第4話

 ふたりは交差点を渡って、商店街の入り口にある喫茶店に入った。

 内装は女性雑誌にも載っていそうなこじゃれた雰囲気だが、その分メニューはお高い。

 店内に入ると、ジャズピアノのBGMが耳に入る。席を埋めているのは、有閑マダムばかりだ。

 奥の席に案内されると、河田は言った。

「なんでもご遠慮なく注文してください」

「うーん、クリームソーダ」

「……ぼくはブレンドでいい」

 注文しながら、会計が気になった。たしかまだ奨学金の返済が引き落とされる前だったはずだ。

 ウェイトレスが去ったとき、男は名刺を差し出した。

「申し遅れましたが、ぼくの正体です」

「高岡山大学 計算科学研究センター 任期研究員 河田宏典」

「かわだ ひろのり……だから『HIRO』か。大学の先生なの?」

「1年更新の臨時雇いです。ま、フリーターに毛が生えたようなものだと思ってください」

「ふーん」

 ポスドクだのというタームは、彼女の頭の中にはなかったのだろう。

「本当のことを言いますが、あなたとずっと会話していたのは、人工知能です。僕はその会話をモニタリングして、パラメータを調整していました……でも、あなたをここにお誘いしたのは僕自身の書き込みですが」

「え」

 瑠奈はいささか驚いたようだった。

「あなたになにが起こっているのか、ぼくらがあなたに何をしたのか。これから包み隠さずお話しします。その上でどうするかは、あなた自身で判断して下さい」

 注文した品が届いた。河田はコーヒーをブラックで口に運ぶ。

「本題に入りましょうか。ぼくは人工知能を研究しているんです。専門はデータマイニングですよ」

「?」

「『言語』についてのビッグデータをスパコンでひたすら解析して、人間にはわからない隠された傾向を読み取る研究です。それでわかったのですが、人間の言語には、今まで知られていなかったある『傾向』があるようなんですよ」

 瑠奈はクリームソーダにスプーンを差し入れ、口に運ぶ。

「数年前から人工知能の研究が世界的に加速したのは知っていますね。人工知能の可能性を探るプロジェクトが、いくつも立ち上げられました。自動車の自動運転は実用化寸前ですし、将棋や囲碁では、もはや人類最強のプレーヤーでも太刀打ちできないまでのレベルに達しています。あなたが持っているスマホも、声をかけて操作できるようになっているでしょう。これらの研究の成果ですよ。

 その中に、クイズや大学入試問題を解かせるプロジェクトがあります。文章題を読み取って、求められている回答を出す。三択問題ではうまくいくのですが、しかし文章の読解問題などでは、なかなか高得点を取ることができません

 プロジェクトを進めていくうちに、研究の主眼は人間はどうやって『文章を読解』していくかというところへと移っていきました。僕はそのプロジェクトに参加していたのですよ」

「へえ、すごいすごーい!」

 瑠奈はテーブルから身を乗り出した。

 ブラウスの大きく開いた襟元から、胸の谷間が覗いた。

 河田は目のやり場に迷ったが、話を続けた。

「知っていますか? 『リーディングスキルテスト』を」

「ううん」

 瑠奈はかぶりを振った。

「論理的に込み入った文章、複雑な係り受けを理解できるか、というテストです。僕はリーディングスキルテストの結果分析に携わりました。数万人の学生から集めたデータを解析して出た結論は、驚くべきものでした。人間にはかなりの割合で、人工知能にはある論理的読解能力がないものがいる。それはメディアで大きく報じられました。教育の危機、ひいては社会の危機であると。文章が読めないひとはAIに仕事を奪われてしまうと。

しかしぼくは結果から、もうひとつの推測をしたのです。それは発表せず、伏せていました。

 まったく逆です。一般人より論理レベルの違う文章を理解できるものが、何十万人にひとりという割合で存在しているらしいこと。データはそれを示唆していたのです。

 生まれや育ち、勉強の出来不出来、読書を好むかスマホいじりしかしないか、なんてことには関係がない。人類の中でまったくランダムに、産まれながらにごくわずかな割合で、あらかじめ脳にインストールされている、人間の論理性を超える入り組んだ構文、普通の文章に重畳されている隠された意味がわかる脳の構造を持つものものがいるんだ。あなたのように」

「それが……あたしなの? そんなテスト、受けた記憶はないけど」

「まだ、この話には続きがあります」

 ブレンドをあらかた飲み干した。

「あなた、さっき、どうやってウェイトレスさんに注文しましたか? なにが欲しいかを自分の意思を伝えましたか?」

「『クリームソーダ』って」

「『クリームソーダ』だけで注文がとれるのはなぜだと思いますか? そのあとに別の文章が続くかもしれませんね。たとえば『クリームソーダはおいしいな』とか。『わたしはクリームソーダを注文します』と、きちんとした構文を組み立てなくても通じるのはどうしてだと思いますか?」

「それは……状況を理解しているから、じゃない」

「そうですね。人工知能がまだ苦手としているところです。人間の思考は言葉の意味だけを捉えているんじゃない。他の状況や『文脈』などを総合的に判断して下しているものなのです。それにはおのおの偏りがあります。その『偏り』を調査したデータマイニングにより、まれにですが、思考方法にある特異な『くせ』のようなものがあることが発見されました。さらにまれに、その『くせ』が甚だしいものがいる。なぜそれが生ずるか。ぼくはある仮説を立てました。脳のハードウェア自体が違う、全く別の論理構造を脳内に秘めた人間が存在する可能性があると」

 ウェイトレスがお冷やのお代わりを持ってきた。

「リーディングスキルテストの結果が発表されたときは、スマホのせいで子供の読解力が危ないと、俗受けを狙ったマスコミは書き立てました。でも、違うんです。ぼくたちが日常使っている『言語』の方が不完全なのです。われわれ人類が普遍的に使っている言語とは別の、もっと論理レベルの違う『言語』が存在する可能性がある。人類の言語ではうまく思考できないけど、その『言語』に脳がアジャストされれば、はるかに高い理解力を発揮することが出来る。あなたがそれなんです」

「え~! まじ卍!」

 河田は頬が引きつった。

 ギャル語を生で聞く羽目になるとは……。

 気を取り直して、説明を続ける。

「人間の言葉が使われる場合は、さまざまなシチュエーションがある。ぼくらはそれらを読み取って会話していますが、誤解がつきものです。いや、『誤解』は、人間が現在使ってる、自然発生して冗長性を持つ言語自身の宿命のようなものです。だが、高次な論理能力を持つものなら、一を聞いて十、いや百を知ることが出来る。普段の生活による言語の使用、たとえば会話したり本を読んだりすることも含めて、それは全く使われることはありません。あなたの脳の中で眠っていたのです。ぼくが送ったテキストを読むことによって、それが呼び覚まされる。名付けるならば、『神の言語』」

「『神の言語』……って、どんなの?」

「かくいう僕も、理解できないのです。いろいろ調べましたが、残念ながら、ぼくの脳にはそれを理解する回路がないようなのです。でも、そういったものがあると認識することはできます。データ解析では、それを理解できることを示唆する傍証がえられました。さらに……これを見てください」

 河田はスマホをかざす。

 ディスプレイに表示されたものは、奇妙なグラフだった。

「宇宙から来た電波を解析したものです。かみのけ座方面のある宙域から、これまでに観測されたどの電波源とも違った種類の電波が観測されました。そしてその電波の長期的なデータを取り、解析するとこのようなパターンが出ます。ランダムとはいえないので、何らかの有意性があるのではないかと推測されました。しかし、仮に有意信号だとしても、その規則性、法則性が全く分からないのです。この電波の発信源が地球人以外の知的存在によるなら、かれらは、人間には理解できない論理構造を持っている。もっとも、われわれの分析能力自体が未熟で、データに過剰な意味づけをしている可能性もありますが。そこを含めて不可知なのです」

 人類の想像を絶する知能を持った知的生命体がこの宇宙には存在するのか、あるいは、『神』のメッセージか……。

 ウェイトレスが水を交換に来た。それにも気づかず、河田はしゃべり続けている。

「『神の言語』の存在を示唆する傍証は、ほかにもいくつもありました。そこでぼくは、スパコン、人工知能の支援を得て、平文に『神の言語』を重畳する文章を作成するエディタを開発しました。『神の言語』を理解できる脳の構造を持ったものがこのエディタで作成された文章を読めば、脳の『神の言語』を解読する部位が賦活される。いままで埃をかぶって動かなかった機械が動き出すように。それで文章を作って、普通の出逢い目的の投稿に見せかけてSNSに投稿してみたのですよ」

「うそー」

 信じられなかった。そんな目的があったなんて。

「思いっきりいかがわしい文面にして、いかがわしいサイトに投稿したのも、関係ないひとが引っかかったら、ノイズが入ると思ったから。誤配ではない。このメッセージがほんとうに理解できるなら拒否感を乗り越えて、反応してくるはずだ、と」

 河田の額に汗がにじんでいる。自分の話に興奮しているようだ。興奮が瑠奈にも伝染してきたようだ。こめかみがじいんとする。それは「HIRO」から来た初めてのメールを読んだときのような――。

「それが何の役に立つのかは、ぼくらにもまだ分かっていなかった。しかし頴娃田さん、あなたの状況によれば、その部位を活性化させれば、どうやら数学的にまったく新しい認識を得ることが出来るようだ。

 数学は宇宙のことわりを記したものです。数学は物理学を支配している。そして物理学は現実世界を支配している。あなたの脳に埋め込まれているのは、ほんとうに『神の言語』なのかもしれません」

 河田はお替わりのお冷やを一気に飲み干した。

「あなたに本当の目的を隠していたことは謝罪します。そのうえで厚かましいお願いをしますが、ぼくらの研究に協力して欲しい。あなたの手助けがあれば、脳の構造にも、言語学にも、そして人工知能の研究にも計り知れない進歩があるはず。このとおりだ」

 頭を下げる。

 瑠奈は微笑んだ。

「いいよ。ひろちゃん」

「……ひろちゃん?」

 河田はぽかんとした。

「いままで、そう名乗ってたじゃない」

「そ、そうだけど」

「あたしも、瑠奈って呼んでいいよ。これからはため口で、よろしくっ★」

「よ……よろしく」

 河田はぎこちなく挨拶をして、その日は、別れた。

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