第5話
それから、瑠奈の被験者としての生活が始まった。
「HIRO」ではない河田宏典として瑠奈と連絡を取り、放課後や休日、私鉄に乗って大学の研究室に行く。
河田やほかの研究者と会って、いろいろなテストや検査をされた。
「ひろちゃん、そっちの方が似合ってるじゃん」
白衣を着た河田を見て、軽口を叩いた。
にやにや笑ってみている。
「ひろちゃん、ですって?」
「もてますねえ」
「笑うなよお!」
院生のからかいに、河田は苦笑した。
瑠奈が先ず受けたのは、ベーシックな知能検査だった。
「ムラが多いけど、アスペルガーとも違うパターンだね」
試験を実施した臨床心理士は言った。
数学能力、空間認識能力は有意に上昇しているようだ。文章能力も相当高い。他は平均レベルで、項目ごとの差が相当ある印象だ。
「サヴァン症候群ですか?」
知的障害や発達障害のあるものには、常人の及びも付かない特異な才能を発揮するものがいる。それではないか。
「違うようだ」
少し考えて、否定した。
「サヴァン症候群と呼ばれるひとたちの『能力』はたいがい、役には立たない。時刻表を隅から隅まで覚えて暗唱しても、足し算が出来なかったりする。円周率を100万桁暗唱できることより、「無理数」という概念を理解すること、じっさいの面積を測るときには近似値を使うこと。そちらの方がはるかに重要。かれらの能力は、わたしたちの社会で有用とされる『知性』とは別物なのだ」
瑠奈は続けて、別の検査を受けた。
「次は、脳機能マッピングを行います」
計測器のオペレーターが話しかける。
「このプローブをかぶってください」
奇妙な端子がたくさんつなげられた布のキャップを渡された。
かぶって端から見ると、まるでパーマをかけているようだった。
「ねえねえ、これ、写真を撮ってSNSに上げてもいい?」
「勘弁してよ」
河田は苦笑した。
「光トポグラフィー」という装置で、赤外線を脳に当てて血液中のヘモグロビン濃度変化を計測し、リアルタイムに脳の機能をモニタリングする。「神の言語」に彼女の脳がどう反応しているのかを測定するのだという。
この状態でテキストを読まされたり、デジタル音声の朗読を聞かされたりした。
「ふむ」
データを取ると、刺激的な結果が次々に出てくる。河田は研究者としての本能をかき立てられっぱなしだった。
しかし、不満も出てきた。
「これじゃ、隔靴掻痒だよ。もう少し突っ込んだ研究が出来ればなあ」
愚痴るように言った。
「もっと精密な設備のある施設で行うかな」
しばし考えて、
「大沢先生に頼んでみるか」
しばらくして。
瑠奈と河田は、高岡山大学の系列ではない病院で、もっと詳細な脳の機能検査をするために出向いた。
「はじめまして」
中年の大学教授は、柔和な笑みを浮かべて河田と瑠奈を迎えた。
「こちらが、今日の研究に参加する大沢先生」
河田は瑠奈に紹介した。
大沢は河田の先輩に当たる人物であり、人間の言語機能を脳科学的に解明する研究の第一人者だった。「文系」の学問である言語学を「理系」である脳科学と融合させる
「論文、読ませて貰ったよ。実に興味深い。精密な脳機能マッピングを行えば、より詳細な記録が取れる。言語と脳機能の関連においての研究が、大幅に進歩するだろう」
河田はメールで論文を読んでくれるよう連絡し、協力を得たのだ。
瑠奈は病院にあるような機材の並んだ部屋に通された。
まず、大きなベッドに横たわり、頭部を金属で出来たドームに突っ込む。
終了後、次に受ける検査を行う部屋に通された。
リクライニングできる椅子と、背後から伸びるアームは、歯医者の診察台を思わせる。アームの先には8の字型のパッドが取り付けられている。
「これから頴娃田さんに行うのは、経頭蓋磁気刺激法と呼ばれる手法の検査です」
「けいとうがい……?」
「略してTMSと呼ばれていますね。この電磁石を頭部に密着させて、発せられる磁気を脳内に浴びせます」
大沢はパッドを指さして言った。
「磁気によって脳内に渦電流が発生し、ニューロンを興奮させることによって、脳細胞の機能を調べるテストです。ふたつの電磁石の磁力線を交差させることによって、脳内領域のピンポイントを対象にした照射が可能になりました」
「ちょっと、怖いな」
「心配要りません。最近ではマッピングだけでなく、脳卒中の後遺症や、パーキンソン病、さらにはうつ病など従来『心の病気』と呼ばれたものの治療にも使われています。照射時に刺激を感じることはありますが、健康に影響はありません」
そして、ヘッドマウントディスプレイを被せられた。
スパコンが生成した「神の言語」を読みながら、TMSで大脳の言語野に刺激を与える。どういう脳の状態になっているかのモニタリングは、リアルタイムでなされる。
大沢は瑠奈のこめかみにパッドを当てた。
「ブローカ野に刺激を与えます」
ぴくり。
指がかすかに動く。
「……いたっ」
思わず、声が漏れる。
「ちょっとだけですから、我慢して下さい」
ぴくり。
ぴくり。
大脳に刺激を送るたびに、指が動き続ける。
うなじに脂汗がにじむ。
瑠奈がかぶったHMDの内側では、文章が表示されていた。イヤホンからは指示の音声が聞こえる。
「表示される文章を読んで、構文的に正しいと判断したら、手に握ったボタンを押してください」
文章は「主語+述語」の短いものから長いもの。単純な構文から複雑な構文。そして「神の言葉」を秘めた文章に変わっていった。
読んでいく打ちに、ふっと、意識が遠くへ飛んだ。
――――――
瑠奈は、過去の記憶を呼びさまされていた。
それは彼女が10歳のときに起きた、一番思い出したくないことだった。
――神様なんか、いない。いたら、あんなこと起きない。
歯を食いしばる。
――いや
誰かが、いる。
この前と同じだ。素数が爆発したとき。
人間の姿を取っていない。意思だけの存在。
――あんたは、だれ?
答えがない。
――ずっとあたしを、見てたの?
肯定、の意思が伝わってきた。言葉ではない。しかし言葉よりたしかなものだ。
――じゃあ、なんであたしに、あんなことをしたの? だまっていたの?
闇がゆがみ、極彩色の
――あんたは宇宙人? 違うよね。
(わたしはアルファにしてオメガ。全ての始まりにして終わり。個にして全、全にして個……)
――何言ってるの?
(……!)
――あたしの前から、どきな!
言葉を投げつけた。
様子がおかしいのは、すぐに分かった。
「なにを言ってるんだ?」
「反応がおかしいぞ!」
「ストップストップ! 実験中断!」
実験スタッフは恐慌に陥った。
「今日はここまで!」
大沢は叫んだ。
――――
「……終わったよ」
HMDを外すと、瑠奈の顔面は蒼白になっていた。
「だいじょうぶ?」
河田は気遣う。
「悪夢を見たのか」
「……夢じゃない」
自分を抱きしめるように、肩を手のひらで包んだ。
「気分でも悪いの?」
チェアから起き上がった。
「……平気」
河田は瑠奈を研究室の外まで送り届けた。
「今日はもう、帰っていい。なんなら、送ろうか?」
「いい」
瑠奈は駅まで歩いて行った。
その検査を受けて以来、瑠奈の様子は変化を見せた。彼女の知能はますます向上したのだ。
一週間ほどして、大沢が河田の研究室にやってきた。データ解析の結果を携えていた大沢は、河田と瑠奈に話しかける。
「ちょっと衝撃的だったな……彼女、違うんだよね」
「何が……?」
「脳の構造が」
「……」
河田は自分の仮説が正しかったことを思ったが、それ以上に、衝撃だった。
(やはりか……)
「解剖学的に違っているのかはわからないけど、fMRI検査では、脳の活動領域が常人と違っていることが判明しているよ。とくに言語野。通常『言語野』と呼ばれるウェルニッケ野の機能は人並みなんだが、それに比べて、もうひとつの言語野であるブローカ野の機能が、異常に亢進しているんだ。あまつさえ、通常ならブローカ野はウェルニッケ野と連携しているはず。頴娃田さんの場合は、それが別々に機能している」
「……」
唖然とする瑠奈。
「もう少し、詳しく説明しましょうか」
大沢は、学生にレクチャーする教授の口調になった。
「ブローカ野は、脳の中で『文法』を司っている領域だ。この領域に損傷が生じると、ブローカ失語と呼ばれる症状を示す。脳内の文法が破壊されて、複雑な構文が作り出せなくなるんだ。たとえば『わたしは三丁目のコンビニで弁当とジュースを買って帰った』という文章が、こう表現されてしまうんだよ」
そして大沢はたどたどしくしゃべり始めた。
「『あー、わたし……弁当……コンビニ、あと、はい、三丁目、えー、帰ってきた、あージュース……』。言いたいことは分かるし、単語も知ってるんだよ。ただ、まともな文章にならない」
「ううむ、なるほど」
「興味深いことに、チンパンジーに手話を教えても、同じような状態になるんだ。文法の存在しない、単語のぶつ切りが並んでいるだけの会話になってしまう。大人のチンパンジーの知能はヒトの幼児と同程度だ。道具を作ったり、ビデオゲームをプレイしたり、鍵の使い方を覚えて檻から脱走することも出来る。人間の言葉も聞き分けられるし、抽象的な概念、例えば『死』のようなものも理解できるんだ。ただひとつ違うことは、チンパンジーの脳では『文法』が生成できない。しかしヒトの幼児は曲がりなりにも文法が作れる。つまり、『文法』は人間と動物を分かつメルクマールなんだ」
瑠奈はきょとんとなる。
「となると、あたしは、なんなの?」
「河田君が唱えた仮説を、わたしも支持するよ」
大沢は瑠奈に向き直った。
「頴娃田さん、あなたの脳――ブローカ野には、ヒトが使っている『文法』とは別次元の文法、いわば『超文法』を生成する回路が組み込まれている。得体の知れない『超文法』をもった脳の一部を使って、われわれと同じ『意識』をエミュレーションしているのだ」
大沢は断言する。
要するに、瑠奈はわれわれとは全く違った原理で思考し、「意識」を持っていた、ということか。
「きみは脳の一部で、われわれ通常の「人間」の「意識」を擬した機能を作り出していた。ちょうど、今のパソコンやスマホで昔のゲームをプレイするために、擬似的に同じ環境を作り出すソフトを走らせているようなものだ。そのエミュレーションを『意識』だと思っていたようだな」
「じゃあ」
「いまはきみの知性の『本体』が目覚めつつあるんだ。エミュレーションとしての『意識』に覆い隠されていたものが、姿を現しはじめた」
「すごいわ。でも」
「でも?」
「あの格好さえ、なんとかしてくれればねえ……」
山下真理衣は瑠奈を見やって、ため息をついた。
どうも「育ちのいい」彼女にとって、ギャルの瑠奈は理解の外の存在らしい。
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