2015-06-03
正直言って、彼女がなぜ最後まで笑顔を浮かべていたのか、彼女がなぜ、最期に彼に手を伸ばしたのか。そんなことは仙には分からなかったし、分かろうと思うようなことでもなかった。彼女はそれを、愛、と呼んでいた。
紫青仙が彼女と出会ったのは、たぶん、だいたい、3週間ほど前のことだった。彼女はたしか、手製のビラを配っていた。男児、少年、と形容されるような年頃の顔見知りが、きれいな赤い髪につるんとした肌、きょとんとしたような表情の写真で印刷されたビラ。
「弟を探しています。どんな些細な情報でも構いません、弟をご存知ありませんか。」
そう言ってビラを配っていたのが彼女。奇抜な赤い髪に反して、おとなしそうな風貌。彼に姉がいたとは初耳だったが、それもそのはず、仙の知る限り、件の彼は、一度もまともな言葉を発していない。
「この子、さっきそこのファミレスの裏におったよ?」
と、声をかけてからは怒涛だった。詳しい時間は、いえ、詳しくなくても、ああ、そこ、そこのファミレス、というのは、云々。早口でまくしたてられて、たぶん何やかんやで。
その一件から七日も経っていないというのに、どうでもいいことに関してはまったく覚えていられない。もしかしたら、忘れていると思っているだけで本当は何もなかったのかもしれない。仙にはそれすらもあやふやな霧の中だった。
都心の夜は明るい。
その明かりを避けたような路地裏で彼と彼女が出会っているのを目撃したのが、七日か六日かそこいら前。彼女にとっては不運なことに、彼は仙が無事にこの物騒な都心で生き抜くための盾であり矛だった。さらに重ねて不幸なことに、「鶴!」と喜びと共に伸ばされた両腕に彼がおさまることはなかった。仙が気づいた時には、彼のつま先が彼女の腹を破っていた。仙が気づく前に、彼女が悲鳴を発するより前に、彼のもう片方の脚が、彼女の脚をまとめて薙いだ。そしてようやく仙が気づいたころには、彼は彼女の左腕に両足を乗せてバランスをとるように立ち、両手を広げてけたけたと笑っていた。
「……あーあ、」
また殺した。と溜め息と共に、心の中で、ご愁傷様、と呟いた仙が見たのは、彼女の笑顔。腹を破られ、片脚をあらぬ方向に向け、今まさに左の前腕を砕かれながら笑うそれに、そうだ、ふと思い出したのだった。「愛しているんです、彼を。」と、初めて会った日に彼女は言ったのだった。「一緒に、家に帰るんです。」今と同じ笑顔で。
それからどのくらい経っていたのかは定かではないが、ころころとキャリーを引いて、ファストフード店に入って、まばらな人の列にぼうっと並んで、チーズバーガーとハンバーガー。計220円。
それらを持って、帰りにちらりと件の場所をのぞいたのが運の尽きだったのかもしれない。ぱ、と見たそこは彼女が笑顔のまま両手を彼へと伸ばしている、彼女の左肘から健常であれば映画のワンシーンのようなものだった。遠くにサイレンが聞こえて視線を逸らした。ふっと髪が揺れて、つられるようにもう一度見たそこには彼の姿も彼女の姿もなく、ただ血だまりと、きれいな右腕が。ゴールデンタイムの特番、それもマジシャンが、炎に包まれてみたり電波塔を消してみたりトラックを瞬間移動させるようなそんな陳腐な、それに悪趣味を三乗ほどしたような印象。ぼうっと眺めていると上から輪っか状のものが降ってきて、落ちた。シロツメクサの花冠。
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