第一章:大きな変化はいつも、あずかり知らぬところで

1話

 運賃ちょうどの四百二十円を整理券と一緒に運賃箱に投入し、こんな辺鄙へんぴな住宅地までバスを走らせてくれた運転手さんへ感謝の会釈をしてから、乗降口のステップを降りた。

「ようやく着いたな……」

 バスのドアが閉まる時の、空気が勢い良く抜けるような音と、低く響く発車音を背に、目の前の三階建ての建物を見上げる。

 雲ひとつない晴天の青と、天頂から照らされる陽の光の中、眩しいほどに映える白亜のアパートがそこにはあった。

「全然変わってないな……。まあ、三年程度なら当たり前か」

 建物の壁面に、経年の跡が見受けられる趣のある書体で『栄華荘』と記されたこのアパートこそ、俺の実家である、『えいがそう』だ。

 ……まあ、さも美しげな外観であるような表現をしてはみたものの、その実態はただのボロアパートだった。

 白亜とか言っても、使われている建材はその実、台風の多い沖縄の建物によく見られるような白コンクリってだけだし、そもそも栄華荘は築二十年を優に超える。御歳二十四歳になる俺が生まれた頃に引っ越してきたんだと両親が話していたから、少なくとも俺が産まれるよりも前からコイツは、くそ暑い日も、くそ寒い日もここに立って、訪れる人々を睥睨していたのだろう。

「まあ――」

 俺には、そんな妙な感傷よりも、『何だかんだ地球上で一番落ち着ける我が家』という事実の方が大事だったりするわけで。

「とりあえずとっとと家に上がって、疲れを癒そう。まじで疲れたわ……。くそあちいし」

 今日の日付は八月十七日。俗に言う盛夏というやつである。南の島沖縄は今年も、猛暑の例に仲間はずれにされずに済んだらしい。それならそうと、早いとこひんやりとクーラーの効いた室内で避暑を決め込むのが賢い大人の嗜みというやつだ。

「今日は平日だから、父さんと母さんはいないだろうが……」

 くすんだ灰色の階段を、一歩一歩体重をかけて登りながら、疲労であまりまとまらない頭で考える。

「多分、いるんだよなあ」

 コツコツと響く自分の革靴の音にさえも、どこか心地の良さを感じながら、階段と同じ色彩のコンクリートの廊下を歩く。

「だって、ほら。今はきっと」

『202』と掲げられた鉛のドアの前で立ち止まり、くたびれたビジネスバッグの中を大雑把に探る。最後に手に取った時の記憶すら朧げな、家の合鍵を取り出した所で、ドアの向こうから賑やかな足音が聞こえてきて、俺は一歩後ろに下がった。

 次の瞬間、その重厚な見た目に反してとても軽快に、目の前のドアが開け放たれた。


「「けんたろー」「に、にぃにー」おかえりー!」


 そう、今はきっと――夏休みというやつだ。

 それはすなわち、まだ中学生である妹達の在宅を意味していた。

「ただいま。……おうおう。お前らすっかり大きくなって――って」

 夏休みを満喫しているであろう我が妹達へ、沖縄に来る前からずっと温めていた、久し振りに故郷に帰ってくる系の叔父さんが甥や姪に開口一番に言うであろう台詞を言い終わって、妹達の方へ視線を向けた直後、俺の中の時が数秒止まった。


「――おい。これはどういう事だ?」


 俺の名前は島袋謙太郎しまぶくろ けんたろう。一九九四年、四月十四日生まれ牡羊座のA型。二十四歳独身。

 家族構成は、父、母、長男の俺、長女の妹、次男の弟……の、至って平凡な五人家族。

 そう。兄妹はだ。

 でも、それならこれはおかしい。確実に俺を呼ぶ声は二人分あったはずだが、そうだとすると目の前のこの光景は絶対におかしい。


「俺に妹は一人だけだったはずなんだが?」

 俺の目の前には、三年の月日が流れた、俺のよく知る愚妹と、

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