第2話 電話の相手

 目を開けると、蛍光灯の青白い光が飛び込んできて眩しさに思わず顔をしかめた。視界がはっきりすると、今度はアルコールや消毒薬といった薬品の匂いが鼻を刺激する。目の前には白いシーツ。そうか…ここは病院だ。

 私は病院のベッドで寝かされていた。左腕には点滴の管がついており、そばに立てられたスタンドに取り付けられた袋と繋がっていて、栄養剤だと思う液体が1滴ずつ一定のリズムで私の身体に送り込まれている。点滴に気をつけつつゆっくりと身体を起こして周りを見ると、私以外誰もおらず、ベッドも自分が使っている1つのみ、どうやら個室のようだ。

 なぜこんなところにいるのかを考えていると、ドアが開いてビニール袋が落ちる音がした。見ると、母親の裕子が目を潤ませて立っていた。


「麻弓、目が覚めたのね!」


 ベッドに駆け寄ってきた母は、そのまま私の身体を強く抱きしめ、無邪気な犬をあやすように頭をわしゃわしゃと撫でてきた。ちょっと痛かったけど、涙や鼻水で顔が汚れることも気にせず、何度も私の名前を呼びながら撫で続けるその気持ちの方が痛くて、母の気が済むまでそのぬくもりを味わうことにした。


 落ち着きを取り戻した母から詳しく話を聞くと、今日は公園に遊びに行った日から1ヶ月ほど経過していて、捜索願いが出されていたこと、発見された場所は家から遠く離れた山奥で、とても子供の足ではたどり着けないような距離だったこと、病院に担ぎ込まれてから1週間も眠り続けていたことを教えられた。


「一体何があったの?ゆっくりでいいから、話してちょうだい」


 ひとしきり自分の話が終わると、母は穏やかな口調で訪ねてきた。


「いつも遊んでる裏山の公園に行ったら、知らない女の子がいて…サキっていう子なんだけど、友達になったから一緒に遊んでたの。暗くなったから私は帰ろうと思ったんだけど、サキが私の腕を掴んで、すごく長い時間歩いて知らない山奥まで連れていかれてね、やっと着いた丘の下に花畑が広がってて、サキがその中に飛び込んだから自分もついていこうとしたら、怖い顔したおじさんに声かけられて、気がつくと花畑が消えて、崖になってて…」


 私は少しずつ思い出しながら体験したことを正直に説明した。母は花畑の辺りで混乱していたが、自分で言っていても意味が分からなかった。


「そうだ…サキは?サキはどうしたの?一緒に遊んだ女の子!」


 あのときは混乱していて気にする余裕がなかったが、彼女はありもしない花畑の中に飛び込み、私に手招きしたのをはっきりと覚えている。


「白いブラウスと赤いプリーツスカートを着た大人しそうな子は見なかった?」


 私はまくし立てるように問いかけた。しかし母は首を横に振り、


「そんな子はどこにもいなかったけど…?」と首をかしげつつ答えた。


 一体どういう事だろう…?サキは本当に実在したの?それとも友達がいなさすぎるあまり、私の心が作り出した幻だったのかな?


「さっきから変なことばかり言ってないで、怒らないから、正直に説明しなさい。家出したかったの?それとも誰かに連れて行かれたの?」


 私があまりに非現実的な説明を繰り返したせいで、再会した時の安心しきった表情から、だんだんとお説教するときみたいなあきれ顔になってきた。

 いったん頭の中を整理しようと深呼吸をし、棚に置いてある自分のポーチを見て、スマホで一緒に写真を撮ったり、連絡先を交換したことを思い出した。私は「サキと一緒に遊んだ証拠がある」と言って母にポーチの中にあるスマホを取り出して貰い、写真フォルダ内の最後に撮った写真を見るように指示した。写真を見た母は目を見開いて小さい悲鳴を上げ、スマホをベッドの上に落としてしまった。


「ま…麻弓、いたずらにしては、ちょっと手が込みすぎているんじゃ無い?」


 左目の端をピクつかせながらそう言った母は、落ち着こうと自分のバックからペットボトルの水を取り出し、一口飲む。

 予想外のリアクションをされた私は、たまたま右手の近くに落ちたスマホを拾って写真を見る。そこには信じられない光景が映し出されていて、驚きのあまり呼吸が止まった。

 撮ったときは普通の写真だったはずなのに、今は写真全体を黒いもやが覆っている。特に、奥にはにかみ笑顔で写っているサキの周りは、より黒く重々しい雰囲気に包まれていた。更に、2人が写ってないスペースにかかっているもやは、まるでサキを睨み付けている横顔のように見える。


「なに…これ…?」


 胃から何かこみ上げてくる感覚がして、とっさに口とお腹を押さえる。


「どういうことなの?あなた一体何をしたの?」


 母は厳しさと心配が混じった表情で私の顔をのぞき込む。


「わかんない、わかんないよぉ…」


 不安や恐怖で胸がいっぱいになり、私は声にならない声を出して泣いてしまった。すると母が私の背中を優しくさすり続けてくれたので、少しづつ落ち着いてきた。

 涙が止まってしばらく意気消沈していると、ちょっとふっくらしているけど優しそうな50歳くらいの男性のお医者さんが病室に入って来た。


「篠原さん、目が覚めたんですね。よかった…どうですか?気分の方は」


 お医者さんは細い目を更に細めて私に問いかける。


「あまり…良くはないですね」


 私はうつむきがちに応えた。


「目覚めたばかりで頭が混乱しているんでしょうね、身体も動かしていないので多少衰えていますし、少しずつ調子を取り戻していきましょう。後で検査に来ますので、よろしくお願いしますね」


 お医者さんは私と同じ目線までしゃがんで柔らかい口調でゆっくりと話すと、立ち上がって今度は母に声をかけ、一緒に病室を出ていった。

 1人になったとたん不安感が強くなり、何かから身を守るようにベッドに潜り込んで目を閉じていると、あの時のことが次々と脳裏に浮かんできた。誰もいなかった公園、そこに突然現れたサキ、一緒に遊んだ楽しい時間、帰り際強く掴まれた腕…。

 記憶を辿っていると、急に右手首が痛み出した。おそるおそる見ると、サキに握られていた箇所がドス黒く変色していた。それを見てまた目の端に涙が浮かんでくる。私の身体はどうしちゃったんだろう…サキに出会ってから、おかしな事ばかりだ。彼女は何者なの?私が一体何をしたの?訳が分からないことが多すぎて、もう気が狂いそう。

 手首を眺めて呆然としていると、お医者さんと母が病室に戻ってきて私はとっさに手首をシーツに隠した。お医者さんの指示にしたがって聴診器で胸や肺の音を聞いたり、脈を測ったりといった一通りの身体検査や、名前や生年月日といった自分に関することから、簡単な一般常識や計算問題等に答えていった。身体検査の時に握り痕を見られたくなかったので右腕を出すことをさんざん渋っていたのだけど、いざ腕を出すと不思議なことに握り痕は綺麗さっぱり無くなっていた。

 数時間後、検査結果が出て全ての項目で今のところ問題は無いことがわかり、点滴も外された。ひとまず健康体であることは分かったので親子揃って一安心したが、念のため今日は病院で1泊することになり、母は明日の15時に迎えに来ると言って病室を出て行った。

 夕食も終わり、お医者さんもこなくなって静まりかえった孤独で静かな夜の病室。再び不安な気持ちが高ぶってきて、あふれる涙を止めることが出来ない。しかし、衝撃的な事が起こりすぎたせいか頭はもう疲れきっていたようで、いつのまにか泣きながら眠っていた。


 スマホが鳴り響く音で、私は目を覚ます。とっくに消灯時間を迎えたらしい暗がりの病室で、机の上に放置したスマホが青白い光を浮かべている。


 (こんな時間に一体誰からだろう…お母さんからかな?あれ、私マナーモードにしてなかったっけ…?)


 そんなことを考えながらスマホを手にとり、画面を見る。そこに表示される名前に、思わず背筋を冷たいものが通った。

 時刻2時24分、着信相手…サキ。

 どうする?電話に出るべきか…?出たら、また恐ろしい事が始まる気がするけど、出なければ何もわからないままだ。私は少しでもこのモヤモヤした気分を晴らしたかった。

 しばらく迷った後、意を決して応答ボタンを押した。恐る恐る耳を近づける。


「………もしもし…?」


 張り詰めた静寂の中、口の中で絡みつく生唾が苦しくて、無理して飲み込んだ。やがて、電波状態の悪いラジオに混ざるような酷いノイズと、黒板を爪で引っ掻く時に似た不快な音をバックに、声が聞こえてきた。


「……………………………タ……テ……」


 ノイズが酷くてうまく聞き取れない。


「もしもし?サキ?サキだよね?」


「…………………ケ……タ………コ……」


「今どこにいるの?大丈夫?」


 恐怖などと言っている場合ではない。たった1人の友達が、私に何かを伝えようとしている。一つも聞き逃さないよう、耳の神経を研ぎ澄ませなければ。


「……コ?……タ…ハド…ナッ……ノ?…ラ……サ…ヨ……タ…ケテ…」


 しかし集中しようと思えば思うほど、ノイズは大きくなっている気がした。


「サキ!どうしたの?なにがあったの!?」


「………………………………………………タスケテ。」


 ようやくひと言だけ聞き取れたと思った直後、暴風雨の中に入ったような凄まじい風の音と、張り詰めた電線を工具で無理矢理切断したような音がして、通話が切れてしまった。

 私はしばらくの間、通話が切れたことを伝える通信音を呆然と聞いていた。


 次の日、母は予定通り15時に私を迎えに来て、車で1時間ほど田舎道を走って約1ヶ月振りに我が家に帰ってきた。玄関先で病院から持ち帰った荷物を置くと、母はふぅっと息を吐いて、


「じゃあお母さん、これから夕ご飯の準備で買い物に行くから、部屋の片付けお願いね」


 そう言って靴も脱がずに、そのまま出て行ってしまった。


(久々に家で一緒に過ごせるんだから、もう少しゆっくりしていっても良いのに…)


 ちょっと寂しい気持ちになった。まあ女手一つで働きながら私を育ててくれているので、仕方ないと言えば仕方ないんだけど…。

 荷物の中の衣類を洗濯へ放り込み、シンクに溜まっている洗い物を片付けたり、散らかったゴミをまとめていく。家の中は私が思った以上に散らかっていた。入院している間、職場と病院を往復するだけで精一杯な毎日だったのかな…その苦労を想像すると、とても申し訳ない気持ちになってくる。今までより、いっぱい手伝いしよう。

 一通り片付いたので、少し休憩しようと冷蔵庫からオレンジジュースを取り出してコップに注ぎ、自分の部屋に持って入った。

 ふと壁に掛かっているカレンダーが目に入る。今日は8月23日。夏休み終了まで後1週間くらいか…って1週間?後1週間しか無いの?

 急いでランドセルの中の宿題を取り出す。当然どれもまっさらなままだった。


(宿題、1つもやってない…)


 それからの私は夏休みの残りの時間、ほぼ全てを宿題に費やすことになる。


 あっという間に2学期に入った。まだまだ暑い教室に久々に集まった同級生は皆真っ黒に日焼けしていて、沖縄に行っただのハワイに行っただのプールに行っただのキャンプで大きなカブトムシを見つけただの、夏休みを満喫した話をそこかしこでしている。

 私の夏休みは…終業式の日から行方不明、1ヶ月後に帰宅、残り全部宿題。以上終わり。ほとんどの時間を病院と家で過ごしたおかげで全身驚きの白さ。


(ああ…40日は気兼ねなくゆっくり出来ると思ったのに…)


 いつもとは違う意味でテンションが下がり、机に突っ伏する。

 結局宿題は終わらなかったし…まあ、本来1ヶ月以上かけてする量の宿題を、1週間で終わらせようと言うのが無理な話だ。幸いこの状況を見かねた母が、夏休み中に担任の楠田先生に事情を連絡してくれたお陰で「出来る所までやって貰って、残りは冬休み前までに全部出せればOK」という特例を貰えたので、ひとまず安心した。

 あれからサキは何の連絡もして来ないし、変わったことは特にない。さすがに怖いので公園に近寄ったり、写真を見返したりはしていないけど…私は夏休みに宿題をしているときも、こうして学校にいる間も、気がつくとサキのことばかりを考えていた。


 学校から帰宅後、居間でダラダラとスマホで遊んでいる間も、頭の片隅でやっぱりサキのことがどうしても気になる。


(彼女は今どこで何をしているんだろう…?…最後に「助けて…」って聞こえたような…)


 そんな事をぐるぐると頭の中で考えているとふと『サキがかけてきた番号に、こちらからかけてみよう』という発想が浮かんだ。

 このまま何も分からない不安な気持ちのまま毎日暮らすのは嫌だ。サキについて少しでもわかることがあれば、調べたい。思い立ったが吉日ということわざもあるし、ということで早速サキの番号にリダイヤルしようと着信履歴に指を滑らせる。あれだけ怖い思いをしたというのに、のど元過ぎればなんとやら…今はサキの正体を知りたい好奇心の方が上回っていた。

 リダイヤルをかけ、1分ほど無機質なコール音を聞いた後ようやく繋がった。


「…はい、井川です…」


 覇気の無い女性の声が聞こえてきた。しわがれ具合からかなりの高齢だろう。てっきりサキの声かあのノイズが鳴り響くのかと思っていたので、ちょっと驚いた。しばらくなんと声をかけようかと考えていると、


「………あの、どちらさまですか……?」


 井川、と答えた老女の方から問いかけられた。


「すみません私、篠原麻弓と申します。サキさんはいらっしゃいますか…?」


 結局1番無難な挨拶を済ませ、そのままふた呼吸ほど間があく。


「…………失礼ですが、あなたはサキとどんな関係で……?」


 どんな関係?妙なことを聞いてくるなと思った。


「友達です。1ヶ月前に一緒に遊んだんですけど、色々あって会えなくなったんで、交換した電話番号にかけてみたんです」


 私は正直に事情を説明する。今度は今まで以上に長い沈黙が2人を包み込む。やがて井川さんが、


「そんな、嘘はやめてください。1ヶ月前に遊んだなんて…そんなことあり得ないわ…。どこで知ったのか知らないけど、くだらないいたずらならもう辞めてください」


 と呆れた口調で言い返してきた。そのまま電話を切られそうだったので、慌てて話を繋げる。


「ま、待ってください!本当なんです、本当に私、サキと遊んだんです!証拠はないけど…信じてください!」


 こんなことで引き留められる自信は全く無い。でもサキへの唯一の手がかり、繋がりを絶つ訳にはいかない。


「フフフ…あなたって面白い人ね、今まで色んないたずら電話がかかってきたけど、そこまで本気になる人は初めてよ………。でも、やっぱり遊んだなんてあり得ないわ。だって…………」


 井川さんは、私の頭にすり込むように今までよりゆったりと言葉を続けた。


「私の娘…井川紗希は……30年前から………『行方不明』なんですもの」


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