた「ノード」を大量に組み合わせたものだ。接続されているノードは1500以上、半精度演算性能は50ペタフロップス。大学にあるコンピュータとしては世界最高レベルである。
河田の研究も、このスパコンがなかったら実現はしなかったのだ。
入学してしばらくして、こんなことがあった。
プロジェクトのファイルを読んでいると、突然、瑠奈が手を動かした。本格的にキーボードを打つようになって半年も経っていないので、まだどこか、たどたどしい。
これまで瑠奈はコンピュータの類いに全く縁がなかった。正確には、オフィスアプリを使ったりプログラミングしたりする行為だが、スマホしか持っていなかったし、中学校であったはずの情報の授業は、右から左に抜けていたという。
どうやら、エディタでソースコードを書いているようだ。
「プログラムよ。授業で作ってみたの。でも先生は『わけ分かんない』って言ってたから……ちょっと、試してみてくれない?」
「どれどれ……」
院生のひとりがのぞき込む。
「訳が分からんなあ」
瑠奈は意にも介さず、
「これなんだけどさあ……」
「?」
「こうじゃね」
「……?」
「ここをこうして、こう……」
「……??」
「これは、こんな気がする……」
「訳が分かりませんね」
院生はプログラマーとしては凄腕だったが、彼でさえ瑠奈の言うことには、お手上げだった。
「ちょっと、試してみない?」
「なんだい?」
「『ひばり』でこのプログラムを動かしてよ」
「ひばり」のプログラムを作っているのは主に院生と研究生だ。
他のコンピュータと違って、この規模のスパコンはオーダーメイドである。大方の場合、ソフトも存在しないので一から作るしかないのだ。それには大量のノードを同時に操る「並列プログラミング」という手法が必要になる。通常のプログラミングに比して非常に複雑であり、デバッグも極めて面倒である。
さらに、アルゴリズムの最適化が最大の問題になる。コンピュータにどう効率のいい命令を出すかが、重要な問題になるのだ。
横から見ていた相本が口を出した。
「いいんですか?」
「おもしろそうじゃん」
そして、
「……おお!」
研究室の皆は、あっけにとられていた。
彼女がひょいと書いたプログラムを「ひばり」に走らせると、驚くほどのパフォーマンスを出したのだ。
「……これは、すごいな」
計算結果の差は歴然としていて、ため息が出るほどだ。
「専門家」もシャッポを脱ぐほどの
「こんなアルゴリズムがあったとはな」
彼女が書いたのは、全く新しいアルゴリズムだった。そして彼女の研究は、プログラミング言語の創成にまで至った。
紙一枚に収まるような短いプログラムを読み込ませると、何万通りものプログラムを「ひばり」が生成する。そして、いちばん適したプログラムを自動的に選択するのだ。
スパコンのベンチマークにもなるN体問題を解かせてみると、これまでよりも格段に早く計算が完了したのだ。
「こんなに早く結果が出るなんて」
「……いままでおれたちがやってきたことは、なんだったんだよ」
口々に褒めそやす。
「河田さん、ちょっといいかな」
相本は河田を呼んだ。
「相談があるんですが」
相本にひらめいたものがあったようだ。
「頴娃田さんを、ぼくらの量子コンピュータプロジェクトに、参加してくれないだろうか」
瑠奈は学校では旧姓を使っていた。
「どうする?」
「いいよー」
二つ返事で了解した。
「これで量子コンピュータの研究が、大きく進展するかも知れない」
どうやら、彼女の才能が一番顕著に発揮されるのは、プログラミングのようだ……。
「驚いたな、きみの言うことも、たまには当たるんだね。いや、彼女のことなんだけどね……」
数学科の教授は言った。プロジェクトに協力してはいたが、河田の言う「神の言語」には懐疑的だったのだ。
瑠奈のアルゴリズムは、スパコンが何百時間も力押しに計算して、それでも近似値を出すしかない問題を、エレガントに解いてしまう。
「彼女はいますぐにでも、フィールズ賞が獲れる……彼女の理論を世界のほかの数学者が、理解できたらの話になるがな。彼女の理論はあまりに独創的すぎて、追試も確認も出来ない有様だ。まるでラマヌジャンのようだ」
「インドの数学者か」
ラマヌジャンは辺境の極貧家庭に生まれ、ほとんど独学ながら、近代数学屈指の業績を上げた。数学史上最高の天才のひとりだ。彼が発見した定理や数式は、世界の水準を数十年も先行していたが、そのほとんどは、直感的に導き出した――「閃いた」ものだと言われているよ。彼が遺したメモ、思考の断片を解析する作業は、いまだに続いているが、現代の数学でも解が見つかっていないものがあるという。
「あるいは、フェルマーもそうかもしれない。あの最終定理を思いついたとき、『わたしは真に驚くべき証明方法を発見したが、それをこの余白に記すには少なすぎる』と記した。定理自体は前世紀末にワイルズによって証明されたが、それは当時最先端の数論を駆使したものだった。だが彼はもっと直感的にシンプルに解く方法を閃いていたのかもしれない。『余白』には記せないが、せいぜいノートの数ページほどに収まるような」
「かれらは『神の言語』を理解する脳を持っていた、というのか?」
「分からんが、ひとつの仮説にはなるな」
「どうも、『神の言語』を解するものは、人種や性別を問わずランダムに出現し、文化資本や後天的に得た教養とは、まったく関係ないようなんだ」
「瑠奈以外もか」
「ああ。あたかも「神」がきまぐれに植え付けていった、ような……」
院生が、思いついたようにぽつりと言った。
「ラマヌジャンは早死にしたよな」
「不完全性定理のゲーデルも、晩年は精神を病んで餓死した」
「ガロアは決闘で命を落とした……」
「谷山豊もな……」
谷山豊は、フェルマーの最終定理を証明するのに大きな役割を果たした数学者で、若くして、謎の自殺を遂げた。
「偶然だよ。長生きした数学者は、いくらでも居るじゃないか」
「そうだな」
的確なツッコミに、おもわず苦笑した。
瑠奈が大学生になっても、大沢の協力を得て、各種の検査は定期的に行われていた。
大沢は興奮した面持ちでやってきた。
「これを見てくれ
fMRIで取った、瑠奈の脳の画像が表示された。
「ウェルニッケ野とブローカ野を連絡している、弓状束と呼ばれる部位で、ニューロンが新生してる」
「ばかな」
訝る河田に、大沢は言った。
「いや、あり得ない現象ではない」
人体の他の細胞と違い、脳の神経細胞――ニューロンは生涯を通して、増えることはないと考えられていた。胎児から新生児の時期にすべてが形成され、それ以降は死ぬ一方だと。
しかし、20世紀末の研究で、脳内に神経幹細胞が存在し、成人に達していてもニューロンが新生していることが判明したのだ。それは大脳の海馬と呼ばれる領域に限られ、、多く見積もっても、1年間に500個程度だと言われている。
しかし、瑠奈の場合はもっとハイペースで新生し、それらが活発にネットワーキングを行っているようなのだ。
しかも、従来知られていた海馬ではない。
「ここはちょうど、言語を司る領域だよ」
瑠奈の言語能力は、さらに増長しているというのか。
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