第9話

 4月になった。

 大学敷地の桜は新入生を歓迎するように咲き誇った。

 正門から本館に続く桜並木は学生だけでなく、近隣の住民にとっても格好の花見スポットになっている。

 新しい学生たちを迎え、大学周囲の商店街も駅も、どこか華やいでいるように見える。

 瑠奈の新しい生活が始まった。

 瑠奈は大学生であると同時に、今まで通り、数理科学研究所の被験者であった。

 サークルの新歓。オリエンテーリング科目登録。このシーズンのキャンパスはひときわ騒がしいのだが、今年は別の騒がしさが加わっていた。

 キャンパスを歩くと、ざわめきがどこからか伝わってくる。学生たちの塊が移動している。

 中心に誰がいるかは、言うまでもない。

 瑠奈だ。

 入学した瑠奈はたちまちキャンパスの有名人になっていた。なにせ、16歳のギャルスタイルの少女が、理工系のくすんだ男ばかりのキャンパスを闊歩しているのである。目立つこと目立つこと、この上ない。

 なれなれしく話しかけるもの、遠巻きに眺めて仲間と噂し合うもの。

「写真がSNSにアップされまくりだよ」

「学生新聞がつけ回してるみたい」

 そんな噂を、まんざらでもなく受け止めているようだ。

「大学生になったんだから、少しは地味な格好にしなよ」

「あーい」

 河田は瑠奈に注意した。しかし瑠奈は、それを受け流すだけだった。

(新婚なんだぞ……)

 河田は苛立ったが、しかし、その危惧は半分当たり、半分はずれた。

 メダカを飼っている水槽に色鮮やかな熱帯魚を一匹入れたとして、目立つことはたしかだが、群れに混ざることはあるだろうか。

 結局、瑠奈の居場所は、河田のいる数理科学研究室なのだ。科目登録なんかは適当に済ませて、研究室へ入り浸った。

「どうだ、大学生になった感想は」

「パンキョーなんて、全然わかんない。法律とか社会学なんて、ちんぷんかんぷん」

「らしくなってきたな」

「……」

 気がつくと、山下真理衣が妙な眼で、雑談するふたりを見ていた。

 瑠奈の入学は、彼女にとっては、頭痛の種が常駐することだった。ギャルスタイルをやめようとしない瑠奈が、気に障って仕方が無い。空気を読まない振る舞いも目に余った。

(そろそろ、ガツンと言ってやらなくちゃ。いつまでもギャル気分で、最高学府に出入りされちゃ、困るのよ)

 心の中でつぶやきながら、河田の机の上をふと見ると、そのままにしてあった提出期限が明日の書類があった。河田の署名捺印が必要なものだ。

(まったく、いい加減なんだから……)

 思いついた。

(届けなくっちゃ)

 河田の住所は、以前聞いていた。大学から歩いて10分くらいのアパート。

 大学の周囲は坂が多い。上り下りしているうちに、大きな池のある公園にたどり着く。河田の家はたしか、このあたりだ。

「ここね」

 目当ての家を探し当てて、呼び鈴を押す。

 ピンポーン。

「ごめんくださーい」

「はーい!」

 聞き覚えのある、女の声がする。

 扉の向こうから現れたのは、瑠奈だった。

「……!」

「あれ、真理衣じゃん。どしたの……」

 瑠奈の出で立ちは、谷間が見えるタンクトップに、太ももを剥き出しにしたホットパンツ。部屋着にしても大胆だ。真理衣は顔をしかめた。

「それより、なんで頴娃田さんがここにいるんですか?」

「はあ? ここ、あたしんちだよ」

「河田さんの家じゃないの?」

 瑠奈の顔がこわばった。

(やばたにえん……)

 額に冷や汗がにじむ。

「どうしてあなた、河田さんの宅にいらっしゃるの?」

「そそそそ、それはね……」

「説明してくれますか?」

 真理衣は瑠奈に、にじり寄った。

「……」

「きゃっ!」

 そのとき、真理衣はフローリングに脱ぎ散らしていた服を踏んでしまった。足を滑らせ、仰向けに転倒し、三和土に頭をしたたか打った。

 瑠奈に抱きかかえられる。

「ごめんなさい。大丈夫!? 頭、冷やさないと。部屋に入って!」

 ソファに横になり、額に冷却シートを当てられた。

「大丈夫?」

「とりあえず、頭は、痛くない……」

 真理衣は仰向けになったまま、答えた。

「あなた、ほんとに、ここに住んでいるの……」

「あとで説明する。とりあえず、休んで」

 横になったまま、真理衣は首を動かして部屋を見渡す。

 ピンクの壁紙は瑠奈の趣味か。

 冷蔵庫の上に並んでいる、食玩のフィギュアは河田の持ち物だろうか。オタクとギャルの趣味がかみ合わないままない交ぜになっている。

 机が並んで2つ。その隣に小さな鏡台がある。奥に見えるのはダブルベッドか。

 しかし、なにかが決定的に、違っている。確実な違和感、その正体は……。

 どうにか落ち着いて、腰を上げた。

「ただいまー」

 そこに、河田が帰ってきた。手には、ポリ袋に入った宅配ピザ店のケースをひっさげている。

「見慣れない靴があるな。誰かお客さんが来ているのか……え?」

「河田さん!」

 真理衣は立ち上がり、にじり寄った。悪い予感が当たったらどうしよう。

 瑠奈が男と、しかも河田と暮らしているなんて、想定外だった。

(犯罪……拉致監禁……)

 剣呑な文字列が頭の中にぐるぐる回った。

「どういうことですか……!?」

 あからさまにとげのある口調で、河田に問うた。

「……ま、待ってくれ。瑠奈、アレを」

 促され、瑠奈は書類入れの引き出しから、結婚届のコピーを取り出した。

 目を落とした彼女は、

「……ほんとだ」

 苦笑しつつ、言った。

「あんまり大っぴらにはしたくなかったんだよ」

「まあ、いいわ……それにしても」

 真理衣は河田に視線を向けた。

「なによ、それ?」

 テーブルに載せたビニール袋を指さした。

「ピザだよ。そこの宅配ピザで買ったんだ。持ち帰りなら1枚無料だよ」

「そういうことじゃなくって」

 真理衣は言った。

「新婚家庭の夕ご飯が宅配のピザなんて……それでいいの?」

「どゆこと?」

 瑠奈が口を挟む。

「新婚なら、新婚らしくしなさいってことです」 

「新婚らしく? どゆこと?」

 瑠奈はピンとこないようだ。

「あなたたち、ここで生活している匂いがないのよ。台所、全然使った気配がないじゃない」

 台所を指さした。

 たしかに、台所には形ばかり鍋もフライパンもあるが、使った様子がない。ゴミ袋に入っているのは、コンビニ弁当とスナック菓子の殻、それに発泡酒と清涼飲料の缶ばかり。

 河田は苦笑する。

「彼女、料理したことないらしいんだ」

「?」

 真理衣には理解できなかった。料理をするなんて、当たり前以前のことじゃないの。教養の高い家庭に育った彼女は、昼食をコンビニ弁当で済ますことも、ジャンクフードの買い食いも、ついぞしたことがなかったのだ。

「したことないって……家で料理は……家庭科の授業は?」

「ママも料理はしなかったよ。家庭科の授業は、さぼってた。だって、たるいじゃん」

 笑いながら答える瑠奈に、真理衣はため息をつく。

「まあ、ぼちぼち覚えていけばいいんじゃないかな」

「じゃあ、今覚えてください」

 そして瑠奈を指さして、言った。

「あんたみたいな生活感覚のないのが奥さんなんて、我慢できないの!」

「はーいっ」

 それから、休日になると山下真理衣は、河田と瑠奈の家に通ってきた。

 一緒に買い物に行き、瑠奈に簡単な料理の仕方を教えた。

「今日はトンカツね」

「揚げ物なんて、スーパーや肉屋でいくらでも売ってるじゃない」

「家で揚げるのよ。当たり前でしょ」

 微妙に納得できない表情をした。

 台所。瑠奈はおぼつかない手つきでキャベツを千切りにする。

 とん、とん……とん、ととん。

 包丁がまな板を叩く不揃いな音が響く。今にも手を切りそうだ。

「見ちゃいられない。代わるから、観てなさい」

  とん。とん。とん。とん。

 今度は手際がいい。音もリズミカルだ。

 手本を見せている真理衣に、瑠奈が近寄る。

「ねねね、真理衣ってさ、ひょっとして……」

「なんですか?」

 ささやきかけられた言葉を聞いて、千切りのリズムが狂った。手を切りそうになった。

「関係ありません!」

 瑠奈はにんまりする。

「大学に男なんて、いっぱいいるじゃん」

「そんなんじゃないのよ」

「でも、ひろちゃんはだめよ。あたしのものだもん」

 真理衣はキッとなった。

 その有様を見た河田は笑いかける。

「それにしたってなあ。きみは戦後民主主義万歳のリベラルな家庭で育ったんじゃないか。新聞でお父さんの書いたコラムを読んだよ」

「だから?」

「それにしちゃずいぶんと保守的な家庭観だな、ってことさ。政権党の支持団体が推奨する良妻賢母そのものだ」

 河田の悪趣味なジョークに、真理衣は不愉快そうに口をゆがめた。

 夜も遅く、真理衣は帰宅した。

 真理衣の自宅は世田谷の西の方にあった。宏壮な洋館だが、かしましい新婚夫妻の部屋とは打って変わって、誰もいなかった。父も母も多忙なのだ。それはいつものことだったが。

 自室に戻り、ベッドに腰掛ける。

(……)

 突然彼女は、異様な思いにとらわれるのを感じた。

 今頃河田と瑠奈は、食事を済ませて、愛し合っているのかもしれない。

 生まれたままの姿になってベッドの上で、あんなことや、こんなことを……。

 その有様が、ありありと脳裏に浮かんだのだ。彼女が小説や映画でしか知らない行為を、ふたりはしているのか。

(なんなの……!)

 身体の奥が熱くなった。

 次の瞬間、快感が全身を走った。性的なものであることは分かった。彼女が知識でしか知らなかったものだ。

「ああっ!」

 真理衣は大きな声で叫んだ。訳の分からない強い力が彼女を突き動かしていた。快感の命ずるままに、両手は自分の身体をまさぐっていた。

 力のなすがままにされて、どれぐらいたっただろう。電流のパルスのような快感が駆け巡る。歓喜。頭が真っ白になり、極彩色の光が飛び交う。

 果てていた。

 気がつくと、下着が脱げ、足下に落ちていた。

 指先が濡れている。

 絶頂に達したのは、初めてだった。

「こんなこと……」

 それとも、自分ではないものが、自分の身体をあやつったのか。

 いったい、なんのために――。

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