missing child - 7

降り出した大粒の雨が街全体を包んでいる。

分厚い雲が空を覆い、まだ日没には早い時間だというのに随分と暗い。

明日の露店に出す食品の下ごしらえを自宅でしていた八重は、窓の外を眺めながら一人ごちる。


「明日は晴れるといいけど」


雨粒が窓を打ちつける音だけが響いていた静かな部屋に、突然玄関から大きな物音が響いた。

八重の肩が跳ねる。

続いて何度もドアノブを回す激しい音。

自宅の扉を何者かが無理矢理開けようとしている。そう察した八重は困惑しながら玄関の方を見つめる事しか出来ない。

幸い施錠はしてある。

時間が経てば諦めてくれる事を祈りながら、なるべく物音を立てないよう八重は硬直する。

心臓の音が内側から大きく胸を打ちつける。恐怖で足が竦む。

荒々しい音が止んだかと思ったのも束の間、カチリと開錠する音が小さく聞こえて八重の血の気が一気に引く。

扉が開いて、足音。そして勢いよく閉める音。

何者かが家の中に入って来た。

ヒッ、と思わず漏れそうになった悲鳴を右手で口を覆い堪える。

暫く息を顰めて耳を欹てるが、扉が閉まってから何の物音も聞こえてこない。

かといってこのままじっともしている訳にもいかない。

八重は覚悟を決めて、護身用に出刃包丁を両手で握り締めながら忍び足で玄関へと向かう。

息を殺して足音を立てないように、細心の注意と最小限の動きを意識して。雨音だけが支配する空間を八重は慎重に進む。

恐る恐る玄関先を覗くと、暗がりの中、扉に背中を預け座り込んでいる人影がそこにはあった。

布が巻かれた右腕には血が滲んでいて、息が荒い。

雨に濡れ全身は水浸し、男が腰を下ろしている床には血が混じった水溜りが形成されている。

八重に気付いた男は、息も絶え絶えに微笑む。


「やァ、八重」


血相を変えて八重は父親に駆け寄った。



街の病院。

カーテンで仕切られた二人部屋には簡素なベッドが並べられている。

片方のベッドには患者が横たわり、もう一方のベッドに割り当てられた患者は今現在診察で留守にしている。

ベッドに横たわる患者―雛菊はぼんやりと天井を眺めていた。

廃工場での出来事を思い出す。

天井から現れた軍人が八雲の指を斬り落とした。

流れるような動作で八雲に刀が向けられる。

しかしその刀が八雲を斬り捨てるよりも先に、幾つもの銃弾が軍人に向かって放たれた。

廃工場内に木霊する幾重にも重なった甲高い発砲音。

軍人は咲夜を連れて貨物自動車の影へと下がる。


「八雲さん!こっちです!」


八雲が戻って来ない事を不審に思った組織の人間が廃工場へ様子を窺いに来ていたのだ。

軍人が貨物自動車の影から飛び出せないよう、三人の男が貨物自動車に向けて発砲を続ける。

八雲はその隙に仲間の元へと走り、その場から逃げ去った。

銃弾の嵐が収まり、四人の後を追おうと物影から飛び出そうとした軍人を咲夜が呼び止める。肩越しに軍人が振り返ると、咲夜が雛菊を指差して「助けて」と言った。

軍人が刀を鞘におさめる。

雛菊が思い出せるのはここまで。

きっとそこで気を失ったのだろう。

目を覚ました時にはもう肩は縫合され包帯が巻かれていて、病室のベッドに横たわっている状態だった。

傷口が鈍く痛む。

咲夜があの後どうなったのかが知りたくて落ち着かない。

何故、どんな経緯で軍人があの瞬間あの場に現れたのか見当もつかないが、助けに入ってくれたのだ。咲夜を保護してくれたと期待するしかない。

溜息をつくと傷口がひどく痛んだ。

コンコン、と扉をノックする音。

上半身を起こしながら雛菊が返事をすると、扉を開けたのは廃工場に現れた軍人だった。

驚くと同時に、一体自分に何の用だと頭の中に疑問符が浮かぶ。

扉が閉まらないよう軍人が扉を開けたままにしていると、続いて現れたのはもう一人の軍人に付き添われた咲夜だった。

浮かんでいた疑問など一瞬で吹き飛び、雛菊は笑顔で身を乗り出す。


「咲夜!」

「治療が終わったと医師から聞いたから来たんだが、元気そうだな」

「お見舞いっすか!ありがとうございます!肩に穴開いちゃいましたけど、この通り元気です。咲夜は大丈夫でしたか?俺気絶しちゃってからの事わからなくって。怪我とかしてませんか?」

「ああ」

「えっと、軍の人が保護してくれたのか?」


雛菊が咲夜の後ろにいる軍人二人へと視線を向ける。

廃工場に現れた軍人は腕を組み壁にもたれかかっていて、口を真一文字に結び会話に応じる気配が全くない。

もう一人の軍人へと雛菊が視線を移す。

軍人という役職の肩書きに恥じない凛とした姿勢で咲夜の傍らに立つ女性は、柔らかい口調で雛菊の問いに応える。


「ええ。咲夜さんは私達がきちんと保護したので安心して頂戴。人身売買組織の手に渡らず、貴方の事も保護出来たのは貴方の奮闘があったおかげです。一応、彼がついてはいたのだけど、彼が出ていけるのは余程窮地に陥った時だったから」

「彼が、ついてた…?」


彼、というのは廃工場に現れた軍人を指しているのだろう。

しかし彼がついていたとは一体どういう意味なのだろうと雛菊が目を瞬かせる。


「咲夜さんには今回、人身売買組織を誘き出す囮として街を出歩いて貰っていたんですよ」

「は?」

「自警団の方なら今朝軍本部前で起こった自爆テロを御存じですよね。あの爆弾が仕込まれた遺体は今回捕らえた人身売買組織がレジスタンスへ売ったものです。最近失踪事件が続いていたのも、どうやらこの地区を中心に組織が子供を攫っていたらしく、早々に捉える必要が…」

「事情とかどうでもいいんだよ!こんな、こんな子供に囮役なんてさせたのか!」


怒りを露わにして雛菊が激しい口調で軍人に食って掛かる。

声を張り上げると傷口がひどく痛んだが関係ない。

目上の人間に対する態度ではないと頭では分かっていたが、煮えたぎる感情ば静まらない。

雛菊はどれだけ危険な状況だったのかを目の当たりにしている。

あの時咲夜は自分よりも身の丈も遥かに大きい屈強な大人の男に囲まれていた。

手錠で両手を拘束され荷台に積められた。

命を軽々扱う人間が目の前に立っていた。

次の瞬間には殺されるかもしれない状況。

捕らえられた先が見えない恐怖。

そんな経験を、大人の都合で子供にさせた事が許せない。


「俺が快諾したんだから責めるな」

「でも危ないだろ!」

「うるさい怒鳴るな」

「っ!…怪我しなかったから良かったものの、簡単に人を殺せる連中相手なんだぞ」

「お前と同じだ」

「なにが」

「俺に出来る事があったんだ」

「…っ」


咲夜にまっすぐ言われ、狼狽えた雛菊の視線が彷徨う。

俯いて瞳をぎゅっと閉じ、カッと熱くなってしまった胸の内が静まるのを待つ。

早鐘を打っていた鼓動が静まっていくのを感じる。

落ち着きを取り戻したと自覚してから、雛菊がゆっくりと目を開ける。


「助けは、いらなかったっつー事ですか…俺は、余計な事を」

「そんな事はない」

「咲夜さんの言う通りよ。私達が姿を見せれば組織の連中は警戒して二度と咲夜さんには近付かないでしょう。だから多少咲夜さんの身が危険に晒されていても出ていく訳にはいかなかった。今回無事商流地点まで辿れたのは、自警団である貴方が関わってくれたからこその結果よ。貴方が荷台に積め込んだ組織の人間から情報を聞き出す事も出来た。じき、一つの人身売買組織が壊滅するでしょう。協力に、感謝を」


軍人が淑やかに頭を下げる。

洗練されていて、それでいて高圧的ではなく、やさしい雰囲気を醸し出していて、心からの感謝の気持ちが現れていた。


「俺も、詳しく聞かず感情的になってしまってすみませんでした」

「いえ、お怒りは最もです。その感情は大事にしてください」

「うっす…ところで、なんで囮に咲夜を選んだんすか?」

「色素欠乏症のヒトが高値で取引されている事はご存じですか?」

「やっぱりそれなんすね。あ、なあ咲夜。もしかして、世間知らずってのは相手を油断させるための演技だったりする?」

「世間知らずってなんだ?」

「あ、なんでもないです」

「は?答えろよ」


二人のやりとりを見て軍人がくすくすと笑う。


「ほら、貴方が関わってくれて良かった。咲夜さん、親しく話せる相手が出来て良かったですね」

「別にどうでもいいけど」

「そんな冷たい事言わないでください!俺で良ければ、いつでも話し相手になりますよ!」

「まぁ、気が向いたら」


咲夜の素っ気ない態度は相変わらずだったが、出会ったばかりの時と比べれば随分警戒心を解いてくれたように感じられて自然と雛菊の顔には笑みが零れていた。


「そうだ。お前に一つ聞きたい事があったんだ。いいか?」

「なんすか改まって。なんなりとどーぞ」

「お前は死刑制度を否定しないのか?」

「んん?」


咲夜の口から死刑制度という単語が出てくるとは思っておらず、雛菊が呆けた顔になる。


「廃工場で、あの制度は理不尽な悪意から街の人を護るためのもの、とか言ってた」

「あ、あまり大きな声で言うなよ」

「何故」

「誰が聞いてるかわかんねーから」

「だから、何故聞かれて困る」


雛菊が後ろめたそうに病室内をきょろきょろと見渡す。隣の患者が帰ってくる気配はまだない。室内には自分と咲夜と軍人二人しかいない事を確認してから、重たそうに口を開く。


「死刑制度に良い顔してる人なんていないっしょ。そんな中で、賛成してる、みたいな意見堂々と言えませんって。俺、自警団員でもあるので。俺一人のせいで自警団に良くないイメージ持たれたりしたら困ります」

「廃工場では言ってたじゃないか」

「あれはつい熱くなってしまって…反省してます。なんでそんな事聞くんすか?」

「否定じゃない言葉を、はじめて聞いたから」

「そりゃ、まあ…でしょうね。俺も、文句なしに賛成って訳ではないんすよ。再犯抑制のためにっつって遺体を晒したり、処刑を公開したりして、街の人を恐怖で弾圧してするやり方は腸煮えくり返りそうになるくらい嫌です。でも…」


躊躇うように雛菊が言葉を区切る。この先を言葉にした事は一度もない。

秘めておくべきで、誰かに聞かせる話ではないと思っている。

咲夜を見ると、じっと言葉の続きを待っている。

差し出した手を握り返そうとしなかった子供が、今は耳を傾けてくれている。

それがどんな話題であれ、今はその気持ちに応えるべきだと思ったのだ。


「この国の偉い人が殺されて制度が施行された日に行われた声明、俺、その場で聞いてたんすよ。言ってたんです。望んでいるのは安寧だって。俺、あの言葉に嘘はないと思うんです。だって、実際に処刑されてるのは有罪者です。それは、秩序を脅かせば殺すっていう声明に基づいて執行してるだけ。決して、決して理不尽に殺害したりはしていないのです。あの制度は、みんなを護ってる。護ろうとしている。実際あの制度が敷かれてから無秩序だった街は見間違える程平穏になりました。犯罪件数も減ったって数字に出てるんですよ。確かに、平和になったんです」


無自覚に雛菊が両手を握り締めている。

死刑制度が敷かれるずっと前から、自警団は無秩序で無法地帯だった街が少しでも良く在るようにと駆け回っていた。

しかし犯罪抑止の力にはならず、事が起こってから対処に向かうしか出来ない毎日。

いつも後手にしか回れず、雛菊はいつも悔しい思いをしていた。

雛菊だけではない。他の自警団も皆、無力さを痛感していた。

変わらない毎日。

変えられない毎日。

そんな毎日を変えたのが、恐怖と殺戮で弾圧する制度だった。


「犯罪者は死刑なんて口で言うのは簡単です。処刑して、遺体を晒す。恐怖心を与えて、弾圧する。思いついたって普通しません。でも、実行してみせた。本気なんだと思いました。世の中を本気で変えるつもりなんだと。本当に、本気で、平和を目指して制度を敷いたんだと。だから、俺は否定したくないんです。軍部を指して悪逆非道だと皆言いますけど、もしかしたら、彼らだって処刑は本位じゃないかもしれない…なんて、これはさすがに夢見過ぎですかね」

「理想論だと思うか?」

「え?」

「弾圧して、犯罪がなくなったら、平和になると思うか?」


咲夜が問い掛ける。

雛菊を淀みなく見つめるその表情からは、何を思ってその質問をしているのか考えが読み取れない。

暫く考えた後、雛菊は顔を上げてはっきりと答える。


「まるで、子供の夢物語みたいな話ですよね。でも、皆が理想を目指して、少しずつ歩み寄れたなら、努力したなら、夢物語は現実にだってなりえるんじゃないでしょうか」

「……」

「あはは、俺、こんなだから甘いって言われるの分かってるんすけどね。だって、やっぱり俺も、平和が良いですもん」

「そうか。俺も、平和が良い」


咲夜の表情が柔らかいものへと変わる。


「聞けて良かった」

「どういたしまして?」

「病み上がりに押しかけて悪かったな。帰るよ」

「あ、咲夜、お前帰り道は」

「ご安心ください。私達が責任を持ってご自宅へ送り届けます」

「そうっすか、軍の人が付き添ってくれるなら安心だな。宜しくお願いします」

「じゃあな」


短くそう言って、咲夜は雛菊に背を向ける。

自分が帰り道を見つけると言っておきながら、最後まで見送れないのが口惜しい。

しかし軍の人間が責任を持って自宅へ送り届けると言うのだから、咲夜はもう安全だろう。

軍の人間は死刑制度の影響で街の人から残忍という印象で見られがちだが、街の平穏のために日々尽力している事を、街を駆け回っている雛菊はよく知っていた。


「またな!」


雛菊が元気よく声を掛けると、咲夜が足を止めて振り返る。


「またな、ってなんだ?」

「そうきたか…挨拶ですよ。また会おうなって意味です」

「そうか。じゃあ、またな」


また会おうという意味を理解して咲夜がまたなと紡いだ。

その事実が嬉しくてたまらず、雛菊は肩が痛むのも忘れ笑顔で手を振りその後ろ姿を見送った。



雨が降りしきっている。

右腕で目元にぶつかる雨粒を遮りながらブライアンが街中を駆け抜ける。

傘は邪魔だから捨てた。

分厚い雨雲によって街全体が暗く、加えて容赦なく叩き付ける雨により見通しは悪い。雨音に周囲の音は掻き消され、水を含んだ衣服がずっしりと身体にのしかかる。

水溜りからはねた泥水がズボンの裾を汚す事も気にせずに、ブライアンは必死に人を探していた。

数時間前。

雛菊が撃たれたという情報がブライアンの耳に入った。

人身売買組織に攫われそうになっていた子供を助け負傷したらしい。

雛菊らしいと苦笑したのも束の間。軍が追っているという、現在逃亡中である人身売買組織構成員の特徴を聞いたブライアンの表情が一瞬固まる。

八雲と言う名の男を、一人知っている。

胸中で嫌な予感が燻る。

負傷して逃亡していると聞いた。まずは身内を頼るんじゃないだろうかという直感に従って、ブライアンはすぐに八重の自宅へと向かう。

まだブライアンの知る八雲が逃亡中の八雲と同一人物であるとは決まっていないが、聞かされた外見の特徴に合う八雲という男は街に他にいない。

商売しに街へとやってきた外の人間という可能性もあったが、そんな上手い話はないだろう。

しかし、あの父親が娘を巻き込むような真似をするだろうか。

父親が物騒な仕事に足を突っ込んでいると知っている素振りは八重に見られなかった。寧ろ人身売買に足を突っ込んで仕事をしていると知れば止めようとするだろう。

真っ先に、父親の身を案じて。

賃貸住宅前。

屋根が取り付けられているおかげで雨が当たらない階段、廊下には、八重が借りている部屋の前まで点々と血痕が続いていた。

人身売買組織の八雲とは、八重の父親だと確信する。

ブライアンが部屋の扉の取っ手に触れると、抵抗なく扉が開く。

玄関には血溜まり。

まだ乾ききっておらず、新しい。

室内から物音はしない。念の為一通り見て回ったが、八重の姿は何処にもなかった。

ブライアンが部屋から飛び出して、今に至る。

恐らく二人は共に行動している。

人身売買に関わった人間ならば処刑は免れない。

軍から逃げるために娘に協力させているのか。

あるいは。

娘が父親を逃がすために協力しているのか。

自警団で長く活動しているブライアンは後ろめたい輩が選ぶ逃亡経路を熟知している。

入り組んだ路地裏へと足を向ける。

路地裏では素行の悪い連中が屯していて、ブライアンに絡もうと彼の進路に立ちはだかるが、ブライアンは無言で殴り飛ばして先へと進む。

数えきれない数の角を曲がった先、探していた後姿が目に飛び込んできた。

名前を叫ぶ。

雨音を縫って、声が八重の耳に届く。

突然知っている声に名前を呼ばれ、思わず立ち止ってしまった八重がぎこちなく振り返る。


「ブライアンさん…」


八重は自分よりも背の高い人物に肩を貸している。

顔を隠すようにストールを頭から羽織っているのは八雲だった。右手に巻かれた包帯には血が滲んでいる。


「ブライアンさんも、私達を追って来たの…?」


その声には、言葉にせずとも近付いてこないでという明確な敵意が込められている。


「お前は、まだ助かる」

「助かるって何よ、頼んでないわそんな事。私より、父さんを助ける協力をしてくれない?追われてるの」

「知ってる」

「私を探してたって事は、そうでしょうね。追ってきたって事は聞いたんでしょう?父さんの仕事の事も、軍に追われてるって事も」

「ああ、聞いた」

「私、なにも知らなかったの」

「だろうな」

「でも、私の父さんよ」

「ああ」

「私の父さんなの」

「ああ」

「私も、さっきはじめて父さんから事実を聞かされた時は驚いたわ。でも、それだけ。母さんが死んでから二人で助け合って、二人で生きてきたの。父さんは身体が悪いのに、私を不自由させまいと頑張ってくれてた」

「その仕事は、決して許されるものじゃない」


ブライアンが銃口を向ける。

八重には銃を扱った経験がない。なのでその銃口が何処を狙ったものなのか分からなかったが特に驚きもせず、怯えもせず、凍てついた目でブライアンを睨みつける。


「見逃してくれないのね」

「俺はお前を撃ちたくない」

「ひどい人…いえ、だからこそ、そんなブライアンさんだからこそ、自警団の団長なんて務まるのかしら。でも駄目よ。駄目なの。だって私の父さんなのよ」


今にも泣きだしそうな声。

父親を支える手に力が籠る。


「これまでだって色んな苦難を一緒に乗り越えて生き抜いてきたの。今回だって乗り越えてみせるわ。これからだって、一緒に生き抜くの」

「人身売買に関わった人間だと知ってて逃がすなんて真似やってみろ、テメェだって処刑対象にされるんだぞ」

「分かってるわよそんな事!いいのよ!私が選んだの!後悔なんてしない!私は父さんを助ける!そのために犯罪者に成り下がったっていい!そうやって、手を汚してまで父さんは私を育ててくれたんだもの!」

「八重!」

「貴方が、街の人を護るために命を賭けてるのと同じよ…!私の人生の邪魔をしないで!」


雨音を引き裂くような叫び声。

お互いに気持ちが昂っていて、ブライアンの後方から足音が近付いている事に気付いていなかった。

ブライアンの背後に黒い人影が見える事に八重が気付いた次の瞬間には、黒衣を纏った軍人がブライアンの横を駆け抜けていた。

軍の人間が父親を殺そうとこちらに向かって来る。

頭では理解していても、八重は顔を青ざめる事しか出来ない。

動け、逃げろと頭でどれだけ命令しても、身体が強張り動かない。

土壇場で動けない自分があまりに情けなく、八重が顔を歪ませる。

動けていたとしても、軍人が二人との距離を詰める方が早かった。

軍人が刀を構え二人の目の前に迫る。抜刀し、狙いを定める。

刀を振り抜く瞬間、八雲が左手で八重の首を後ろから鷲掴みにして軍人の目の前に差し出した。

刃が八重に届く直前で止まる。

突然首を背後から掴まれ、喉が圧迫されている八重が苦しそうな呻き声を出す。

軍人が別の角度から八雲の頭部を狙うが、先程と同じ方法で遮られた。

八雲が八重の首から手を離し、彼女の首を絞めるように左腕を回す。

首をきつく締められていて、八重が両手で八雲の腕をどかせようともがく。

喉を圧迫されて声すら出せない。

困惑の眼差しを父親に向ける。


「僕を追ってきたのかい軍人さん、お疲れ様だねぇ」


その顔は白く、声には覇気がない。

軍人は目の前の事態に動揺した様子はなく、落ち着いて刀を構え直す。


「八雲。お前への処刑命令が出ている」

「だろうね。言い訳はしないけど…まったく、もうちょっとで船に潜り込めたのに、使えない子だね、八重は」

「その娘は」

「おっと。軍人さん、それ以上近付くならこの子の首を折ってしまうよ?僕を処刑するために一般人が巻き込まれたとあっちゃあ、ただでさえ支持されてない軍の評価がどん底に下がっちゃうんじゃないかな」


軍人は言葉を返さない。

その反応を見て八雲が笑みを浮かべた後、八雲は一歩ずつ後ろへと下がり軍人との距離を離していく。

八重は首を絞める力を更に籠められおとなしくなっていた。

致命傷を与える訳にはいかないが、首を締める腕から八重を解放出来るだけのダメージを相手に与える隙はないかとブライアンは銃を構え八雲の隙を窺っているが、八重の身体を盾にされていて狙いが定められない。

そんな時、ブライアンと八雲の目があった。

ブライアンには八雲が片目を瞑る動作をしたように見えて眉を顰める。

まるで、ウインクのような。

まるで。

心配するなと言っているような。

八重を盾にしてはいるが、治療が施されていない傷口からの出血と激しい痛みで八雲の身体は覚束なくなってきている。

素人目に見ても、今にも倒れてしまいそうな状態であるのは一目瞭然だった。

だから軍人は急いて後を追うことはしない。

決着はついている。

実際八雲の視界は霞み始めていて、意識を繋ぎ止めておくのも限界だった。

だから目の前の軍人に集中する事に全神経を研ぎ澄ませていて、背後からもう一人の軍人が迫っている事には気付かなかった。

気付いた時にはもう遅い。

八雲に後ろを振り向く間すら与えない一瞬の出来事だった。

刀が躊躇なく八雲の首を刎ねる。

生温い液体が八重の頭から降り注ぎ彼女の上半身を真っ赤に染め上げる。

首を絞めていた腕からは力が抜けて、吊っていた糸が切れた人形のようにだらしなく八雲の身体がその場に崩れ落ちる。

頭部がごろりと八重の足元に転がった。



雨が降るしきる中、街中の歩道を傘を差した軍人二人と咲夜が連れ立って歩いている。

子供を連れて歩く軍人という珍しい光景に街の人々は怪訝そうな視線を向けるが、関わり合いにならないよう自ずと遠ざかっていく。

ふいに咲夜が歩みを止めた。

軍人二人も黙って足を止める。

そこは今朝、軍部所属の人間がレジスタンスのテロ行為により死者が出た場所。

暫くその場を見つめた後、静かに再び歩き出す。


軍人二人に付き添われ帰宅した咲夜は、雨に濡れた身体を温めようとシャワー室へと向かった。

浴室の鏡に自分の姿が映っている。

人よりも色素が薄い事は薄ら自覚していたが、そこに価値が生じるとは思っていなかった。

今回、色素欠乏症の子供が街を無防備に歩いていたら確実に人身売買の連中が食いつくという軍部の発案を受け、組織の人間を誘き出すために外へ出た。

実際、街へ出た途端発案者の読み通り組織の連中に目を付けられ、一つの人身売買組織を潰す結果に結びついた。

色素欠乏症の容姿は美しいから観賞用として人気なのだとベーカリーにいた客は言っていた。発案者からも、色素欠乏症の人間は高額で取引されているという説明を受けている。

死刑制度が敷かれた現在でも、人身売買が行われている現状。

咲夜が鏡から目を逸らし、吐き捨てるように舌打ちをする。

手短にシャワーを浴びて、用意しておいた服に着替える。


「お前は、理想論だと思うか?」


ネクタイを締めながら外に向かって問いかける。

扉の外には浴室を警護するように軍人が一人待機している事を咲夜は知っていた。

廃工場で八雲の指を斬り落とし、病室でも警護するように付き添っていた軍人。

彼は咲夜が雛菊に同じ質問をしていたのを聞いている。

現在敷かれている制度によって、安寧は築けるか。否か。

文脈を理解して、淡々と答える。


「弾圧するだけでは誰もついてこない」

「ふふ、正直だな」

「しかし」

「ん?」

「お前は理想を実現させるんだろう」

「そうだよ」


咲夜が白い軍服に袖を通す。

その腕には、軍部所属を現す赤い腕章が巻かれていた。


「俺が望むのは世界平和だから」



無防備な八重の身体を雨が打ち続けている。

父親の頭部を抱き締めながら蹲り続けるその背中は頼りなく、今にも崩れ落ちそうな程弱々しい。

父親の首から下の部位は軍の人間が持ち去った。遺体を晒すためだろう。

放心状態の八重は遺体に縋る力も湧かなかった。

暫くブライアンが傍らにいて声を掛けていたが、ありったけのひどい言葉を浴びせているうちに去っていた。

彼は中傷されたところで怯む人間ではない。

自分が目の前にいる事で余計苛立たせるだけだと判断してその場から退いた事は、八重にも分かっていた。

それでいい。今は一人にしてほしい。

慰めの言葉はいらない。

止まらない涙を雨が洗い流していく。

父親の遺体から流れ出た血液が水溜りに溶けて辺り一面が赤く染まっている。

赤色が辺りを浸食していくように、八重の心を悲しさだけが浸食していく。

身体が重くてもう立ち上がれない。

頭が重くてなにも考えたくない。

指先を動かす気力すら八重にはない。

八雲が八重の口を塞ぎながら耳打ちした言葉が脳裏に蘇る。

―巻き込んで悪かったね。

―どうせ僕は助からない。

―だから、どうしてもお前の顔が見ておきたくって。

―このまま人質になってくれれば、お前は生き延びられる。

―ごめんね。

絶叫する。

父さんは、父さんだった。

最期まで、私の知っている父さんだった。

喉が痛い。目頭が熱い。胸が苦しい。


「お嬢さん」


ふいに、身体を叩きつけていた雨粒を感じなくなったと思えば、頭上から声が降ってきた。

相手に警戒心を与えないよう細心の気遣いが行き届いたやさしい声色。

流れる涙を拭いもせず虚ろな瞳で八重が顔をあげると、一人の青年が八重に傘を差し出していた。


「悲しいんだな。大切な人を亡くして」


大切な人を亡くした。

事実を告げられ落ち着きはじめていた激情が再び込み上げてくる。

知らない人物が目の前にいるにも構わずに八重は大粒の涙を零す。


「私だけが生き残ったって、意味ない…っ」


絞り出した声は掠れていた。

母さんを亡くして。

父さんまで亡くした。

これから先一人でどう生きていけというのか。

家族がいたから頑張れたのだ。

展望が見えない。


「いいや、意味ならある」


雨音に負けない、暗闇から引き上げるような力強さで男が語る。


「お譲さんは奪われる悲しみを知っている。今も何処かでお譲さんのような悲劇に打ちのめされる人が生まれている。数年前までは死刑制度なんてなかった。あの制度がなければ貴方の大切な人は生きていられたかもしれない」

「そういう…もしも話は好きではないわ」

「これは失礼。つまり俺が言いたいのは、こんな世界は間違っている、そうは思わないかって事だ。今の軍部の在り方を、変えたいと思わないか?」

「大層な話ね」

「ああそうだ。大層で、途方もなくて、変えられる保障なんてない夢のような話だ。けど、誰かが動かなくては何も変わらない。目的のために犠牲が出る事だってある。恨まれる事もある、憎まれる事もある、殺意を向けられる事だってある。それは当然受けるべきものだ、自分がお綺麗なまま望みを叶えるなんて出来やしないんだから。世界を変える理想を掲げて意思を貫くなら、それらを背負う覚悟をしなくちゃいけない。お嬢さんになら出来る。その悲しみを知ってるんだから。力を貸してほしいんだ。どうか協力を。俺達は今の世の中を変えたい。お譲さんのような人が一人でも生まれないように!」


男が八重に手を指し延ばす。

八重は差し伸べられた手と男の顔を交互に見る。真剣な眼差しが八重を射ぬく。


「わたし、が」

「ああ。貴方の手で」


沈黙の後、八重が男の手を取る。

青年はにこりと微笑み八重を引き寄せた。地面に張り付けられたように重かった八重の身体が抵抗なく立ち上がる。

空の切れ目から天使の梯子が落ちて、二人を淡く照らし出す。

青年はまるで舞台の上から歌い上げるように奏でた。


「歓迎するよ、お嬢さん。ようこそ、レジスタンスへ」

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