第90話 招かれざる客
積み上げられた書類の山と格闘する事半日、ライズはあちこちに鈍い痛みを感じていた。
気がつけば外はとっくに暗くなっていた。
一日中身体を預けていた椅子から立ち上がると、大きく肩を回し、身体を伸ばす。
「やれやれ、本当によくもこれだけ問題を放置してきたものだ」
調べれば調べるほど、この街の政治はひどいものだった。
これほどの悪政を敷いていた前領主に怒りを感じる以上に、それに気が付いていなかった自分が情けなくなっていた。
コンコン――
遠慮がちにノックされた扉の向こうにライズが返事をすると、ゆっくりと扉が開く。
そこには屋敷のメイドでは無い女性がトレー片手にこちらの様子を伺っていた。
「失礼します、あの何か口に入れた方がいいかと思って……」
見ればトレーの上にはサンドイッチの様なものと湯気を立てるカップが乗せられていた。
「ああ、ありがとう。 セリナさんも忙しいのに申し訳ない」
「いえ、こんな事しか出来ませんので」
セリナはふんわりした優しい笑顔を浮かべた。
屋敷に来た初日などは恐縮しきっていたものだが、今では大分慣れた様子だった。
「そうですか、もし何か困った事があればいつでも言ってください、リン様からも最大限取り計らうよう申しつかってますので」
「とんでもありません! ただでさえ身に余るほどの援助を頂いています」
そう言うとセリナは恐縮してしまう。
これまでの境遇を考えれば無理の無い事かもしれない。
「分かりました、ですが何か困った事があったら私でなく、シン殿でも構いませんから仰ってください」
とは言ったものの、実際この手の話はこの屋敷にセリナ達が来てから既に何度も伝えていた。
その度に「本当に大丈夫です、ありがとうございます」と返ってきた。
だが、今回は違った。
普段ならトレーをテーブルに置くとすぐに部屋を出て行くのだが、今回はその場にとどまった。
その様子から何かを言いたいのだろうことはすぐに察しがついた。
だが、言いづらいのか言いだす事が出来ないと言った様子だ。
ライズは少し考えてトレーの置かれたテーブルへと着くとセリナへと声をかけた。
「よかったら座りませんか? 一人で取る食事も味気ない」
その言葉にセリナはハッとすると、おずおずと向かいのソファへと腰を下ろした。
ライズはなにを言う訳でもなく、サンドイッチを口に運んだ。
しばらくそのまま無言の時間が続いたが、ライズが最後のサンドイッチを食べ終える頃、セリナが遠慮がちに口を開いた。
「領主様は……その、大丈夫でしょうか?」
大丈夫、その言葉が意味するところはきっとリン自身の事を言っているのではないだろう、無事目的を果たして戻ってくるのか? そう言う意味だとライズは思った。
「大丈夫、とは約束出来ないでしょう」
ライズは正直にそう伝えることにした。
今回の一件は、事の発端から時間も経っている。
最良の結果が出る可能性はむしろ低いと考えていた。
既にどこかに売られてしまい、救出が出来ない可能性の方が高い。
それでも情報さえ手に入れば、いずれは助け出す事が出来るかもしれない。
ライズはそう、セリナに説明した。
「はい、それは私も覚悟していました。 私が心配しているのは領主様ご本人です」
その言葉はライズにとって予想外だった。
まさかリンの心配をしているとは思わなかったからだ。
セリナの優しさに思わず笑みがこぼれた。
「その点は心配無いでしょう、余程の事があってもリン様は無事戻られますよ」
そんなライズの言葉にもセリナは不安そうな表情は消えない。
だが、それも当然だろう。
リンの実力をじかに見た者でもない限り、そこらにいる若者となんら変わりは無い様に見えるだろう。
セリナも若いが、彼女から見てもリンはなお若い。
普通に考えれば心配にもなるだろう。
「リン様の実力は元騎士団長の私が保証します」
「そ、そうですか……」
とは言ったもの、セリナは半信半疑だった。
戦争から王国を救った英雄というのは何度も耳にしている。
だが、具体的な事を聞いたことはないのだ。
唯一知っているのはルフィアが帝国に攻め込まれた際に指揮を執り、傷ついた人達を救った事ぐらいだった。
「やはり信じられませんか? そうですね……例えば--」
それから一時の間、ライズはリンが先の戦争でなにをしたのかをセリナに語る事にした。
もちろんリンの不死に関しては伏せ、話せる事に限ったが、それでもここ数日仕事に追われていたライズにとって、人と話す時間は充実したものだった。
セリナも最初は相づちを打つ程度だったが、話を聞いている内に徐々に話に熱中していった。
そして気がついた頃には、結構な時間が経っていた。
「こんな時間まで付き合わせて申し訳無かった」
「いえ、ライズ様のお話、とても楽しかったです」
「いや、なにやら途中から自慢話になっていた様で恥ずかしい限りです」
最初はリンの話をしていたはずが、気がつけば自分の話になっていた事もあり、ライズは気恥ずかしくなった。
「うふふ、そんな事ありません。 また聞かせて下さい」
「ええ、あんな話で良ければいつでも」
その場に誰かが居れば、その雰囲気に思わず頰が緩む事だろう。
その程度にはいい雰囲気だった。
屋敷を取り囲む、不穏な空気にライズが気がつくまでは--
------
「----やれやれですな」
食堂で子どもたちと共に後片付けをしていたシンが唐突にそう呟いた。
「どうかしましたか?」
アリスが不思議そうにそう尋ねるとシンは少し考えてから口を開いた。
「私は少し外れさせて頂きます。 申し訳ありませんが、殿下はここから子ども達と動かないでいただけますかな?」
その言葉の意味にアリスは一瞬気がつかなかった。
だが、意味を理解した瞬間アリスに緊張が走る。
この食堂はリンが万が一に備え、強固な結界を張っている。
出入り出来るのは屋敷に住む者だけだ。
その食堂に待機しろと言うことは、
「ご心配には及びません、ただ、
シンはそう言うとまるで気負った雰囲気など見せず、悠然と食堂から出て行った。
食堂を出たシンが最初に向かったのは執務室だった。
外の気配はまだ遠く、すぐにこちらに来る様子はないので特に焦った様子もない。
シンが階段を登ったところで、目的の人物とセリナが視界に入った。
どうやら彼も気がついた様子だ。
隣にいるセリナの表情がそれを物語っていた。
「シン殿、やはり気がつかれましたか」
「はい、殿下達は既に食堂におります。 ライズ様は他の者たちを食堂へ」
「分かりました。 完了し次第すぐに私も向かいます」
シンは小さく頷くと登ってきた階段を下り、外へと向かって行った。
その後ろ姿にライズは独り言の様に呟く。
「必要無いかもしれませんね」
「どういうことですか?」
セリナが不安げな問いかけにライズは「心配いりません」とだけ言うと、セリナを食堂へ行くよう促した。
「私も手伝います」
一瞬躊躇ったものの、あまり猶予もない。
ライズはセリナに一階を任せ自身は二階を回る事にした。
その頃、シンは既に門の前にいた。
見張り衛兵に声をかける。
「少々仕事を頼まれてもらえますかな?」
シンはこの場を任せ、すぐに騎士団の詰所へ行き、クリスに応援を出すよう伝えて欲しいと命じた。
シンの指示に衛兵はすぐに騎士団の詰所へと走り出した。
「さて、これでいいでしょう。 屋敷の者達も既に避難を終えた様ですな」
シンは屋敷の中の気配だけで正確に把握する。
残された仕事は招かれざる客の対応だけ。
シンは暗闇へと視線を向け、その時を待つ。
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