第2話
今日は、授業に出た。
「おやおや、珍しいじゃん。どういう風の吹き回し?」
クラスメイトに声をかけられる。
数学Iの授業中、開いた教科書に目を落とす。ページに並ぶ数式や問題は、もはや彼女にとって意味不明な呪文ではなかった。
(解ける)
頭の中で教科書の問題を片っ端から解いていくと、不意に名前を呼ばれた。
「じゃあ頴娃田、この問題2を解いてみろ」
差したのは当てつけだったろうが、問題を確認すると、すらすらと答えた。
「……正解だ」
そのときの教師のびっくりした面ったら。
「今日は授業中、化粧を直してないんだな」
よほど口惜しかったのか、最後に嫌味を言われた。
休み時間。
「すごいじゃん。どしたの?」
「……ちょっとね」
言葉を濁した。
つぎは古文の授業だった。
若い女の教師は、古今和歌集を引いて、和歌の技法について講釈をたれていた。
(……だから、なんだっていうの?)
枕詞、掛詞。本歌取り。歌枕。結局は短い文章を回りくどく修飾して、内輪にしか分からぬ技巧を凝らして飾り立てた文章じゃない。
それから、いくつかの和歌を節をつけて読み上げた。
言葉の響き。音韻。レトリック――
瑠奈の胸の中に違和感がこみ上げる。
(違う)
言葉は、人間を自由にしたりはしない。
逆だ。 人間は言葉の外側に出ることは出来ない。
思考を束縛する檻、いや、拘束具だ。
その拘束具は、自ら着たものなのか、それとも、だれかが着せたのか――
どうしてそんなことを、あたしは考えたんだ?
あたしの言葉はひどく感覚的で、ひとを傷つけてばかりいる。そんな言葉より、よほどたしかなものに巡り会った感覚がする。
結局、数学の教科書は 授業中にぜんぶ読んでしまった。しかし一部、疑問に思うところがあった。
(参考書がないかな?)
放課後、学校の図書室に行った。ここならもう少し、詳しい本があるんじゃないか。
自習スペースには、オタクっぽい、イケてないやつらが何人かたむろしていた。常連らしい。
「ねえねえ。数学の本はある?」
「……あちらです」
度の強いめがねをかけた図書委員が、あからさまにびびって案内する。
ラインナップは想像以上にしょぼかった。棚の半分もない。それに半分ぐらいは数学ネタの読み物で、瑠奈には関係ないものだ。
「もっと、本はないの? 数学や物理の本は?」
「……ちょっと待ってて下さい」
図書委員に代わって、中年の女性が答えた。司書の先生だった。
「いい心がけね。数学の本? もちろん、あるわよ」
司書室に入って、雑誌のバックナンバーを持ってきた。
「こんなのどう?」
「大学への数学」とかゆー雑誌で、めくってみると数学の問題が一杯載っている。
「借りていいですか」
「どうぞ」
この学校に入って初めて、図書の貸し出しの手続きをした。
放課後は、渋谷の大きな本屋へいった。
いつもはファッション雑誌と、たまにマンガしか読まないけど、案内を見て理工書の置いてあるコーナーに行った。数学や物理の本を立ち読みしてると、店員がこっちをチラチラ気にしてる。
どうせ、万引きするんだと思ったんでしょ。
ちょーむかついたけど、ぺらぺらページをめくったらどんどん頭に入っていって、棚に並んでる本を片っ端から読んじゃった。
ラグランジアンも、フーリエ解析も、これでカンペキ。
「大学への数学」も、マックでお茶してるあいだにペラペラめくって、全部の内容が頭に入った。
ちょーイケてるじゃん、
HIROからまたメールが来た。
返事に今日の話を書いたら、ビビってたみたい。めっちゃ受けた。
HIROと連絡を取るようになってから初めて、サトシと会った。
「瑠奈、映画でも見に行こうぜ」
「いい、見たいのないから」
あのときから、時間を浪費する娯楽に興味がなくなった。映画なんてめんどくさいだけ。まあサトシは、映画の内容なんかなんでもよくて、ただ暗がりで手を握ったり、いちゃいちゃしたいだけなんだろうけど。
「じゃあ、カラオケは?」
「やめとくよ」
サトシは不機嫌になった。
「どうしちゃったんだよ」
「どうも……」
「おまえ、変じゃないか」
「そう」
生返事をしながら、ふと、目に入った通りすがりのクルマの、ナンバープレートが気になった。
「足立……1729……」
1729は、2通りのふたつの立法数の和で表せる最小の数。そんな考えが頭に浮かんだ。
「なに、ぶつぶつ言ってんだよ」
サトシがキレた。
「ううん、なんでもない」
どうしてあたしは、そんなことが気になってしまうのだろう。そんなことが分かってしまうのだろう……。
高岡山大学は城南地域の私鉄沿線にある理工系の大学だ。
住宅街に囲まれたキャンパス内には、戦前に建てられた風格のある本館、モダンな職員棟、アバンギャルドな外観を持つ図書館や記念館などが建ち並び、その中に、国内有数のスパコン「ひばり」を擁する計算科学センターがある。センターはいくつかの棟から構成されていて、コンピュータ棟のはす向かいにある古い建物には、数理科学研究室が入っていた。
スパコンは研究の、いや産業全般の要だ。純粋な科学技術目的のみならず、産業界、あるいは人文科学にもその用途は広がっている。
数理科学研究室は、スパコンを使用した学際的な研究を行っている。統計学、暗号理論、さらには人工知能の研究も行われている。
室内は手狭だった。古典的な事務机にキーボード、端末が載っている。どれも使い込んだ感じがする。モニター表示にはコマンド入力の黒い窓が開いている。
部屋の隅に冷蔵庫や電子レンジが置かれていたりする微妙な生活感は、この手の研究室にありがちだ。
しかし、西日の射す部屋は、気詰まりな雰囲気が支配していた。
女性と男性が、仏頂面をして向かい合っている。ふたりとも、ただならぬ顔つきだ。
問い詰められる側の男性は河田宏典、問い詰める側は山下真理衣。ふたりとも、この研究所の研究員だ。
「これは問題じゃない?」
「わかってるよ」
「倫理委員会の許可を得るまで待てないの?」
「そんな時間はないよ」
河田は不機嫌に答える。
「今だってどんどん予算が減らされてるんだ。この研究室自体、いつまで持ちこたえられるか」
「それはどこも一緒じゃない。だいたい、理論の筋は通っているけど、証明できないなんてことは科学の世界ではざらにあるわ」
「被験者が少なすぎるんだ。もともとレアな現象なのに、このままでは検証されずじまいになってしまう」
「だからって……」
「きみには分かるまいよ」
河田は吐き捨てた。
河田の専攻は数理言語学だ。
人間が使う言語、自然言語の文法の構造を解析して、プログラミング言語などの開発に生かすのが研究テーマだ。
(しかしなんで、おれはこんな「食えない」研究課題を選んじまったんだ……)
しばしば自嘲することがあった。
河田の家は裕福ではなかった。
河田宏典は東京の東側に生まれた。子供の頃から勉強が出来たので、中高一貫の進学校に通ったが、そこで衝撃を受けたのは、同級生がほとんど一定レベル以上の金持ちばかりなのだということだ。それまで通っていた公立の小学校とは全く違った環境だった。
かつてこの国にあった教育制度は、理想的とは言えないまでも概ね公正だった。「偏差値」によって自分の客観的な学力が判明し、勉強さえ出来ればそれに応じた教育が受けられる制度が整備されていた。
しかし、ある時期からそれは「諸悪の根源」とみなされた。メディアや識者、政治家や官僚に至るまでそれを破壊することに熱中したのだ。入試では小論文や面接が重視され、在学中のボランティア活動の評価などが制度に組み込まれることになった。その結果現出したのは、高等教育の門は「余裕」があってボランティアや留学に励める階層の者のみに開かれ、勉強のみでかつかつの階層は進学の機会にありつけないという、新たなる階級社会の出現だった。
河田は昔ながらの制度で進学することが出来たが、そうでなければ、高等教育を受ける機会すらなかったのではないか。
大学も大学院も、奨学金を受けて通った。
大学では河田は数理科学を専攻し、プログラミングから言語学に興味を持った。そして大学院では人工知能のプロジェクトに参加した。
研究をさらに進める必要があるので大学院に進学したが、修士課程を修了したとき、時代は就職氷河期だった。自分の研究成果を生かした就職先を得ることが出来ず、博士課程進学を余儀なくされたのだ。そのまま研究にハマって研究室に残ることになったが、それでも身分はポスドク。期限付きの非正規雇用だ。
プロジェクトでは言語についてのビッグデータを解析することにより、言語ごとの特性、そして普遍性を見いだす研究を行っていた。
その結果、河田はある仮説を立てていた。
人間の脳には、言語を生成する機能があらかじめ備わっている。これ自体は「生成文法」といって、言語学では有力な考えだ。
河田はそれを一歩進めて、その生まれながらに刻みつけられている深層の文法が異なっているものがいる、と考えたのだ。
「リーディングスキルテスト」の結果が示唆するものは、この社会には文章が読めない馬鹿が2割いるということではない。言語の不完全性なのだ。
ある種の人間のリーディングスキルが低いのは、本を読まないからでも教養がないからでもなく、皆が使っている言語が脳に刻みつけられた「文法」と合致しないからなのだ。
ではその「文法」を十全に生かす「言語」で思考したらどうなるか。
スパコン「ひばり」を使ったシミュレーションでも、それを示唆する結果が出ていた。
しかし、被験者を用いた実験では、再現はされなかったのだ。
研究を進めるには、もっと大規模に行わなくてはならない。被験者が足らないのだ。
河田が仮定した現象は、よほどレアなことらしい。しかも後天的な知識や教育で「上書き」されてしまうようなのだ。
つまり学生のボランティアではダメ、ということらしい。
「だからといって、こんなことをするのは無茶すぎる」
「わかってますよ」
生返事をする。
河田は焦っていたのだ。
研究職の正規雇用はこのご時世、べらぼうな狭き門だ。象が針の穴を通る方が簡単なくらいだ。
「問題になったら、告発でも何でもすればいい。それに、研究者の道を絶たれたって、収入は大して変わらないだろうしね。今だってフリーターみたいなものだ」
「居直るのね」
「べつに、データのでっち上げみたいなことをするわけではない」
「……勝手にして。でも、わたしは巻き込まないでよね」
山下真理衣は話を打ち切って、くるりと背を向け、そのまま出て行ってしまった。その背中に、河田は心の中で吐き捨てた。
(サラブレッドには、分かるまい)
山下真理衣の父親は昨年まで、ある旧帝大の学長だった。ルーツを辿れば江戸時代の蘭学者に行き着くという学者一族で、親族にはノーベル賞受賞者もいる。
母親も生化学の研究者だが、その傍ら短歌をたしなみ、有名新聞の歌壇の選者も任されている斯界の第一人者だという。
そして彼女は、両親が海外の研究所に勤務していたときに生まれた。幼い頃に5カ国語と、大学レベルの数学を理解していたという。全米から天才を選りすぐった教室で学び、アイビーリーグに飛び級入学した。
日本に帰ってきてからも、あちこちの大学や研究所から引く手あまただ。フィールズ賞の有力候補とも聞く。
おまけにピアノを弾かせれば、そこいらのプロよりハイレベル、とも言うじゃないか……。
彼女は所詮、住む世界が違う人種でしかないのだ。
お盆に実家へ帰ったときの会話を思い出す。
「いくらもらっているんだ?」
給料の額を聞いて、親は眉をひそめた。
研究の内容や成果云々ではなく、稼げるカネの額でしか評価されないのか。それは半ば、覚悟していたが。
「腐るなよ。いずこも同じさ」
学食で定食を食べながら、愚痴る河田に、量子コンピュータ研究室の相本はいった。
「こっちも、もっとカネさえあればいろんな実証研究ができるのに、ポールペン一本買うのにも苦労してるんだ。どこに行っても、そんな話ばっかだよ」
世界の最先端を行く研究をやっていると自負しているのだが、やはり研究資金が乏しくて進捗は芳しくないようだ。
量子コンピュータとは、量子もつれと呼ばれる状態を演算に使用するコンピュータだ。
原理的には、「平行世界」にいくつものコンピューターが存在し、それらが並列して計算を行っていることになる。タスクの種類によっては、従来のコンピュータの1億倍以上の速度で計算できるというのだ。しかし、「平行世界」から適切な答えを持ってくるアルゴリズムを書くのが難しい。
それでも、いくつかのアルゴリズムが提唱されている。素因数分解をきわめて高速に解くショアのアルゴリズムや、検索効率を飛躍的に上げるグローバーのアルゴリズムが有名だが、それでも量子計算のポテンシャルを出し切っているとはいえないのだ。
理想の量子コンピュータが完成したら、その用途は無限だ。純粋科学以外にも、様々な状況のシミュレーションが可能になる。生命科学、産業、医療、防災など、応用分野は挙げれば切りがない。
もっと研究にリソースをそそげば、ブレークスルーを破ることも出来るかもしれないのに。
しかし限られたリソースと資金を、河田たちの研究と取り合っている状態だ。
同病相憐れむ状況、とでも言うべきか。
「これがうらやましいよ」
相本がかざしたスマホの画面には、動画が映っている。
ネットで話題をさらっているニュースだ。宇宙太陽光発電の実証実験と、それが首尾よくいったという、衛星軌道上からの中継映像。
世界的なIT企業の創業者、トーマス・シュテルマンが出資した宇宙ベンチャー企業によるもので、ネットでは連日派手派手しく中継されていた。
宇宙太陽光発電は人類の夢である。昼夜や天候に左右されない宇宙空間で太陽光発電を行うことが可能になったら、火力や原子力発電と同様な恒常的な発電になる。燃料も不要だ。それに宇宙空間では、地上よりもはるかに大きな構造物を作ることが出来る。
太陽光を浴びるだけで膨大な電力が作れる。まさに究極のクリーンエネルギー。二酸化炭素も放射性廃棄物も出さないし、これまでのように天気次第、風次第ではない。地球規模のエネルギー問題、環境問題の解決に役立つことになる。その一歩が踏み出されたのだ。
それにひきかえ……彼我の差は、目がくらむようだ。
結局すべては、カネ次第ってことか……。
そのとき、スマホがバイブした。
「LUNA」かリプライが来たのだ。
自撮り写真が添付してあった。極限までデコってあるとおぼしき画像。
――みてみてー。あたしあたし
うーん……。
河田は顔が引きつった。
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