2016-10-20

 エッジ。

 それはまだ彼が彼の役割をきちんと持ち、それを全うしていた頃。彼が生きることに苦痛を感じることもなく、生きようと、もがくことも、それが無駄なあがきだと感じることもなかったころに与えられた名前。彼は知る由もなかったが、その名前は、「極端すぎて使い物にならない」という、失敗作の烙印だった。


 薄暗い路地に日が射して、衰えた目がかろうじてとらえる光に痛みをおぼえる。彼の一日はそうして始まる。

 日から逃げるように暗がりを探して歩いた。

 痛みから逃げるように粗悪なドラッグを噛み砕き、目と耳のはたらきを正常にまで押し上げる。底冷えのする日などは、手のひらにちいさな炎を浮かべて暖を取ることもあった。

 腹が減ると人を殺した。

 仕事が入ると人を殺した。

 金はすべてドラッグになる。

 死体はすべて腹に入る。


 そんな生活が変容したのは、「おじさん」に出会った時だった。「おじさん」は仕事をよく回してくれた。「おじさん」はいつも彼が払う半額ほどで、ドラッグを売ってくれた。


 「……あの、きょう、おれ、かね、あるから。」

 金も家もなかったころ、時折「店番」と称して店の隅に座り込むことを許してくれた優しい店主に、今までの分を払うからと、紙幣をくしゃくしゃに握りしめて渡せるのも、すべて「おじさん」のおかげだった。

 「いいんですよ、私が食べたり、飲んだりするついでに差し上げていただけですから。」

 にっこりと笑う店主がくれたココアを飲めなかった時のこと。あの時の優しく甘い匂いと、あたたかさを思い出した。

 「……じゃあ、あの、」

 今日はご飯を食べたい。ココアも飲みたい。

 それだけ伝えるのがひどく恥ずかしくて、店主の顔も見られなかった。下を向いてぼそぼそと、だったものの伝わったようで、嬉しくなって、照れくさくて、顔があつくなるのが分かった。

 薄汚れたコートのフードを引っ張って、顔を隠して、そわそわする気持ち、きょろきょろしたくなる気持ちをぐっと堪えて待っていた。

 少しするとココアが出てきて、店主が笑顔で、目の前に置いてくれた。紙幣を握りしめたままだったのを思い出して慌ててポケットに突っ込んだ。指がすこし、切れた。

 目の前に置かれたココアと、差し出された白い布。布の方の意味が分からずに店主を見ていると、「受け取ってください。」とにっこり。受け取ったそれはほんのりあたたかく、いい匂いがした。

 「手とか、口とか、汚れてしまったら、それで拭いてくださいね。」

 「わかった。」

 はじめまして、白い布。そんな気分だった。


 柔らかくてあたたかいそれでひとしきり手を拭いて、渡してもらった時と同じようにきれいに広げてココアの隣に置いた。拭いた手にいい匂いが移っていて、嬉しくなった。


 手を拭いて、匂いを嗅いで、嬉しくなってまた手を拭いてみる。何度かそうした。

 「ココア、冷めてしまいますよ?」

 店主はまたにっこりしていた。


 勧められてやっと飲んだココアは、とても甘くて、口の中いっぱいに幸せが広がるような、ほっとする味だった。鉄くさくなんてないし、すっぱいこともない。

 「おいしい。」

 「ありがとうございます。」

 ぺた、と何気なく自分の顔を触ると、びっくりした顔をしているのが分かった。面白くて何度か触った。


 顔を触って遊んでいるうちに、今度は大きな皿に、何かたくさん小さいものが載って出てきた。

 「ピラフですよ。」

 聞いたことのない名前だった。


 「ぴらふ」

 たくさんのつぶつぶをスプーンですくって食べた。つぶつぶが上手く噛めなくて難しかった。でもとても美味しかった。上手く食べられないがためにしばらくムキになって食べ続けた彼は、険しい顔でスプーンを口に運び、ごくん、と嚥下の度に嬉しそうに破顔した。


 皿の上にみっつだけ残った粒と彼が格闘していると、声がかかった。

 「大丈夫ですよ。それ、とれないでしょう。」

 「とれない、にげられる。」

 「ココア、まだ残ってますからね。一回休憩しましょう。」

 「ここあ」

 言われて思い出してようやく見たココアの水面は、最初に見た時より、少しだけ色が薄くなっている気がした。放っておいたから拗ねてしまったのだろうか。

 「ここあ、すねた。」

 「大丈夫ですよ、拗ねてませんよ。」

 にっこり笑った店主が木の棒を取り出して、ココアを混ぜた。色がどんどん濃くなっていくのに、彼は目を丸くして覗き込んだ。

 「げんきになった。」

 「はい、元通りです。」

 嬉しくなって、カップの半分ほどを一気に飲んだ。

 残った半分を見ながら、彼はようやく、自己紹介を一度もしていなかったことに思い至った。最初に会ったら挨拶、くらいの知識はある。少し慌ててカップを置いて、店主の黒くて大きな目を見た。

 「おれ、えっじ。」

 「あ、はい。私はオオクボといいます。よろしくお願いしますね、エッジ君。」

 「おっくぼ、よろしく。……あ、かね、はらう。」

 店主の笑顔がどうにも気恥ずかしくて、そそくさと視線を逸らし、ポケットの中から紙幣を掴んで、店主の前に置いた。人の笑っているのを見るのは、とても恥ずかしい。

 「ここあも、ぴらふも、おいしかった。ありがと!」


 それから走って帰った。

 なんだかとても嬉しい気持ちだった。

 ドラッグが切れたせいで見えなくなって転んだけれど、それでも嬉しかった。金はもう手元には一枚もない。明日からのドラッグに変えて、オオクボに渡したそれで、もうなかった。それでもなぜか、嬉しかった。

 「おじさん」にもらった部屋に着いて、すぐに布団にもぐりこんだ。真っ暗で何も聞こえない。いつもの安心感と、心のふわふわする感じ。いつもと同じ布団なのに、白い布の匂いや、ココア、ピラフの味を思い出して、オオクボのことも思い出して、なかなか寝られなかった。

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