3話

『にぃにー! お帰りなさい!』

 我が家の玄関に立つ、つんつんとしたベリーショートの少年――俺の弟であるくうが、満面の笑みで、帰宅した俺を出迎えてくれた。

『おう。ただいま、くー。元気にしてたか?』

『うん! にぃにーこそ、元気そうでなにより!』

 日に焼けて薄らと茶色掛かった頭を撫でてやると、空──改め、くーは、気持ち良さそうに目を細めた。

 三年前と何ら変わりない弟の姿に、安らぎを覚える。こう、帰るべき場所が、いつまでも変わらない安心さというか、そんな感じのやつだ。

『いやー。やっぱり、くーは“こう”だよなあ』

『“こう”って?』

『ん? あー……なんだろ。俺も何で言ったのか分からないけど……なんか、くーのその姿にすっげー安心したんだよな』

 不意に口から漏れた言葉をくーに拾われて気付き、胸中を満たす妙な安堵感に自分でも首を捻る。

『なにそれー。変なにぃにー。しばらく会わない内に、僕の姿がヘンになっちゃってるとでも思ってたの?』

 そんな俺に対してくーの方は、可笑しそうに笑ってから、俺の腰を抱きしめるように両腕で掴み、俺の腹へぐりぐりと顔を押し当ててきた。

『どうなんだろうな……。いやでもなんか、くーの姿がめちゃくちゃ変わってたっぽい夢を見た気も……って、おいおい。顔を擦り付けるのは止めろ。くすぐったいだろ』

『へへー』

 声がくぐもって聞こえる程に密着され、くーが声を出す度に下腹部の辺りが震えてこそばゆい。しかも、同じ場所に鼻息が至近距離で当たり続けていて、じんわりと温かくなってきている。

 しかし、流石にそろそろ引き離そうと軽く力を込めてくーの頭を押すもののの、意外にもびくともしなかった。あれ。なんか力強くね?

『……ねえ。にぃにー?』

 俺が弟のパワーアップぶりに感心しつつ、天井を見上げて溜息をつき、首を捻っていると、不意にくーが静かな声を出した。

『ん? なんだ? ……って、……え』

 くーの声に視線を再び下に落とすと、そこにはつんつんベリーショートからショートポニーテールに変わったくーの姿があった。顔は未だに俺の腹に埋められていて、表情は読み取れないものの、明らかな異変に背筋に嫌な汗が滲んでいく。

『その「めちゃくちゃ変わってたっぽいボク」って──』

『──っ!?』

 おい、これってまさか……。

『こんな感じだったりするー!?』


「うわあああああああ!!?」


 くーが顔を上げる寸前に自分の絶叫で気が付くと、年季の入った木造の天井が目に飛び込んできた。背中に当たるふかふかとした感触から推察するに、ここは寝室で、俺は布団の上に仰向けに寝転がっているらしい。

「……あ? ……ああ。そうか。俺、実家に帰ってきてたんだっけ」

 つまりここは、三年という長い年月を過ごした社員寮のバリカタな寝台の上ではなく、三年という長い年月ぶりに帰ってきた実家のフワフワな布団の上なのだった。

「どしたの、けんたろー?」

「いや……。なんかやけにリアルな悪夢を見た気がしてな……」

 僅かに心配の色の滲んだ青の声に、深く息を吐いて脱力しながら返事をする。

「へえー。そっか。だからあんなにうなされてたんだね」

「やっぱりうなされてたか。……ってか、聞かれてたのかよ」

 意識が無い時の声を聞かれるのは、いくら肉親の青であったとしても、居心地の悪い恥ずかしさを感じる。……うん? 青?

「ふふ。でも、うなされてるけんたろーも可愛かったよ?」

「おい」

「へ?」

「『へ?』じゃねえ。お前なんで──」



「──なんでナチュラルに俺の布団で添い寝してんだよ」



 体は仰向けにしたままで顔だけを横に向けると、俺の腕を抱き枕のように抱えて添い寝している青が、きょとんとした表情でこちらを見ていた。

「なんでって……。いやだなあ。だってけんたろーってば、くーちゃんが自己紹介した途端に気絶しちゃうんだもん。私心配で心配で……」

 わざとらしく目を伏せて悲しむ素振りを見せた後、それに、兄妹なんだから添い寝くらい別に普通でしょ? と満面の笑みを浮かべる青。

 そうか。まさかとは思ったが、やっぱり俺は気絶していたのか。人生初の気絶が、こんな特殊なものになるとは思わなかったが。

 しかし、だからといって添い寝する必要は無いだろう。心配してくれたのは素直にありがたいが、青の歳を考えると、色々と先ゆきを心配しないでもない。

「いや……。お前もう中二だろ? 流石にそろそろ自覚ある行動というものをだな……」

 十年もの年を先ゆく人生の先輩らしく、余裕のある窘め方を意識したつもりだったが、口から出てきた声は存外、自信なさげな尻すぼみになってしまっていた。何故だ。

 そんな情けない兄の威厳は、むしろ付け入る隙を与えてしまったようで、青は、これはしたりとばかりに加虐心に満ちた邪悪な笑みを浮かべながら、更に俺の方へ身を寄せて来た。

「あー。もしかして、妹の私を意識しちゃってたり──」

「馬鹿かお前は。それだけは無──って、うおっ!?」

 からかうような調子で、とんだ的外れな事をのたまおうとした青に食い気味で否定した瞬間、青が覆い被さるようにして俺に馬乗りになってきた。

「──別に、私は構わないよ?」

「は、はあ? な……何がだよ」

 何が構わないのか全く分からないが、妙に蠱惑的な微笑を浮かべてこちらを見下ろす青に、俺は不覚にも釘付けになってしまっていた。

「だから……さ。

 前触れもなく変わった呼び方に俺が動揺している内に、青は俺の目と鼻の先まで顔を近付け──


「ねぇねー。ボクがこの前貸した漫画、どこ……に……」


 ──部屋の扉を開けて現れた闖入者、くーの無垢な声にピタリと動きを止めた。


「く、くー!?」

 俺が慌てて部屋の入口へ目を向けると、そこには、口を半開きにさせたまま固まったくーの姿があった。

 あ。その黒いバンドTシャツも俺のやつ。なんだよこいつら。俺の服を部屋着にしすぎだろう。……ああ。いや、今はそんな事どうでも良くて。俺が今迅速に取るべき行動は──

「ち、違うんだくー! これは、だな。その、つまり」

「え。あ、えと、その……ご、ごめんなさいっ!」

「ああ!? お、おい、くー!」

 俺が弁明を試み始めた瞬間、くーは顔を真っ赤にして踵を返し、もの凄い勢いで寝室から出ていってしまった。

「ぷっ……くくっ」

「ん?」

 去って行ったくーに俺が唖然としていると、上から青の噛み殺した笑い声が聞こえてきて、俺は視線を正面に戻した。

「おい……なに笑ってんだよ」

「だ、だって……ふふっ。けんたろー、慌てすぎなんだもん。くーちゃんに見られるの、そんなにまずかった?」

 青は口元に手を当てて、声を押し殺すように笑っていた。相変わらず俺の上に乗ったままだが、上体は起こしているため、顔はもう離れている。

「いや、どう考えてもまずいだろう……」

「なんで? いーじゃんべつに。兄妹仲良しー、な場面見られただけだし。……あ。それとももしかして、けんたろーは何か別の期待をしちゃってたのかな?」

「なっ……!?」

 からかうような視線を向けられて固まってしまった俺を見て、青は満足気に微笑んだ後に立ち上がった。

「じょーだん。……まあでも、もし万が一いつでも言ってね?」

「ちょっ……、おい!」

 狼狽している俺を尻目に踵を返した青は、振り向きざまに意味深な一言を残して部屋を出ていった。

「……なんだよアイツ。いつからあんな……」

 かすかに残った甘いシャンプーの香りに何故か早鐘を打つ鼓動が収まるまで、俺は部屋の出口から目が話せなかった。

 まるで、妹の、青の残滓を名残惜しむかのように。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

弟-1 妹+1 クロタ @kurotaline

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ