2015-07-30


よく晴れた日のこと。

中枢教会の廊下を歩く細身の男。

細身というよりはもういっそ枯れ枝のようと言っても過言ではない身体を覆う、ブラックのハイネック、ホワイトのベルボトム――ジーンズではなく、材質はおそらくチノパンなどのそれに近い――、革靴。体重を支えられるのかも不安なほどの脚をせめて太く見せようという試みか否か、トップスにダークな、ボトムスにライトなものを常にまとった、中枢教会常在の神父。

彼に声をかける者はなかったが、その原因は容姿か、それとも日頃の人付き合いの悪さか。判別のつかないほどに近寄りがたい容姿、そして付き合いの悪さ。同僚との交流もほとんどない。

目元を隠す、ダークチョコレートのくせ毛、ぽつぽつとうかがえるひげ。少ない露出にうかがえる肌の色は総じて白く、いっそ病的にすら見えるほど。書類の束をわきに抱え、猫のようにわずかな足音と共に歩く。彼の頭頸部の動きから推察するに視線のブレは微塵もなく、始終無言で、人とすれ違えど会釈のみ。目元は、髪が揺れても断固として表に現れるまいと拒む。


コックロビン、という彼の名前はもちろん生来のものではない。その名前の由来ともなったとある因縁、思い出により、一般的とは言い難い思考に陥った彼が、いつか来る死を迎えるために歩む、些細で平穏な、どうということはない日の話。


―――泥濘―――


朝。

中枢教会にほど近い自宅からの出勤。

昨晩から泊まり込んでいた恋人の昼食を作り置き、予備として、朝食か、間食か、という程度の軽食を作り、小さな紙切れに書いたメッセージと共に冷蔵庫へ。

着替え。この日はネイビーのハイネック、ホワイトのベルボトム。いずれも柄のないシンプルなもの。首元をきちんと隠し、恋人にもらった、片耳だけのアメシストをあしらったピアスを左耳に、ロザリオを胸に。

鏡を見て、目元が髪で隠れているか、等のもろもろ些細な身だしなみを確認。

未だ寝こける恋人がうなされていないかとちらりと部屋をのぞき、それから、ようやく家を出る。


家を出るなり、近所の子供たちがラジオ体操をしている場面に遭遇する。「おっちゃんおはよー!」「おはようございます、しんぷさま!!」「しんぷだけどおっちゃんはおっちゃんだろー??」などとやんやとはやし立てて起こる笑いを前髪の下で遠く眺め、「喋ってねぇで身体動かせ、遅れてんぞ。」と指摘してやる。背中にかかる声は気にせず、そのまま遠ざかり中枢教会へ。

道中も何度か、市民から声はかけられる。同僚の神父たちと違って彼らにとっては自分はあくまで“神父”であって、気難しい個人ではないのだ、という事実をなんとなく、薄ぼんやりと感じる。



昼。

トウフ、という食品をまねて作った軽い昼食を、飲み下すように摂る。

書類を捲り、仕分けのためにちらちらとその内容を流し読みしながら食事を摂っていると、突然に部屋のドアが開いた。


「やっほ~~~~!元気してるぅ、クックルドゥくん!」


げんなりと、食事の手を止めて――目そのものは見えないだろうが――視線で“帰れ”と文句を言うコックロビン。


「しばらく仕事続きで会えなかったからさぁ~~、まだ生きてるかなぁって心配になっちゃって!元気そうで何よりだよぉ~~~!」

「うるせえ、俺の心配すンならさっさとこっから出てけ。仕事の邪魔だ。」

「そんなこと言っちゃって~~!俺ちんが来てくれて嬉しいくせにぃ!」

「たしかにお前の仕事がねえってこたあこの国が平和だってこったから嬉しいとも言えんでもねえが、俺のとこにお前が来たってことについちゃあ苛立ちしかねぇよ。お前とこうやってくっちゃべってるせいで俺の仕事が長引いて睡眠時間が削れて過労で死ぬかもしんねえんだぞテメェ。」


前半――国の平和を喜ぶあたり――は、実は心にもないことなのであるが、淡々と淀みなく、要するに迷惑だ、ということをより迷惑そうに伝えるために苦心する彼に、目の前の奇抜な――ピンクに水色という派手な髪色、軽薄そうに見える笑顔、ゆるい口調という、コックロビンの交友関係にはまず食いこんでこないであろうタイプの――彼は微塵も反省した様子なく、また独特の笑顔で重ねる。


「えぇ~~~、クルックーくんが死んじゃうのは嫌だなぁ。俺ちんのせいで死んだってなったら、何でクックドゥードゥルドゥーくんを選んだのかも分かんないけど妙にぞっこんだって噂の美人の恋人さんに俺ちんが殺されそうだし~~」

「…………あぁ、……」


自分の恋人はそんな風に噂になっていたのか、という感覚と、あながち間違いでもないかもしれないな、という、当人にしてみれば失礼なのだろう感想から洩れた声。

コックロビンが眉間をつまんでいる間にしれっと隣に腰かけた客人に気を遣ったでもなく、ただ“邪魔”だと示すがために彼を避けるように身体を傾け、肘掛けに体重をあずけたコックロビン。


「……お前、絶対いろんなとこから恨まれてんだろ。」

「うん?なんで~~?」


なんの脈絡もない言葉だと思われたのだろうか、こてんと首を傾げてみせるランスロット。動作自体はかわいらしい茶目っ気あふれたものであるが、コックロビンにとっては、その仕草をしているのが成人男性であることに重ねてランスロットであるということで、虫でも追い払うような仕草をするほかない。


「俺ちんがこーやってからかったりするの、コマちゃんだけだよ?」

「うっわ何だよそのカミングアウト、嬉しくもなければ興味もねえしむしろ聞かねえほうがよかった気がする。」

「そう?つまんないなぁ、クックポッポくんは!」

「……いい加減マトモに名「あっ俺ちんそろそろ行かなきゃ!かわいいかわいい恋人ちゃんと会う約束してたんだぁ!じゃ~ね~クルッポーくん!」


怒涛。

ようやく溜息を吐いたコックロビンは、小さく「結局名前呼ばなかったなアイツ」と一人小さな文句をこぼす。ここ、中枢教会で働く人間――人間でないモノも多くいるが――の中で唯一軽口をたたける間柄、なぜか分からないが切れない腐れ縁の彼との会話は疲れるが、コックロビンにとっては無理に追い出したりするようなものでもなく、むしろ多少なりと心休まる感覚のあるものだ、などということは間違っても口に出したりはしない彼だったが、いつの間にか半分ほど仕分けられていた書類を見て、ほんの少し口元に笑みを浮かべた。あいつも多少は気が遣えるんじゃないか、と。


とはいっても、仕分けられていたと思われたそれがまったくの適当、ひと手間もふた手間も余計に時間を割かなければならなくなったのだと気づいたコックロビンが盛大に溜め息を吐くまで、数分とかからなかった。



そして夕方。

窓から西日が差し込む頃。

仕事はまだしばらく残っていたが、コックロビンは一枚の封筒を手に部屋を出る。書類の仕分けの最中に発見した、本来自分の手元へ来るべきでないものを数枚、おさめた封筒。それを、教皇室に届けなければならなかった。


廊下を歩く彼の頭の中で響いていたのは、幼いころに聞いて以来離れたためしのない母の声。今となっては、既に母のものなのかも記憶にない声。しかし、“母の声”なのだと刷り込まれてしまってでもいるかのように、何の疑いもなく、彼女のものだと思える声。幼かった彼の頭を撫で、時に縋りつき、時には彼の首を絞めながら発せられたそれらの声と記憶が、今もなお鮮明によみがえり、その度に彼を苦しめる。



『殺しなさい』

『すべてあの化け物が悪いの』

『あなたも私も悪くないわ』

『殺して、すべて奪いなさい』

『母のためだと思って、あなた自身のためだと思って』


『あなたはこれから先も、ずっと理不尽な目にあうことでしょう。それはすべてこの国が歪んでいるせいなのよ。この国が歪んでいるのは、あの化け物のせいなのよ。私の一生が理不尽で我慢のならないものだったように、いいえ、きっとそれ以上に、あなたは苦労することでしょうね。』


『恨みなさい、あの化け物を。』

『そして殺しなさい。』



あの頃の食事が全て、食べた後には吐き気や頭痛や、酷いときには意識さえ無くすような、数日生死を彷徨いさえするような“何か”の入ったものだったことを、思い出した。





夕刻。

教皇室、と。書かれた目の前の扉を眺める。ぼんやりと。

殺せ、殺せとやかましい頭の中から無理に視線を逸らそうと試みながら、ドアをノックする。留守ならいいのに。そんなことすら考える。


「どうぞ。」


教皇の声ではなかった。聞こえてきたのは、秩序の枢機卿の声。わずかに静まる頭の声。件の教皇にさえ会わなければ、彼のことを考えさえしなければ、いつも通りのささやかな声。

失礼します。と声をかけ部屋に入ると、視界に彼をとらえた、と思うよりも早く、また姦しくなる頭の声。殺せ、殺せと、金髪に赤い目の、華奢な男性を指さして喚く。視界までもが徐々に歪んでいくような感覚のなかで必死に理性の壁をつくり、自分の中にいる母から、自分を護る。


「数枚、ではありますが、こちらに書類が混ざっていましたので、お届けに。」

「すみません、ありがとうございます。……きっと、これをあなたのところに持って行った方は、お疲れだったのでしょうね。お仕事が増えてたいへんだったでしょうけれど、どうか、お気を悪くなさらないでくださいな。」


ふわりと優しげな、線の細さも相まって女性的にみえる笑顔を浮かべていう彼は、「あなたもお疲れでしょう。……もし、よろしければですが…。お茶でも、いかがですか?」と続ける。その隣でじっとコックロビンに対して、警戒、でもしているような視線を向ける秩序の枢機卿の彼をたしなめるかのように。


「……お気持ちだけで。申し訳ありませんが、まだ仕事が残っていますので。」

「そう……、ですか。すみません。」


いつもの困り眉、その眉尻をいつも以上に下げて、申し訳なさそうに言う彼の表情が、なぜか無性に腹立たしく思えた。隣にたたずむ枢機卿が、さながら教皇の騎士だとでも言うように自分に刺すような視線を向けてくることも気に食わない。


なぜ、お前たちはそんなに。


殺意を抱いていたのは母で、自分はそれに迷惑しているだけのはずだったが、その殺意は自分のものになっていたのではないか。ふとそんなことを、遠く頭の片隅で考えている自分に気が付いた。考えが遠ざかり、声が近づいた。この声は誰のものか。


そして、そのことの意味を考える前に、口が動いた。

秩序の枢機卿が、不審な目でこちらを見ていた。


「……教皇様は、ご存知も興味もないのでしょうが。」

目を伏せ、前髪をかき上げると、はっと息をのむ気配がした。

「この国に総数どのくらいがいるのかは私にもわかりませんが、事実として、このような身体を持たねばならなかった育ちの者がいます。」

どう言葉を選び、投げつければいいのだろうかと困惑しながら、射抜く視線に耐えてぽつりぽつりと。


「私のこの傷が、すべてあなたのせいだと言ったら。毎日あなたを見る度に殺意や吐き気に苛まれていると言ったら。いっそこの場であなたを殺してしまいたいのにできない。その事実に眩暈すらおぼえるほどに苛立っていると、そう言ったらあなたは、どうしますか。」


唖然とした目の前の彼、コックロビンに対する警戒を深めた様子の枢機卿、二人の視線を受けながら、しかし向き合うまいと視線を下げて、たたずむコックロビン。

二対のうちひとつの視線は刺さるように鋭く、もうひとつの視線は柔らかく、許容されているような感覚すらあった。


いっそこの場で死ねたらと、さえ思った。


「……、すべて架空の話です。私がこの傷を負ったのは事実ですし、そんな育ちの者がいるのもそうですが、それ以外は。」


苦し紛れだと自分でもわかっていたが、けれど言わずにはいられず、また、言うことで赦されやしないかという、淡い期待、恥ずべきそれさえあった。一刻も早く、この場から逃げたかったのかもしれない。逃げて行く先はどこにもないと分かっていたが、それでも逃げたかった。


「ただ、そういった考えの人間もいるかもしれません。そんな者たちが、いつ、何をきっかけに暴動を起こしたり、あなたの殺害を企てるかも分かりません。私が言うようなことではないことと思いますが、どうぞ、お気をつけて。」


前髪を下ろし、深々と頭を下げて、それから背を向けた。逃げるように。突き刺さる嫌悪と不快と慈愛の視線から逃げるように。初めて吐露した己の醜い本心、それを嘘だと偽ったこと、母の怨嗟が自分の中に、自分として同化しつつあるということから逃げるように。





陰鬱な気分を振り払うかのように残った仕事を片付け、いつもより少し遅い時間帯、部屋を後にして家へ帰るコックロビン。いつもより少し頼りなく、消沈したようにさえみえる、狭く薄い背中を丸めて歩いた。自宅が見えてはじめて一度足を止め、大きく息を吐いた。

窓から洩れる光に、待つ恋人のことを思い出して複雑な気分になる。けれど、今彼に会う自分は、いつもの自分だろうか。何か勘付かれやしないだろうか。会うことに対するすべての不安は、自分が気を張って、隠して無かったことにして、ごまかして、騙して、そうすればすべてがまるく収まるのだと。無益な思考を繰り返してようやくドアに手をかけ、開く。


「おかえり、ロビン。」


と聞こえた、名前も知らない恋人の声。

ほっとして、罪悪感に苛まれて、吐きそうになるのをぐっとこらえて、普段より幾分低い、疲れたような声を意識して発して。


「ただいま。……飯は?」

「ハンバーグ!」





いつ終わるかも分からない日々。

誰のために生きているでもなく、必要としてくれる恋人には後ろめたさと申し訳なさ、罪悪感ばかりを抱き、自分の過去、傷痕、すべてを晒したいと思えど実際晒すには至らない臆病な心で、向き合うことすらままならない。


国家の転覆を企む彼の、非力ゆえの泣き言。


きっと彼にはかなわない。

理想の達成を見ることも、恋人と添い遂げることも。

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