2016-09-09

 快晴。

 雲一つない、わけではないが、のんびりと白が流れるきれいな空を遠く眺めながら、窓辺にテーブルを置き、小さなボウルにいっぱいのミルク。浮かんでは沈むシリアルを眺める。私はこれが好きではなかった。

 ざりざりと口内をひっかく、配合飼料に似た茶色いもの。咀嚼をするたびにがりごりと厭な音がする。ほんのりと甘い香りが不釣り合いで、ミルクを吸って重くじっとりと食感を変えるのもおぞましい。

 ただ、邸の彼女らにとってはそうではないらしく、我が家の朝食にはこれしか出ない。


 口いっぱいに頬張って嫌悪感を喉で押し込め、それを胃に押し流すように飲み下す。もはや作業でしかないそれを繰り返し、最後に、傷ついた粘膜を癒すようにミルクを飲みこむ。

 私のシリアル嫌いは、ミルクに移ってなお主張を続けるその香りにもあった。口内から鼻に抜けるどろりとした甘さが気に食わない。


 食事を終えて、私は席を立つ。


 快晴。

 遠く高く見えるこの空が、実はそう遠くも高くもないと知ったのはいつだったろうか。もうずいぶんと昔になる気がした。

 ゆったりと流れる雲は、どこかへ行って、また帰ってくるのだ。


 一定のペースで歩き続ける。仕事場までさほど遠くはない。私が急ぐ必要もない。到着予定時間と、出発時間を鑑みて決まるペース。出勤に走ったことは一度もないし、この街なみで、走っている人を見ること自体が稀なものだった。街路に植わった緑も、時折人が連れて歩く犬や猫や羊やなんやといった獣も、何もかもが、計算しつくされたかのような緩やかで穏やかなペース。

 雲と同じように流れてゆくだけのそれは、見ていても非常に退屈で、どうせ同じところに戻ってくるのだろうと思うと、見る価値もないように思えてしまう。

 

 駅前、快晴。

 すうっと音もなく入ってくる電車。これを逃してもまだ間に合う。以前問題となった黒い煙などどうでもいい、清涼な空気を吐き出すようになったところで、大気も、人間も、獣も、植物も、今や気にしない、気にする必要のないものの方が多いというのに。

 聞こえてくる音。声。


 アンドロイドに人権を。


 人権も何もないだろうに。

 もう既にアンドロイドも人間も、獣でさえも大差がないというのにまだ何をしつこく。

 小さな溜息とともに口の中で小さく、文句をいうものの、ただ流れるだけのものよりは興味をそそられたのも事実だった。効率的な流れを無視して集団で立ち止まり、大声を張り上げ、意味のない文言を並べ立てたプラスチック製の看板を掲げる者たち。どうしてそこまで、何をそこまで、することがあるのか。

 私にはもう久しく感じられる、その情動のエネルギー量に惹かれた。


 アンドロイドに人権を。

 雇用形態の見直しを。

 人間との婚姻を公式に認めろ。

 アンドロイドにも性別を。


 聞いてみれば、なんということはなかった。

 私はすこしがっかりした気持ちで、再び滑り込んできた電車に乗る。つるりと清潔に保たれたつり革につかまり、先ほどよりも速い流れを、目で追うこともせずただぼんやりとやりすごす。

 流れを見ているのは、正直、とても憂鬱になる。

 流れを塞き止めるために、すこし、頭の中でだけ、景色に抗う。


 彼らの叫んでいた抗議文は、自分たちの無知、インプットされた知識量の少なさを露呈していただけだった。

 かつて誰もが幸福な国で、見向きもされず放置され、苦痛と嗚咽にまみれて死んだというひとりの少年と、彼の後継にあてられたという人々の話を思い出す。

 幸福を感じるためには、幸福でないと明らかに分かる比較対象が傍にある必要があるらしい。

 自分が無知だと知るには、自分の知りえなかったことを知る者が近くにいる必要があるのと同じことだろう。それは逆も同様だし、所詮、絶対的な基準などどこにも存在しないのだろう。

 彼らの訴えていた人権。それらは実際には、ある種のアンドロイドたちには認められているものだった。彼らは単に、製造の際にそれらが認められず、それを認められている層があるということをインプットされずに世に送り出されただけの、いわば、粗悪品。生のあるものに対して、この言い方は少し気が引ける。

何も知らない方が幸せで、何も知らない方が平穏な層。彼らはその生を終えるまで、知ることも、得ることも許されないだけなのだろう。それは求めない者には非常に些細に思えることで、同時に、求める者にはとても大きな問題であるという、それだけの話。


 流れ流されながらそれらの思考を頭の中に流していると、あっという間に、目的のターミナルへ到着した。不毛な時間を、不毛な考察のために、多少有益に過ごしたようなふしぎな安堵があった。

 とはいえ私はまたこれから、仕事場でも流れに流されるだけなのだ。と、少々げんなりする。流れくる書類を確認、多少の停滞を経て再び流すだけの仕事。与えられた仕事すら不毛に感じるが、だからといってすっぽかすような思考の動きは、今まで一度もなかった。

 延々と、流れを止めないこと。

 それが人間の、生物の、営みの最も重要なところなのだろう。人間が生きていくうえで摩擦が起これば、衝突があれば、それをどうにかしようとする。喧嘩や暴動。それが国家の運営のうえで起これば、戦争になるのだろう。より早く元の生活に戻すために我々は尽力してきたし、それが戦場における兵器の進化。よりスムーズに生活を送れるようにするための進化が科学の発達。

 私たちは、何に流されているのだろう。

 寝起きに見た空よりもわずかに低い空に、溜息を放り捨てた。

 そこに何者かの意思を感じるのが神秘を信じる者たちなのだろう、とぼんやりと思った。本日三十五枚目の書類の確認をする。とはいえ、私のところに来るまでに何度もアンドロイドの、生身の人間のチェックを受けているそれらに、不備があることはあまりない。

 この段階で残っている間違いは、極めて運命的なものだ。

 今までにチェックをしてきたアンドロイドにその知識がインプットされておらず、今までにチェックをしてきた人間も知りえなかったか、もしくは、その人間が「アンドロイドの知識」に絶対的な信頼をおいている者、機械万能論者、アンドロイド信仰などなどで、発見した齟齬や不備をみな、「それをミスととらえることがそもそものミス」というような思考をする者であること。それらの条件がそろった、奇跡的で運命的なミス。

 それらの校正を行いながら、時折考える。

 人間には知識を与えればいい。人間の知る自由については障害は何もないのだから。ただしアンドロイドには。アンドロイドに勝手に知識を与えることは、下手をすれば国家を脅かす罪であると捉えられてしまう。彼らを兵器として行使した場合の戦力が計り知れないからだ。彼らは「個人」ではないのだろう。

 アンドロイド諸君には知られないように、個別に人間だけを呼び出して教育を行うというのも重労働なのだ。しかしそうする必要がある。

 アンドロイド諸君にない知識は、「知らないということを知られないように」しなければならない。


 諸君は人権なんていうアバウトなものよりも、婚姻やなんやという、できるかも分からない不確か極まるものよりも、まず何よりも、「知る権利」を求めた方がいいのではないかと、思う。


 職場にいる唯一のハーフ。ヒューマノイド。

 人工の外骨格に内臓の外枠、その中に血管やらなにやらの肉を詰め込んだ、分類上は「アンドロイド」だが扱いとしては「人間」の彼に話しかけた。

 正直、私にもまだ、彼の仕組みや何やらは理解しきれていないところがある。

 彼は人間なのか、アンドロイドなのか。

 彼に知識を与えた私は、罪を犯したことになるのだろうか。


 「さ、終業時間だ。帰ろう。」


 とん、とん、と数回の操作で、起動していたセンサを切った。従業員、の中でもアンドロイドが、就業時間内に暴動を起こしたり、逃亡を図ったり、そんな不測の事態に備えるためだというそれは、正直、私にとっては不要なものだと思えた。

 彼らがもし、どうしようもないほど不出来だというのなら、責任を持って廃棄までの面倒を見るのがお上の義務だと思うのだけれど。


 小さく溜息を吐いた。

 私の歩みは相変わらず一定のテンポを保っていて、どうしようもない思考に引っ張られることなく、淀みなく、流れるようなリズム。

 とん、とん、と靴のかかとが石畳を踏む音が心地よい。どうしようもないことなんて、考えないでいい。


 帰り道、出勤の時に見かけたデモ集団は見かけなかった。いなくなっていた。彼らがどこへ行ったかには興味はない。この通りも、平穏になったな。と、ちらりと思っただけだった。ヘッドホンから流れるジャズが心地いい。

 「憂鬱な日曜日」と名付けられたチャンネルだったが、ここの選曲は個人的に、とても好きだった。オーディオを使う際にはほぼ間違いなく、「憂鬱な日曜日」。日の傾いた空は、また一層近づいたように思えるのだった。


 スカイフォール、と、歌う女性のボーカル。


 つられるように空を見たが、落ちてくる気配はどこにもない。馴染んだ家が見え、ジャケットを適当に放り出し、部屋へ入って、オーディオボックスの電源を入れる。

 「憂鬱な日曜日」

 スカイフォール、と二重に響く女性ボーカル。


 私はそのまま、夜の深く暗く、重くなるのに逆らわずに、ベッドにもぐりこんだ。柔らかくあたたかい布に包まれる安心感とは別に、何か、抗いがたいものが私をじっとりと覆い、包み込み、意識を手放す寸前まで手を引かれて歩いているような。

 意識の淵で聞いたのは、スカイフォール、と気だるげな、笑みを含んだ、女性の唄声。


 ちち、ちち、と、鳥の囀り。


  快晴。

 雲一つない、わけではないが、のんびりと白が流れるきれいな空を遠く眺めながら、窓辺にテーブルを置き、小さなボウルにいっぱいのミルク。浮かんでは沈むシリアルを眺める。私はこれが好きではなかった。

 ざりざりと口内をひっかく、配合飼料に似た茶色いもの。咀嚼をするたびにがりごりと厭な音がする。ほんのりと甘い香りが不釣り合いで、ミルクを吸って重くじっとりと食感を変えるのもおぞましい。

 ただ、邸の彼女らにとってはそうではないらしく、我が家の朝食にはこれしか出ない。


 口いっぱいに頬張って嫌悪感を喉で押し込め、それを胃に押し流すように飲み下す。もはや作業でしかないそれを繰り返し、最後に、傷ついた粘膜を癒すようにミルクを飲みこむ。

 私のシリアル嫌いは、ミルクに移ってなお主張を続けるその香りにもあった。口内から鼻に抜けるどろりとした甘さが気に食わない。


 食事を終えて、私は席を立つ。


 快晴。

 遠く高く見えるこの空が、実はそう遠くも高くもないと知ったのはいつだったろうか。もうずいぶんと昔になる気がした。

 ゆったりと流れる雲は、どこかへ行って、また帰ってくるのだ。



あらすじ

 朝起きて、好きでもないメニューの朝食を咀嚼する。気晴らしに空を見上げて、悠々と歩いての出勤。ひとりのサラリーマンの一日を追いかける、すこし、へん、なお話。彼の聞いていた音楽は、外から聞こえてくるものか、内から響いてくるものか。

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