第93話 忘れていた事

 目を開けても閉じても、広がっているのは黒一色だった。

 空も大地も無く、昼も夜もない。

 上下の感覚も無く、音もない。


 ただひたすらに虚無の空間--


 あるのは孤独だけだった。


「お父さま……お母さま……お姉さま……」


 懐かしい自分の声が闇に吸い込まれていく--


 孤独に感情が殺される--


 声を失っていく--


 救いを求めて伸ばされた手を掴む者はいない--


 絶望に心が死んでいく--


『セーラ!!』


 ゆっくりと目を開くと、見慣れた顔が心配そうに自分を覗き込んでいた。


 ぼやける視界に違和感を感じて目を擦ろうとして気がついた。


 ギュッと握られた手--


 そこから伝わる温かさがたまらなく嬉しかった。


 視界が滲む--


 そこでようやく自分が泣いていることに気がついた。


「ありがとう、お姉ちゃん」


 口に出して驚いた。

 理由は分からない、だが声が出た。

 ひょっとしたら元々喋れたのかも知れない。


「あれ? え? セーラ声が……」


 ユーリさんの顔が驚きに染まっている。

 驚きすぎて変な顔になっているのが無性におかしくて声を出して笑ってしまった。


 それに、気がついたらお姉ちゃんと呼んでいた。

 まだはっきり思い出せないが、自分には優しい姉がいた気がする。

 あの暗闇の記憶は恐怖でしかないが、今はこの手を掴んでくれる人がいて、笑いかけ、返事をしてくれる人がいる。


 だから今は平気だと思える。


「よかったぁぁぁ! 喋れるようになったんだねぇ!」


 ユーリさんは涙を零しながら喜んでくれた。


 彼女に出会った日の事は、実はあまり記憶にない。

 はっきりと思い出せるのは『一緒においでよ』と言って、今と同じように優しく手を握ってくれた事--


 あの時は私はどんな顔をしていただろう?


 きっと無表情だったに違いない。


 でも本当は泣き出しそうなくらい嬉しかった事を今更理解した。


 ユーリさんと出会う前にどこにいたのか、私がどこの誰なのか、まだほとんど思い出せない。


 頭を掠める記憶の断片は悲しくて嫌なものばかりで、正直思い出したいとは思えない。


 この先どうなるかわからないけど、この人が一緒にいてくれるから大丈夫だと思える。


「本当に良かったぁ、凛もきっと驚く--」

 “コンコン”


 扉を叩く音に、弛緩していた場の空気が凍りついた。


 その理由はだだ一つ--


「お邪魔しますよぉ」


 一度聞いたら忘れられない、まとわりつくような

 不快な声が部屋に響いた。


 ------


 なんとなく予想はしていた。


 テリーの入手した情報が嘘だとは思っていなかったが、これまでの敵の動きを考えれば、最後の最後で簡単に尻尾を掴ませるとは考えにくかった。


 テリーが敵側でなく、それでいて情報が手に入った理由など一つしかない--


「やっぱり罠だったか」


 広々とした吹き抜けのロビーの中央でリンとテリーは数十人の男たちに取り囲まれていた。


「本当に来るとはな、歓迎するぞセントアメリアの英雄殿」


 リン達の正面、二階へと続く豪奢な階段に腰を下ろしていた長髪の男がそう声を上げた。

 すぐに理解する、この男が敵のリーダーだろうと。


「お前がリーダーだな、単刀直入に言う、攫った人たちを開放しておとなしく投降しろ」


 無駄な事だとは思ったが、一応そう言ってみる。

 リンの言葉に、あちこちからゲラゲラと頭の悪そうな笑い声が上がった。


「はははは! 聞いていた通り、ずいぶんとお優しいんだな? 帝国との戦争もそう言って解決したのか?」


 長髪の男が隣にいた男にそう問いかけた。


「しらん、俺はその場に居なかったからな」


 フードを目深に被っているので顔は見えないが、明らかに一人だけ温度の違う男がそう答えた。


「まぁいい、こっちはさっさと終わらせてパァーっとやりたいんだ。 そういう訳で悪いが申し出は受けられないな」


 長髪の男が見下したようにそう言うと周囲の男たちが一斉に殺気立ち始めた。

 リンが小さくため息を吐き、身構えようとした瞬間――


「おおっと! 動かないでもらおうか? ちょっとでも妙な動きをしたら――」


 長髪の男がそう声を上げると、顎をしゃくってみせた。

 リンとテリーがその先に視線を向けると――


「ケイン!!」

「お父さん!」


 首にナイフを突きつけられた少年が目に飛び込んできた。


「ッチ!」


 リンは小さく舌打ちをする。

 予想はしていたが、人質の登場だった。


「ははははは! そういう事だ、優しい英雄様ならこの状況の意味がわかるよな?」


「ああ、お前らクズのやりそうな事だ」


 そう悪態をついたものの、事態は一気に不利になった。


 とは言え、罠を承知で正面から乗り込んだのだ、このぐらいの事は想定済みだった。


 だが、この事態に一気に余裕をなくした者が一人――


「ケイン! 大丈夫か? けがは無いか? そうだ、マリーは、お母さんはどうした?」


「僕は大丈夫です! お母さんは――分かりません」


 息子のその言葉にテリーが長髪の男に怒声を上げる。


「貴様ぁ! 妻を、マリーをどうした!?」


「ん? ああ、あの女か……」


 長髪の男がわざとらしく考え込むそぶりを見せる。

 その姿に、悪い予感が脳裏を過った。


「殺しちまったよ、悪いな」


 最初その言葉の意味が理解出来なかった。

 と言うよりも、理解したくなかった。


 考えなかった訳じゃない、むしろその可能性は決して低くないと思ってはいた。


 だが、どこかで上手くいくと思っていた。


 そんな甘い話はどこにもない事を知っていたのに--


 知っていたはずだったのに--


 現実は常に残酷だ。


 特に弱者はささやかな幸せすら守らせてくれない。


『嫌なら抗え、優しさだけじゃ何も守れない』


 頭の中に響く声--


 その声に答えるように、リンは手にした白月の鯉口を切った--


「もういい、喋るな」


 リンの言葉がロビー全体に響いた。

 決して大きな声では無かったが、妙にはっきりと響いたその言葉にロビー全体が水を打ったよう静まり返る。


 だが、それも一瞬の事だった。

 あちこちから上がった笑い声は直ぐにロビー全体に広がった。


「そうだったな……忘れていた」


「ぎゃははは! なんだ? 恐怖のあまり頭がおかしくなっ-- あ?」


 ケインにナイフを突きつけていた男の馬鹿にしたような声がそこで途切れた。


 ズッと肩から脇腹にかけて男の上半身が


 べチャリという音を立て、男は声もなく崩れ落ちた。

 その時になってようやく長髪の男は人質にしていたはずの子どもが既にリンの腕の中にいる事に気がついた。


 だが、何が起きたのかほとんど理解出来ずにいた。

 ただ一つ分かる事は仲間が殺され、人質を失ったという事だけだった。


「ッッッ!! テメェ! 立場分かってんの?! 人質ならまだいくらでも--」

「残念ながら攫った人達ならここにはいませんよ」


 そう言って姿を現したのはウェインだった。


「リン様、手筈通り攫われた人達は全員救出しました」


 ウェインはそうはっきりと口にしたが、実際全員を救出できたかは分からなかった。

 商館全体を確認するほどの時間はまるで無かった為、もっとも可能性の高い地下牢しか確認出来ていなかった。


 冷静に考えれば分かりそうな事だったが、次々と起こる予想外の展開に、長髪の男は冷静な判断が出来なかった。


「チクショウ! もういい! お前ら一斉に--」

「黙れ」


 呟きの様な小さな声だった。


 だがその場にいたもの全員の動きが止まる。


 声が耳に届いたその瞬間、まるでこの場所が極寒の地と錯覚するほどの寒気に襲われた。


「これが最後の警告だ--攫った人と人質を解放して投降しろ、さもなければ--」


 それは純然たる殺意が込められていた。

 もはやその場に抵抗する意思のある者などいない--

 誰も彼もが本能に訴えかける恐怖に屈する他無かった。


「殺す」


 その一言で全てが終わった。

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