第3話
瑠奈は、突然降ってきたような自分の知能に熱中していた。
知識がすごい勢いで吸収されるのが、ほとんど生理的な快感だった。それ以上に、いろいろなことが「わかって」くるのが何より楽しい。
何もかもぼうっとかすんだ世界にいたところ、不意に視界が開けたようだった。
しかし、小説などの「文芸書」、映画やTVドラマは楽しむことができなかった。言語の「冗長性」に芸術性を見いだし、恣意的な因果の組み合わせである「物語」に娯楽性を見いだすものは理解できなくなった。
「HIRO」には、自分の変化も、包み隠さずに報告した。レスでいろいろな専門書を読むように勧められた。図書館の使い方も、ノイズの入らないネット検索の仕方も教わった。 学び方はますます、効率的になった。
定期試験の日を迎えた。
今までの彼女にとっては、名前を書いて○×や番号を適当に埋めるものだったのだが、もう違う。
ぱらりと見やって、にやりとした。マジありえないくらい簡単な問題ばっか。あっという間に全問回答して提出。教室を出た。みんなは試験を放棄したと思ったみたい。
そして翌日、数学教師のおっさんが声をかけてきて、あとで職員室に来いっていった。
「話が聞きたい」
職員室に行くと、奥にある応接スペースに通された。周囲を見回して、注目されていないのを確認してから、話を切り出した。
「……驚いたな」
瑠奈の書いた答案を出して、教師は言った。
「満点だよ」
解答ぜんぶに赤で丸がついている。そして最後の問題を指さし、いった。
「それだけじゃない。この『おまけ』の問題だけどな……完璧だ」
この教師が出すテストには、必ず最後に点数のつかない「おまけ」の問題が載っている。時間が余ったときにでも解いてくれ、という趣旨で、さりげなく載っているが、すごく難解な問題らしい。
「これは、数学オリンピックに出題された問題だよ。世界中から選りすぐられた英才でも、何時間もうんうんうなってようやく解けるレベル。ましてや、10分かそこらで解けるなんて、ありえない」
素晴らしいことだったが、この場には賞賛とは違う、微妙な雰囲気が流れている。
微妙な空気が流れている。この事実をどう受け止めるべきなのか決めかねているようだ。
「……あたし、カンニングなんかしてないよ」
「分かってるよ。この答案の書き方はカンニングじゃない。でも、ここの問題」
別の箇所を指さす。式と答えが書いてあった。
「授業で教えた方法と違う解き方をしてる……ものすごい高等な数学を使ってる。大学入試レベルなんてものじゃない。カンニングならこんな馬鹿なやり方はしないよ」
「……」
「なにがあったんだ?……」
「なにもないです」
「いや、この言い方は正確じゃないな。数学は昨日今日勉強を始めて出来る科目じゃない。いままでのお前はなんだったんだ? おかしいじゃないか」
教師の眼には、疑惑と怯えが宿っていた。なにをどう説明するのか。説明したとしても、なにをわかってもらえるのか。
「あたしにも、わかんないんです。ごめんなさい」
そういって職員室を去った。
学校の敷地の片隅には、蔦が絡まった洋館風の建物がある。チャペルだ。
この学校は、一応キリスト教系ということになっている。ときどき、英語の先生が神父様になってありがたいお話を聞かせてくれる。
入ったことがある
学校で煙草を吸ったことがばれたとき、ここに連れてこられて、神さまに謝りなさいと言われた。
そんなもん、心の中ではブッチしてきたけど
(このぞわぞわするふいんきは、なに……)
目の前にあるのは、十字架に掛けられたおっさん。
あんたなの? 神の子?そんなばかな……。
そのとき、最前列で祈っていた生徒が振り向いた。
「あなたも、お祈りに来たのですか」
「……」
「よい心がけですね。一緒にいかがでしょう」
「……いいよ」
振り向いて、チャペルを出た。
確信したことがあった。
――違う。
あたしを見ているものは、そこにはいない。
いるとしたら――
試験休みの日、サトシとデートをした。
カラオケの後、ラブホテルへ誘われた。ビデオを見ながらおざなりにいちゃついて、さてお楽しみ……という前に、問い詰められた。
「だれだよ、HIROって!」
シャワーを浴びている隙に、スマホを見たようだ。
「勝手にあたしのスマホ、見るんじゃねーよ!」
「質問には答えろよ。どんな?」
「っさいなあ、ただの友達だよ」
「ほんとか?」
「サトシはひとのこと、言えんの?」
瑠奈は知っていた。以前に学校のギャル仲間と一緒にカラオケボックスに行ったとき、こっそりそのなかのひとりに、サトシが後で連絡を取っていたのを。
「……おまえの様子がおかしいのも、このHIROってやつのせいだな」
「ちげーよ!」
ずっとこんな調子で、全然盛り上がらない。そのままホテルを出てしまった。
憤慨して家に帰ると、珍しく、ママがいた。今度の店は、早番だって言ってたのに。
「お店どうしたの」
「朝気持ち悪かったから、休んだ」
いつもの気まぐれみたい。
奥の部屋には人影が見え隠れしている。ホストを連れ込んでるみたい。どうせ朝まで一緒に酒を飲んでいたんだろう。これで何人目。また貢ぐだけ貢いでポイされちゃうのかな。
お邪魔みたいだったから、家を出た。そしてHIROにメッセージを送ってみた。
――会いたいです。これから、会わない?
SNSで会話した見ず知らずの男と、会うことは初めてではなかった。男のしたいことをしてやり、その代償で「小遣い」や服を貰ったこともあった。
しかし、今度は、まったく違う。
自分になにが起こっているのか。それを知りたかった。
その「LUNA」からのメッセージを見たとき、河田は鳥肌が立った。
「ついに来たか……」
いずれは説明しなければならないことは分かっていた。
意を決して、了解の返事をした。説明する準備をして、待ち合わせ場所に向かった。
(ついに、来るべきものがきた)
瑠奈は「HIRO」からのメッセージを受信したとき、そう感じた。
プログラム任せにしていたのだが、このときばかりは、自分でメッセージを送ったのだ。
高岡山駅で待っています。
指定されたのは、都内にある私鉄の駅だった。行ったことはないところだったが、聞き覚えがあった。
たしか、大学があったはず。こないだ読んだ「大学への数学」という雑誌に、その大学の入試問題が掲載されていた。
副都心線で渋谷を通り過ぎ、自由が丘で乗り換える。急行で高岡山は次の駅だった。
電車を降りるとトイレで念入りに化粧を直し、身だしなみを整えた。
9月も終わりだというのに、まだ暑かった。
改札を出ると、正面の柱に寄りかかるように、紺のジャケットを着た男性が立っていた。
見るからにイケていないけど――このひとだ。
瑠奈は直感した。
歩み寄ると、その男性が声をかけてきた。
「あなた……『LUNA』さんですか」
「そうです」
男は、瑠奈を見て少々面食らったようだ。
そのときの瑠奈の出で立ちは、腰のあたりしか隠していない短いスカート。脱色した髪を肩まで伸ばし、前髪をアップにしておでこを出している。
つけまつげにばっちりメイク。左の耳にはピアスの穴が3つもあいているし、ネイルはこてこてに飾り立て、ラメがきらめいている。
この前送りつけた自撮り写真では、もう少しおとなしめの出で立ちだったが……。
「はじめまして」
「『HIRO』さん?」
「はい。SNSではそう名乗っていました」
目の前の男は、銀縁眼鏡をかけて、肩につくぐらい髪が伸びていた。小太り体型で、着ているジャケットはよれよれで、肩にふけが落ちている。
背丈は自分と同じくらいだが、瑠奈はヒールを履いていたので、男の方が高いだろう。
あまりにも冴えない河田の出で立ちに幻滅したのか。瑠奈はそこはかとなくテンションが下がったようだ。
「せっかく、バッチリ決めてきたのにー」
「……ごめん」
つい、謝ってしまった。
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