Lesson to others - 1

指先を器用に使いフォークにスパゲティを絡ませる。

ふわふわとした炒り卵とスライスされたベーコンも巻き込んで、ユキが大きく開けた口へと運ぶ。

口の中に広がる味に思わずユキがぎゅっと目を瞑ると、向かいに座っている大和が口元を綻ばせた。


「うまいか?」

「ああ、とってもうまいぞ!大和もどうだ?」

「俺はいい、一人で食え」

「スパゲッティ、嫌いか?」

「そういう訳じゃない」

「じゃあ食べろよ。美味しい料理は共有すべきだ。ほら!」


ユキは再びフォークにスパゲティを絡ませてから、身を乗り出して大和の前にフォークを突き出した。

無理に断る理由もないか、と大和は目の前に突き出されたフォークを受け取る。ユキから爛々とした熱視線を送られる中、大和はスパゲティを口にする。

反応が気になるのか、ユキは大和が咀嚼する間目を離さない。

熱視線を送られ大和が気まずそうにユキを見たが、ユキからの視線が外れる事はなかった。


「どうだ?」

「うまいな」

「だろ!」


味を共有出来た事が嬉しくてユキが笑う。満足したユキが再びスパゲティをぱくぱくと口に運ぶ様子は、心なしか先程よりも心弾んでいるように見えた。

余程この店の味が気に入ったのだろう。

そんな事を考えながら、自分が注文したトーストに手を伸ばす。


大和とユキの二人は、昼食にスパゲティをメインに扱う店を訪れていた。

セピア調で整えられた店内には観葉植物が随所に飾られていて、穏やかな空間を作り出している。

ボリュームのある一人前が評判で、連日開店から閉店まで客足が途絶える事はない。


「大和とごはんなんて、久しぶりだな」


トーストを口へと運んでいた大和の手がはたと止まる。

見るからに上機嫌なユキは、にこにこと笑顔を浮かべている。

スパゲティが気に入っただけではない。

ユキにとっては、久しぶりに大和と食事が出来て嬉しいという気持ちが大きかった。


「…そうだな」

「大和がいつも頑張ってくれてるから俺達は呑気に過ごせるけど、大和にだって、のんびりする時間は必要だぞ。自警団の仕事は義務じゃないんだし、もうちょっとゆっくりしても良いと思うぞ」

「気遣いサンキュ。お前が呑気に過ごせてるんだったら、頑張ってる甲斐はあるさ」

「むぅ、そうじゃなくってさー」

「なんだお前、寂しいのか」

「それもある」

「歳の近い友達と遊べ」

「大和とも遊びたいぞ」


大和が苦笑すると、ユキが口を尖らせた。

ユキを保護して預かると言ったのは自分なのに、寂しい思いをさせてしまっている。街にユキの友達はたくさんいるが、それでも、ユキは大和と過ごす時間が少なくて寂しいと言う。

そんな想いをさせるのは大和にとって本意ではない。

自警団での活動とユキと過ごす時間の確保。うまく両立してやる事が出来ない。せめて、またこの店に連れて来てやろう。

大和はそう思いながら珈琲を啜った。




昼食を終えた大和とユキは店を出た。

上機嫌に鼻歌を歌うユキの背に大和が話し掛ける。


「お前、午後の予定は?」

「んっと、今日はな、教会の図書館で本の入れ替えをするんだってさ。だから手伝いに行こっかなーって思ってるんだ。神父様とシロの二人だけじゃ大変だろうし」

「そうか。送ってく」

「大和も手伝ってくか?」

「そうだな…」


サツキとシロは手際も効率も良い。言葉にせずとも、互いの空いた隙間を埋めるように補い合い、助け合う事が出来る。

しかし、だからと言って断る理由はない。予定はあるが、急ぎの用ではない。

頷こうとした、その時。

路地に短い悲鳴が響いた。

大和が素早く声がした方へと視線を向ける。

横から突き飛ばされたように路上へ倒れ込む年配の女性と、その場から逃げるように通行人を跳ね除け猛進する少女。髪は乱雑、身体のサイズが合わない大人用のシャツは着古されていて、地面を素足で蹴る容姿は、かつて死んでいた頃の街の路地に溢れていた子供の姿を思わせた。

少女は小脇に手提げ鞄を抱えていて、老婦人の掌がその行方を追うように、空しく少女の背中へと伸ばされている。


「強盗だ…っ」


ユキが老婆に駆け寄る。

少女がそのまま走り続ければやがて大和とぶつかるだろう。しかし少女は速度を緩めない。

他の通行人と同じく跳ね除けて走り抜ける算段なのか、一直線に突き進む。

大和は少しだけ立ち位置をずらしてから、携えていた刀を地面と水平になるよう持ち上げた。

突然目の前に現れた棒状の障害物に少女はぎょっとする。それはまるで、自分を通せんぼするために現れたかのように見えただろう。

減速する間も避ける間もなく喉と鞘が激突した。刀袋に包まれているとはいえその衝撃は相当強烈だったようで、少女はその場に倒れ込み目を回している。

路地に投げ出された手提げ鞄を大和が拾いあげる。ついた埃を大雑把に払い、老婦人の方に目をやると、ユキが助け起こしているところだった。

少女の逃走が失敗に終わったのを見て安心したのか、老婦人は落ち着いた様子でユキと受け答えをしている。どこも痛めていないようだ。

大和が少女を捕縛するために歩み寄る。

今までのように軍警察に引き渡して、自分の役目は終わる。

そう思いながら、大和は自分の足取りが重くなるのを感じていた。

以前までなら未遂であれ現行犯であれ、取り押さえた相手を警察へ引き渡す事に躊躇などなかった。

けれど、今では引き渡す意味が変わってしまった。

未遂であれ、犯罪に手を染めた事実に代わりはない。情状酌量する余地もなく、自分がこの少女を引き渡せば間違いなく死刑が執行されるだろう。

死刑台に送っているのと変わらない。

今までのような心持ちではいられない。

ブライアンと同じく、大和もまた、悩んでいた。

少女を見下ろしながら大和が考えを巡らせていると、後方からエンジン音が近付いてきた。

大和が振り返る。バイクだ。それは速度を上げて、一直線にこちらに向かって来ていた。


「…ぅ、」


呻き声。どうやら先程大和が転倒させた少女が意識を取り戻したらしい。このままだと少女も轢かれかねない。

動けるか?そう問い掛けようと少女に視線をやると、少女はバイクの方へと弱々しく手を伸ばしていた。

仲間が助けに来たのだと大和が気付いた時には、バイクは目の前で急ブレーキをかけていた。大和の視界を潰すには充分な土煙を巻き上げながら急停止したバイクは、間髪入れず、再びエンジンを噴かせる。

―まずい。

そう思いながら、大和は目を開ける事が出来ずにいる。

巻き上げられた土煙が晴れる頃には、バイクと共に倒れた少女もいなくなっていた。

エンジン音を頼りにそちらを見ても、もう姿は見えない。音はどんどん遠ざかっていく。

逃がしてしまった。ドジを踏んでしまったと、握り拳で額を小突く。


「大和!大丈夫か?」


老婦人に肩を貸しているユキが心配そうに大和を見ている。

大和が表情を取り繕い頷いて見せると、ユキはホッとしたように表情を和らげた。

老婦人の元へ向かい彼女の持ち物であろう手提げ鞄を渡すと、老婦人が大和へ安堵した笑顔で御礼の言葉を送る。

心からの言葉に胸が熱くなる。

自分達が、護ろうとしているものは。

今も昔も、その信念は、変わっていない筈なのだ。

いつから戸惑いうようになってしまったのだろう。


「見回り、行くんだろ?」


老婦人を見送った後、ユキが大和の顔を覗き込みながら言う。


「掴まえ損ねた悪党が、また街で悪さするかもしれないからな」

「…お見通しか」

「大和の事なんかお見通しさ。なぁ、俺に何か手伝える事あるか?」

「その気持ちだけで充分だ」

「そっか」


大和に心配を掛けさせない事が今の自分に出来る精一杯の支援なのだと、ユキは分かっている。だから、それ以上食い下らない。


「んじゃ、俺は予定通り教会に行くよ」

「ああ。ここでお別れだな」

「うんっ」


ユキは大きく手を振って、大和の後姿を見送った。



教会には開場時間と閉場時間が定められていて、その間は常に開かれている。

時間内であればいつでも、誰でも自由に出入りが許されている、憩いの場。

ユキが扉を開ける。中には誰もいないようだった。

二階にある図書館を目指して階段を駆け上がる。図書館が近付いてくると、人の話し声が聞こえて来た。この教会の神父であるサツキと、その従者であるシロのものだろう。

図書館に到着すると、中には予想通りの二人がいて、本の入れ替え作業に取り掛かっているようだった。


「神父様、シロ、こんにちは!」

「ユキか。いらっしゃい」

「…こんにちは、ユキ様」

「手伝いに来たぞ!」

「おお、本当か?それは助かる!」


本棚に仕舞われていた何十・何百冊もの本が床に移され、平積みの状態で幾つも置かれている。それらを崩さないよう慎重に、足の踏み場を探しながらユキが二人に近付く。

サツキが本棚から図書を選び抜き床に置いていく傍ら、シロが黙々とそれらを分類している。加えて、一纏めにして紐で縛る・段ボールに詰める・空いた本棚を拭く、という作業をシロ一人でこなしているというのに、動きに一切無駄がない。


「俺、何手伝ったら良い?」

「…では、こちらに分けて置いている本を段ボールに詰めていって下さい。満杯になったら、そこに立て掛けてある段ボールを組み立てて使って下さい。質問があれば、私がお答えします」

「ラジャー!」


力強く頷いて、ユキは作業に取り掛かる。

段ボールに本を詰めていく、それ自体は単純な作業だが、シロのペースに置いていかれないようにこなしていると、すぐに両腕に怠さを感じ始めた。

シロはというと、疲れを感じさせない涼しげな表情で、変わらないハイペースを保っている。


「シロは、疲れないのか…?」

「休憩しますか?」

「お、俺だってまだまだ余裕だ!」


気合を入れ直してユキが作業を再開すると、サツキが声を殺して笑った。


「なあ、神父様。この本、どうするんだ?捨てちゃうのか?」

「街の図書館に譲るんじゃよ。そろそろ新しい本と入れ替えようと思っていたところ、館長さんが廃棄するのならば譲ってほしいと声を掛けてくれてのう」

「確かに街の図書館に置いてある本、ここよりずっと少ないよな」

「この教会は街の図書館と比べて建てられてからの年月がまるで違うからのう。これまでの寄贈図書だけでもかなりの冊数になる。しかしここは読書目的で通うには街からちと離れているから、街の図書館が潤うのは良い事だと思ったんじゃ。あとは、最近立て直した孤児院にも譲る運びになっておる。お古になってしまうが…皆が皆、ここに足を運んでいる訳ではないからな」

「ふーん」


談笑を交えながら数十分も経つ頃には、中身の詰まった段ボール箱の数は随分と増えていた。

シロが一旦手を止めて立ち上がる。

そして、段ボール箱を軽々と持ち上げると積み重ねはじめた。本が満杯に詰まっているのだから段ボール一つだけでもかなりの重さになっている筈だ。しかしシロの動きは軽々としていて、重さを感じさせない。ユキはそれを呆然と見つめていた。

重ねた段ボールの高さがシロの身長よりも高くなった辺りで、別の山を築き上げていく。


「シロ、重くないのか…?」

「問題ありません」

「うお…シロは力持ちなんだな」

「…そうでしょうか。私には、分かりません」

「あ!もしかして鍛えてるのか?」

「特に意識はしていません」

「まじか…」

「まじ、です。…それでは、私は今からこちらの段ボールを倉庫へ運ぶ作業に移るので、ここでの作業を一旦離れます。何かあれば、サツキへ」

「えっ、だったら俺も手伝うぞ!往復するだけでも大変だろ。数がたくさんあるんだし、二人で運べば往復回数も半分で済むぞ!」

「…重い、ですよ」

「大丈夫だ!」


腕まくりをしながらユキが力強く返事をする。

シロよりも身長が低いユキが積まれた段ボールを見上げると、その威圧感で仰け反りそうになってしまったが、負けじと段ボールの山の一つに手を伸ばす。

腰を落とし、箱の下を支えるように手を添える。けれどユキがどれだけ腕に、腰に、足に力を込めようと、段ボールは微動だにしない。せめて半分だけでもと、抱え上げようとする量を変えてみたが、結果は同じだった。

痺れる両手をさすりながら、うぐぐとユキが歯を食いしばる。

その様子を見ていたサツキが、積まれた段ボール箱の天辺にある一つを下ろし、ユキの目の前へと差し出した。

すかさずユキが両手を広げると、サツキは慎重に、ユキへと段ボール箱を手渡す。

ずしりと地面へ吸い寄せられるような重みがユキの両腕に伸し掛かったが、なんとか持ち運べそうだ。


「ありがとう、神父様…!これなら俺でも運べそうだ」

「御礼を言うのはこちらの方じゃよ。ユキが手伝ってくれて、とても助かっておる。本は重いからな、無理をしてはいかんぞ。では二人共、頼む」


シロがサツキに頷いて応える。そして自分の身長よりも高く積まれた段ボールの山の一つを、ひょいっと持ち上げた。

自分ではびくともしなかった重量を軽々扱う姿を前に、ユキは開いた口が塞がらないでいる。そんなユキを余所に、シロはすたすたと図書館を出て行く。我に返ったユキは慌ててその後を追いかけた。

目的の倉庫は教会の外にある。廊下を進んで、階下へ。

慣れた足取りで階段を降りるシロとは違い、ユキは足元に注意を払いながら慎重に降りていく。

聖堂に差し掛かると来訪者の姿があった。

二人がその横を静かに通り過ぎようとした時、ユキが口と目を大きく開けた。


「あっ!お前は!」


そこにいたのは、先程老婦人の鞄を窃盗しようとした少女だった。ユキに気付いて少女が苦い顔をする。傍らには見覚えのない男性が一人。



「…お知り合い、ですか?」

「知り合いじゃない!コイツはさっきおばあさんの鞄を盗もうとした悪い奴等だ!」

「て、天使様がなんでここに!」

「お前こそ何でここに!今度は教会で悪さしようと企んでるのか?!」

「な、な…!そんな訳ないでしょ!勝手な事言うな!」

「じゃあ、なんでだ」

「誰がアンタなんかに教えるもんか!さっきはよくもやってくれたな!」


青年の身体に隠れるようにして、老婦人から鞄を奪い走り去ろうとした少女がユキに向かって吠える。


「なにがよくもやってくれた、だ。お前がしていたのは立派な窃盗だぞ!大和が止めてくれたんだからな!」

「ふん!偽善者ぶっちゃって」

「なにをー!」

「アンタ達みたいな人間って大っ嫌い!人助けして、さぞいい気分なんでしょうね!窃盗だから何よ、こっちは死活問題なの!収入の機会を潰されて、怒ってんの!」

「んな、な、な!人の稼ぎを横取りして何が収入だ!窃盗なんて、軍警に見られでもしてたら、その場で処刑されてるところだぞ!」

「ふん、恵まれてるからそんな呑気な事が言えるのよ。捕まんなきゃ問題ないでしょっ」

「むがー!」


今にも噛みつきそうな形相を浮かべるユキの前にシロが歩み出る。

それ以上近寄るなと警告するように、青年が銃を取り出してシロへと向けた。

シロの背後にいるユキが息を飲む。シロの表情に変化はない。


「なによ、アンタ」

「この教会にいる神父の従者を務めています」

「従者…?ああ、そういえば、見掛けた事ある気がする…。その従者が一体何の用?そこの生意気な天使様に用があるの。どいて」

「いいえ。あなたがたはユキ様に危害を加えようとしています。どきません」

「ちょっと痛い目見てもらわなくちゃ気が済まないの!」

「どけません。ここは誰に対しても平等に門が開かれている場所です。ですが、暴力沙汰を起こすつもりなら、どうぞお引き取り下さい」


銃口を額に向けられているにも関わらず、シロは視線を外さない。

その目には恐れも怯えも浮かべていない。

少女の味方をする青年は考えを巡らせる。

成り行きで、牽制のつもりで銃を向けた。彼としてもこの場での発砲は避けたい。

しかしこうも威嚇に効き目がないのは想定外だった。

この街で暮らしていれば銃など見慣れるものだろうが、教会に勤める子供がこうも場離れしているものだろうか。

考えたところで意味はないと、思考を切り替えて青年が動く。

踏み込んで、その場からシロをどかせようと、銃を握ったまま手を振り上げた。

―殴りつけるつもりだ。

ユキの目が見開かれる。危ないと叫ぶ間もない。

グリップの底でシロの頭部を狙い振り落とされた一撃は、しかしシロに届く事はなかった。

シロは段ボールの底を片方の掌だけで支えるように持ち直し、空いた片方の手で青年の手首を掴み止めていた。

小さな手がそっと手首に添えられただの感覚。なのにいくら力を込めても押しきる事が敵わず、青年は表情を歪ませる。

そのままゆっくりと、シロが涼しい表情のまま青年の手首を締め上げていく。捻じれていく手首の痛みに銃を握っている事が出来ず、たまらず青年は銃を零した。

教会内に響いた銃の落下音。

その様子をただ呆然と見ていた少女がはっと我に返る。

青年に分が悪い状況を理解すると、少女はシロに向かって飛び出していた。懐から取り出した小柄なナイフの切っ先はシロに向けられている。

それを庇おうと、段ボールを投げ出してユキが身を乗り出した。

シロの意識がユキへと移る、その一瞬の隙をついて青年がシロの手から逃れる。

少女とシロの間に身体を滑り込ませたユキを、青年が捕らえた。

強引に引き寄せ左腕で首を締め上げると、ユキが苦悶の声を洩らす。

シロが動くよりも早く、青年は銃口をこれ見よがしにユキの側頭部につきつけた。シロの動きが止まる。

天使様を人質にとっている限り目の前の子供は動けない。

青年はそう確信し、短く要望を突きつける。


「大人しくしていろ」

「シロ!俺の事は気にしなくて良いからこんな奴らはり倒せ!」

「黙っていろ」


ゴリ、と銃口を押しつける。

負けじとユキは青年の腕に両手で掴みかかり逃れようと奮闘するが、ユキの腕力ではびくともしない。

少女が鼻をならして笑う。


「良いざまね」

「なんの騒ぎじゃ」


争う物音が聞こえたのか、サツキがひょっこりと現れた。

ユキを捉えてその頭部に銃を突き付けている青年と、傍らにナイフを手に持った少女。そして、二人と敵対するように対峙しているシロ。

一触即発の現場を目の前に、焦る事なく、ふむ、と顎に手を当てる。


「シロ」


いつもの落ち着いた声で名前を呼ぶと、シロは迷いなくユキから視線を声の主、サツキへと移す。視線が交わる。

サツキは小さく微笑んだ後、頷いて見せた。

次の瞬間には、少女の身体は床を転がっていた。

青年にもユキにも、少女にさえ、何が起こったのか理解出来なかった。シロが元いた場所に、複数の段ボール箱が重い音を立てて落下する。

いつ移動したのか、先程まで少女が立っていた位置にシロが立っている。まるで何かに弾き飛ばされたかのように横たわる少女は、すぐに込み上げてきた腹部の鈍痛で、蹴られたのか殴られたのかまでは分からないが、身体が飛ばされてしまうような打突を喰らったのだと理解した。

痛みを訴える腹を抱え、悶絶する。

サツキがシロへ頷いて見せたのは、現状を打開するためにシロが思う最適解の行動を取っても良いという、許可の合図だった。

ナイフがいつの間にかシロの手の中にある。衝撃で少女の手から中空に投げ出された物だ。

目の前の子供が何かしたのか。

青年には何も見えなかった。

とにかく。まずは人質を利用しようとユキの頭に銃口を突き付け制止を要求しようとした次の瞬間には、頭頂部の髪を掴まれ思い切り後ろへと引っ張られていた。

まるで、小さな子供の手で毛束を掴まれたような感触。両肩に重み。

青年の両肩を足場に、頭部を跨ぐようにしてシロが乗っている。

反った首筋にはナイフが当てがわれていた。


「降参してください」


耳元で囁かれた単調な声からは表情が読めない。

首に触れる刃先が冷たい。まるで獰猛な獣が喉元に牙を突き立てているような不気味さを感じて、青年の背筋に悪寒が走った。

青年はユキに突きつけていた銃をその場に落とす。


「降参するよ」


反抗する意思はもうないと、両手を頭よりも上に上げる。

解放されたユキが足元に転がった銃を拾い、素早くサツキの元へと駆けた。

シロは首筋にあてがっているナイフをまだ離さない。


「で、お前達は何をしに来たんじゃ?」


決して責めてはいない。場の緊張を解すような、穏やかな口調で話し掛ける。


「争うところを見たくはないのう」

「…迷惑を掛けた。すぐに出て行く」

「ん、追い出したい訳ではないぞ。事情は知らんが、ここへ来たのは、理由があっての事じゃろう?」

「…俺は、そいつに付き合っただけだ」


青年は視線だけを横たわる少女に向ける。少女は腹部を抑えて、よろよろと身体を起こそうとしているところだった。


「もう出ていく。この子供を、退かせてくれ」


青年が人差し指でシロを指す。

サツキがシロに降りるよう伝えると、シロは静かに青年の肩から降りた。

どんな事態にもすぐ対応出来るよう、青年からは目を離さない。そのまま青年と向かい合う位置へ移動すると、少女の持ち物であるナイフを青年に差し出した。


「へぇ、返してくれるのか?」

「取り上げる気はありません」

「凶器を返した途端、お前に切りかかるとは思わないのか?」

「対処できます」


まるでそれが当然であるかのように、淀みなくシロが答える。

青年が片眉を釣り上げると、サツキがまあまあ、と仲裁に入った。


「やめておけ。うちのシロは、とても強いからのう」


はったりか?青年が目を細める。

しかし先程の子供の動きを思い返せば、無視出来る情報ではなさそうだ。大人しくナイフを受け取る。

それに、ここで目の前の子供を切りつけるなどして騒ぎを起こすメリットは青年側に一切ない。揉め事を起こしてしまったが、元々争うために来たのではないのだから。

視線を連れの少女へと向ける。

少女は腹部を抑えながら、シロを睨むように立っている。


「気は済んだか」

「むむむ…」

「戻るぞ」

「うぐぐー!」


少女は顔を真っ赤にして歯を食い縛る。

はあ、とため息をひとつついてから青年が身を翻して扉へと向かう。少女はユキをひと睨みしてから、覚束ない足取りで青年の後に続いた。

教会を出ていく二人の後姿を見送りながらサツキは首を傾げる。


「なんだったのじゃ?あの二人は」

「私には分かりません。ユキ様の顔を見た途端、口論がはじまったようでした」

「喧嘩か?」

「違う!アイツ、街でおばあさんの荷物を盗もうとしたんだ!それを俺と大和が取り返したから、怒ってるみたいだった!」


憤るユキの頭をサツキがぽんぽんと撫でて宥める。


「よしよし落ち着け。そうか。恨みを買ってしまったんじゃな」

「うぬぬ…アイツら、何でここに来たんだろう。もしかして、俺への仕返しか…?」

「…なんでここに、と口にしていたので、ユキ様との遭遇は偶然だったのではないでしょうか。ここは、教会ですし」


教会は街から少し離れた場所に建っている。そんな場所に、目的を持たず足を運ぶような者はいない。

他愛ない話を聞いてほしい時。

胸に燻る感情を吐露したい時。

一晩の宿に困った時。

料理を学びたい時。

図書室を利用したい時。

または。

祈らずにはいられない時。

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