missing child - 6
ギィ、と重たい金属が擦れる音が聞こえた。
身体の側面が冷たい。どうやら自分は床に横たわっているようだ。
朦朧とする意識の中で雛菊が薄く瞳を開けると辺りは暗闇に支配されていて、目を閉じているのか開けているのか分からなくなる。
寝転ぶように身体の向きを反対方向へと変えると、真っ直ぐに天井へと延びているかのような光が視界に飛び込んできた。
微睡みながら視線の先に見える光を見つめていると、それはどんどんか細くなっていく。
目を細めると、光の中にぼんやりと人影のようなシルエットが浮かんでいるように見えた。
外側から扉を閉められている。
そう気付いた瞬間霞がかっていた雛菊の意識が晴れる。
扉を閉めさせないための行動に移ろうとするが、両手が思うように動かせず身体を起こそうとするとその動作が阻害されその場に転がってしまった。
何が起こったのか考えるよりも先に、身体に鞭打ち我武者羅に起き上がる。
閉まりかける扉に向かって全体重を乗せ足を突き出すと、扉は重い音を立てて外側へと開いた。
扉を押し出した勢いのまま雛菊の身体が外へと飛び出す。
ぱっと辺りが明るくなり、開けた視界に飛び込んできたのは両手を拘束する手錠と、扉を閉めようとしていたのであろう男の姿。
閉じ込められていたのは大型貨物自動車の荷台のようだった。
受け身を取り地面を転がる。
素早く顔を上げ男を見ると、男は拳銃を雛菊に銃口を向けていた。
男との距離は数メートルも離れていない。雛菊は素早く男との間合いを詰める。
発砲音。
しかし焦って照準が定まっていない銃弾は雛菊の服を掠めただけで命中しなかった。
雛菊は跳躍し、男の側頭部に蹴りを叩き入れる。
蹴り飛ばした先には荷台の開かれたままになっていた扉があり、男は勢いよく鉄製の分厚い扉に頭を撃ち付けた。
鈍い打突音がして、男の身体は力なくその場に倒れた。
横たわる男は完全に意識を失ったようで、頭部を爪先で小突いてもなんの反応も示さない。
ほっと息をついた後、雛菊は改めてゆっくりと辺りを見回す。
幾つもの亀裂が走る脆い壁、所々地面が剥き出しになった床。天井には屋根が崩れて出来たのであろう大きな穴が開いていて、陽光が差し込んでいる。
隅には埃を被った廃材が積まれていて、人の出入りがなくなって長い年月が経過している事が窺えた。
―街外れに廃工場があったな。
雛菊は落ち着いて思考を廻らせる。
何故自分が廃工場に停められたトラックの積み荷に乗せられていたのか。
呼吸を整えながら記憶を遡る。
ベーカリーで男に注射を打たれて気を失った。何故。
意識が途切れる直前、男は商品を取り返しにきたと言っていた。恐らく商品を取り返すのに自分が邪魔だったのだろう。
商品、それはきっと昼間自分が助けた子供―
「咲夜!」
雛菊の声が廃工場内に反響して消えていく。
何度か名前を呼びながら周囲を見回すが返事はない。
もう何処かに連れられてしまったのだろうか。陽はまだ高い位置にある。自分が気を失ってからそう時間は経っていない。まだ追い付けるかもしれない。もし、追い付けなかったら?
嫌な考えが胸中で綯交ぜになり、血の気が引いていく。
「そう何度も呼ばなくても聞こえてる」
そう言いながら、雛菊が出てきた貨物自動車の荷台の奥から姿を現したのは咲夜だった。
その両手首には雛菊と同じ手錠がされていて、不自由を強いる手錠に嫌そうな視線を向けている。
咲夜の無事を確認出来た事で雛菊は胸を撫で下ろす。
早足で荷台へと駆け寄ると、雛菊は咲夜に手を差し出した。
子供の身体では手錠で拘束された状態で荷台から降りる事は困難だと思ったからだ。
咲夜は沈黙したまま差し出された手を見ていたが、その手には頼らずその場から飛び降りた。
荷台から地面まで決して低くない高さがあり、着地時における足への衝撃は油断ならない。ましてや子供の身体である。
咲夜は物事を知らない。目測で飛び降りられる高さだと判断したのかと雛菊の肝が冷えたが、雛菊の心配を余所に咲夜は軽やかに着地した。
雛菊は黙ったまま行き場を失った手を引っ込める。
「怪我はないか?」
「ない。傷がつくと価値が下がるから手荒な真似をさせないでくれって言われた」
「胸糞悪い話っすが、理由は何であれ無事で良かったです。っつーか、いるんだったら返事をしてくれよ」
「お前の声で目が覚めた」
「咲夜も昏睡させられてたのか…」
「いや、運ばれてる最中眠くなってきてそのまま」
「緊張感のなさに驚きなのだが…現状分かってますか?」
「拉致されて売り飛ばされそうになってる」
「恐らくその線で正解かと思います。そこまで分かってて、怯えたりはしないんすね」
「怯えて状況が良くなるのか?」
「なりません。失礼しました」
咲夜の冷めた反応に雛菊は若干戸惑っていた。
その余裕はどこからくるのだろうか。
幼さを残す顔から、子供らしさが感じられない。
迷子だと発覚した時も、自分が何処にいるかも分からないのに落ち着いていた。
アイリスから聞いた色素欠乏症の価値を思い出す。
これまでに、その容姿から生じる苦労を数多く経験しているのかもしれない。
雛菊はそう思った。
「常連客の知り合いのようだったので、つい油断をしてしまいました。結局こんな事になってしまって、申し訳ない」
「悪いのは実行犯の奴らだ。お前は俺を助けようとしてくれてた。お前が謝る事じゃない」
「咲夜…ありがとう」
「礼を言われるような事は言ってない」
「言ったんだよ」
「そう」
助けるのだと自ら首を突っ込んでおきながら、自分の手落ちで窮地に陥ってしまった。
そう考えていた雛菊は、僅かに芽生えたように感じた咲夜から自分に対する信用が失われても仕方ないと思っていた。
しかしそれは思い過ごしだったようだ。
目の前の子供は助けようとした事実を見てくれている。
雛菊は、その信用に応えたいと。
助けたいと、改めて強く想った。
「ここは何処なんだ?」
「何処かの廃工場のようっすね。あ、廃工場っていうのは、今はもう使われなくなった工場の事ですよ」
「知ってる」
「廃工場は分かるんすね」
廃工場には二人が積み込まれていた貨物自動車の他にも、中型や小型の貨物自動車が複数停められている。
荷台の扉が開かれたままになっているトラックの周りには幾つもの段ボール箱が無造作に置かれていて、ここで積荷の集荷・出荷の作業が行われている事が窺えた。
「商流の中継地点っつーところでしょうか」
意識を失う前、男が口にした “商品を返してもらいにきた”という台詞。
アイリスが言っていた通り、商品として咲夜を狙った事は間違いないだろう。
目を付けたのは恐らくヒトをも商品として扱う、人身売買組織
ヒトには商品として立派な価値がある。
数多の使い道があり、容易に仕入れる事が出来、枯渇の心配がない。
あの時目を覚まさず、扉が閉められてしまっていたらと思うと肝が冷える。
運が良かっただけだ。
保護したつもりが、なんの助けにもなれていない。
自分の未熟さに歯を食いしばるが、今は悲観に暮れる暇などないと雛菊は首を横に振り気持ちを切り替える。
運が良かったのだ。
幸運が舞い込んだのなら掴んで生かさなければ。
咲夜は目の前にいる。
まだ助けられる。
しかし、ここから無事脱出出来たところで再び組織に追われるかもしれない。否、追ってくるだろう。
自分一人が吠えたところで組織一つを潰す事も出来ない。
ではどうすればいいのか。
脳内で暫くぐるぐると問答を繰り広げるが最適解は見つからない。
雛菊はこのまま時間が過ぎるのも阿呆らしいと、まずは現状からの脱出に集中する事にした。
逃げた後の事は逃げた後考えたらいい。
まずは、と雛菊は倒れた男の傍らにしゃがみこみ、上着のポケットの中などを物色しはじめた。
咲夜が後ろから怪訝そうな眼差しを向ける。
「何をしてるんだ?」
「手錠の鍵を持ってないかと思いましてね。このままじゃ不便っしょ」
倒れた男は手錠の鍵を持っていなかった。
目を覚まされると厄介だと判断した雛菊は、男を自分達が積み込まれていた荷台へと押し込める。
自力で扉を開けられないように、床に転がっていた棒状の鉄くずを積荷の取っ手部分に差し込んだ。
「やっぱ手錠してると動きにくいっすね…せめて何か工具でもあればいいんすけど…」
鍵がなくとも手錠の連結部を破壊出来れば両手は自由になると考えた雛菊は辺りを見回す。
しかしめぼしい物は見当たらない。
次に雛菊はトラックの内部を見て回る。
どのドアにも鍵がかかっていたため窓から見える範囲しか確認出来なかったが、ここにも工具類は見当たらなかった。
手錠をしたまま脱出を試みるしかないのだろうか。
最後に、一縷の望みをかけて段ボール箱を開封する。
人身売買を行う組織の荷物ならば、手錠の連結部を破壊出来るような刃物類が梱包されているかもしれない。銃火器であったならば、自衛に使えると考えていた。
しかし、段ボールの中には雛菊が望むような品物は入っていなかった。
段ボール箱を開封した雛菊の手がか細く震える。
雛菊は一瞬自分が目にした物がなんなのか理解できなかった。
否、理解したくなかった。
中には、子供の遺体が胎児のように身体を折り曲げた状態で詰み込まれていたからだ。
衣服を着用しておらず、露出した肌には胸元に大きな縫合跡が見える。髪は剃り落され、目玉は刳り貫かれている。
その遺体からはあらゆる臓器が摘出されていた。
視線を逸らしたくても逸らせない。
動きが止まったままの雛菊を不思議に思った咲夜が後ろから近付く。
人の気配に雛菊が我に返り、勢いよく段ボール箱の蓋を閉めた。
役に立ちそうな物は入っていなかったと平静を装うつもりだったのに、これではいかにも隠したい物が入っていたと言っているようなものだ。
「中身はなんだったんだ」
「知らない方が良いです」
「死体か?」
「なんでそういう事は分かっちゃうんすか」
「血の臭いがした」
「そっか…」
「顔色が悪い。死体を見るのははじめてだったのか?」
「いいえ。人身売買っつー組織について知ってたつもりでしたが、いざ行われてる現実を目の当たりにしてややショックを受けてるだけっすよ」
「それはお疲れ様」
失踪する子供の中には人身売買の組織に捕まり、今目にしたような末路を辿った子もたくさんいたのだと思うと、雛菊の胸にやりきれない気持ちが渦を巻く。
雛菊は自警団の仲間から人身売買の実態を聞かされていたため知識として保有してはいたが、実際現場を目にしたのははじめてだった。
加えて、雛菊は少しでも街の平和の糧になるようにと熱心に自警団の活動に取り組んでるため多くの住民と深い関わりを持っている。
だから、段ボールに詰め込まれた遺体が誰なのか分かってしまう。
雛菊は立ち上がり、ゆっくりと辺りを見渡す。段ボール箱はまだ幾つもある。
これら全てに遺体が積まれている可能性があるのかと思うと悪寒が走った。
「おやおや」
突然、雛菊でも咲夜のものでもない声が廃工場内に響いた。
聞き覚えのある声。
鍵の探索に時間をかけ過ぎたのだ。
雛菊の心臓が早鐘を打つ。
振り返るとそこには男が立っていた。
それはベーカリーで、気を失う前に聞いた声の主―八雲だった。
「荷積みが終わったって報告が中々来ないから様子を見に来てみれば、商品が抜け出しちゃってるじゃないか。しかもさっき苦労してやっと回収した子が」
雛菊は咲夜を自分の後ろに下がらせるように素早く前に出る。
睨みつけると、八雲は視線を気にする事なく柔らかく笑う。
「荷積み係が一人いた筈だけど、君達が闊歩してるって事はやられちゃったか。大事な人員なんだけど…まぁいいか。君達、荷台に戻ってくれないかな。そしたら僕は君達に危害を加えたりしないから」
「おとなしく従うとでも思ってんのですか」
「そんなに睨まないでおくれよ。自警団の連中っていうのは皆血気盛んなんだから。いいかい、これは交渉だよ。僕だって暴力は嫌いなんだ。傷がつくと価値が下がるからね」
ヒトを商品として見ている物言いに殴りたい衝動に駆られたが、雛菊は握り拳を作るだけに留め衝動を抑え込む。
「なんで、こんな事をするんすか」
「こんな事?ああ、もしかして荷物の中身を見たのかい?いけないよ、他人の物を勝手に物色しちゃ。それになんでって聞かれても、ただ僕は仕事をしているだけだし…ああ、僕の仕事っていうのはね、依頼に合わせて商品を調達したり、運んだりするんだよ。だから君がどの中身を見たにせよ、それは僕の意思じゃない。まあ今回は、僕の担当区域に高価格で売れる子がいたものだから、独断で動いて貰ったんだけど。現地判断って、よくあるだろう?」
穏やかに答えながら八雲は小銃を二人に向ける。
自分達を捕まえたい人間が銃を持っている。
背を向けて逃げる事は不可能だろう。焦りから雛菊の表情が険しいものへと変わる。
せめて咲夜だけでも逃がす事が出来たらと思考を巡らせるが、現状を打破出来る現実的な案は浮かばない。
自分を助けられる人間も、咲夜を助けられる人間も、この場には自分しかいない。
頬を汗が伝う。
考える時間がほしいのに、無情にも八雲との距離は縮まっていく。
手錠で両手を拘束された状態で、相手を制圧するしかない。それも一人で。
自分が動かなければなにも護れない。
相手も一人。
しかし廃工場内に停まっている車は複数。
今目の前の男は一人だが、後々増援が現れる可能性もある。
一刻も早くこの場を切り抜けなければいけない。
雛菊は傍らに置かれていた段ボールを掴みあげ、八雲に向かって力の限り投げつけた。
八雲は自分目掛け直線で飛んでくる段ボールを直撃する寸前で叩き落とした。
床に叩き付けられた衝撃で中身が零れ出る。
散乱したのは幾つもの小箱。
視界を遮っていた段ボール箱を除けると、雛菊が八雲の目の前まで迫っていた。投げると同時に駆け出していたのだ。
足元に転がる小箱を八雲の顔面目掛けて蹴り上げる。
こめかみに直撃した小箱の中には瓶が詰められていて、ガラスが割れる音と同時に小箱の蓋から液体が飛び散り八雲の顔を濡らす。
小箱の中からは砕けたガラス片と、瓶の中に浸けられていた目玉が二つ飛び出した。
思わず目玉に視線を奪われ、雛菊の動きが一瞬固まってしまう。
八雲が雛菊に銃を向ける。
想像していなかった箱の中身に気を取られてしまった雛菊だったが、咄嗟に八雲の左腕を抑え込み銃口を下方へと向ける。
次の瞬間には地面に向かって数発の弾丸が放たれていた。弾丸が地面を抉る。
腕を押さえつけたまま雛菊は相手の足を払う。体制を崩した八雲が仰向けに倒れると、膝で相手の喉を踏みつけるようにして圧迫する。
膝に力を込めながら雛菊はこのまま相手の意識が落ちる事を願ったが、八雲は空いた左腕の袖口からバタフライナイフを取り出して雛菊に向かって切りつけた。
雛菊は咄嗟に後ろへと跳び回避する。
「あいたたた、僕を殺せる折角のチャンスを無駄にしてしまったね。二度目はないよ。後々追って来そうだからと思ってついでに連れて来たけれど、まさかこんなに血の気が多かっただなんて。どうやら今回は僕の判断ミスだ。足の腱でも切っておくべきだった」
膝による圧迫から解放された八雲は、喉をさすりながらゆるりと起き上がる。
「ふざけんな。殺す気なんてねぇよ。けど、ここから俺らが逃げただけではおっさんは追ってくるっしょ」
「うん。色素欠乏症の子供はとても高値で売れるから。逃すつもりはないよ」
「だからここで捕まえて、軍警に引き渡そうと思います」
「君に出来るかな?」
挑発するような物言いを聞き流して雛菊は再び八雲に向かって駆け出す。
手錠により動きを制限され、単独で、頼れる武装はなく、勝利を確信できるような策もない。
ナイフと銃を構え、殺傷に手慣れた様子の相手に飛び込んでいく事に恐れがない訳ではなかった。
気合で恐怖心を黙らせる。
二人の距離が縮まると、八雲は一歩踏み込みナイフを突き出した。
雛菊は切っ先が身体に到達する前に、目の前に突き出された手を裁く。肋骨を狙い蹴りを入れようとすると、今度は八雲が雛菊の足を裁いた。
手錠によりうまくバランスがとれず、雛菊の身体が傾く。
足で踏ん張り転倒を回避した雛菊だったが、そこへ八雲がナイフを繰り出していく。
避けようと重心を傾けたが、避けきれず切っ先が腕を掠め赤く真一文字の傷跡を作った。
八雲に殺すつもりがあるのならとっくに勝負はついている。
しかし未だ雛菊が致命傷を負っていない事から、生きたまま確保したい算段が窺えた。
しかし八雲からの攻撃の手は決して緩まない。軽やかにナイフを掌で遊ばせるように扱い、切りつけて切り裂いていく。
縦横無尽に風を切る刃を避けながら雛菊は反撃を試みるが一歩届かない。
先程の一撃で雛菊が出せる力量を計られたのだろう、ナイフを捌こうとしても八雲に押し負けてしまう。
両手を拘束されているだけで身体全体の動きまで制限され、思うように動けず本来の力が出せない。避けきれずに肌や衣服が裂ける。
隙をついて蹴りによる一撃を与えても体重が乗っていない状態では、防戦一方を好転させる決定打にはならない。
じりじりと雛菊の体力ばかりが削られていく。
そんな時、突然八雲が背中を折り曲げ激しく咳込みだした。
口を覆う指の隙間から赤い液体が漏れている。
呆気にとられた雛菊だったがすかさずそこへみぞおちを狙い踵を突き出すとくぐもった呻き声。
ナイフを握る力が緩んでいたのか掌からナイフが放り出され床に落下した。雛菊は落ちたナイフを遠くへと蹴り飛ばす。
青い顔をした八雲が咳込みながら銃口を向けるが、それよりも早く頭部に足の甲を叩き込まれ、弾は狙いを逸れ壁に穴を穿つ。
肩を大きく上下させ息苦しそうな八雲に対し連打を繋げようと雛菊が踏み込む。
「…はぁ…、病み上がりに激しく動くものじゃあ、ないね」
八雲は大きく息を吐いて、迫る雛菊をまっすぐに見る。
口元を拭いながら八雲が再び銃を構えた。
雛菊は落ち着いて銃口の直線状から逃げようと身構えるが、その照準は彼に向けられていなかった。
もっと後方。
咲夜に向けられている事に気が付いて、雛菊は息を呑む。
咲夜を狙う事で雛菊がどんな行動を取るのか。確信を持った上で八雲は咲夜を狙う。
狙いが分かっていても、もう引き金に指がかかっていて、どうやっても止めようがない。相手の狙い通り動かざるを得ない。
雛菊は思い切り八雲を睨みつけながら咲夜と銃口の間に身体を滑り込ませた。
工場内に銃声が木霊する。
放たれた弾は雛菊の左肩に着弾し、肉を裂き貫通した。
床に赤い飛沫が飛び散る。
雛菊はその場で膝を折り、歯を食い縛って痛みに耐える。
両手が拘束されていて血が流れ出る傷口を抑える事すら満足に出来ない。
近付いてくる足音が聞こえているのに、痛みで顔を上げる事も出来ない。
銃のグリップで側頭部を殴られた。
八雲はその場に俯せに倒れ込んだ雛菊の傷口を踵で踏みつける。
「君は本当に野蛮だね。おとなしくさせる方法はいくらでもあるけれど、元々僕は身体が丈夫ではないんだ。つい君につられてやんちゃしてしまったけど、いやはや疲れてしまった。殺してしまえば楽なんだけど、どうしようかな」
「商品を…殺しちまって、いいのかよ…ッ」
「御心配なく。ヒトは無駄がないんだ。生きていても死んでいても商品になるんだよ」
「なんで、人身売買なんか…、アンタだって、死刑制度の事は知ってる筈だッ!」
「簡単な話だよ。儲かるのさ。生きていくためには何よりも必要なのは金銭だ、君だって仕事をしているだろう?それと同じさ」
「お前みたいな奴と同列で語るんじゃねェ…っ」
「僕も必死なんだよ。この世界で生きていくためにね。僕にも養いたい家族がいる。でも、真っ当に生きていて幸せが得られるのかい?正しく生きていれば、平和に生きていけるだとでも?そんな事あり得ない。賢く生きなくちゃ」
「処刑のリスクを負って、ですか」
「突飛な話だよね。なんのためにあんな制度を敷いたのかよく分からないけど…恐怖で支配して、足並みを揃えさせるっていうのは良い発想だと思うよ。でも現実的じゃない。仲良く手を取りあってれば飢えない?不幸が降りかからないとでも?実際街から犯罪はなくなっていないだろう?死刑制度なんかを恐れていたら、生き残れないんだよ」
子供を諭すような声色で話す八雲を遮るように雛菊が吠える。
「だから!お前みたいな奴がいるから!あの死刑制度は、お前達みたいな人間が世の中に蔓延らないようにするためのものだ!理不尽な悪意から、街の人を護るためのものだ!あの制度の根本は、平和を望んで敷かれたものだ!理解もしてねぇくせに、処刑を恐れない自分に酔ってんじゃねぇよおっさん!」
傷口が呼吸する度脈打つように鋭く痛む。
口を開く動作にも身を裂くような痛みが伴ったが、雛菊は叫ばずにはいられなかった。
八雲が雛菊の肩口を押さえつけている踵に力を加えると、雛菊がたまらずに呻く。
「温いよねェ。そんな制度で、世界が思い通りになると思ってるなんて」
「世界を思い通りにとか…そんな話じゃねえ…、ッ、お前みたいな奴から未来奪われる人をなくすための制度だっつってんだよ。正しく生きて、平和に生き残りたいってんなら、制度を恐れない度胸があるんだったら、まずはアンタがこんな仕事から足を洗って見せろよ…っ」
「若いねェ。僕一人が変わったところで世界の在り方は変わんないよ。僕がこの仕事から足を洗っていたところで、別の人間がこの街に現れるだけさ」
八雲が肩を押し潰していた足で雛菊の側頭部を蹴り飛ばす。衝撃で口の中を切り口から血が零れた。
「糞野郎…ッ」
「ああ、汚い言葉。お友達のおとなしさを見習ってほしいよ、ねぇ」
八雲が咲夜を見る。
咲夜は元いた場所から動く事なく、気怠そうに立っていた。
目の前で雛菊が殺されそうになっているのに、その顔には恐怖や驚愕といった感情は一切浮かんでいない。
ただ無感情に、二人の動向を見ている。
「っ!逃げろ!」
雛菊が大声で叫ぶが咲夜はその場を動かない。
八雲が咲夜へと歩み寄っていく。雛菊は力を振り絞って立ち上がろうとするが、肩を撃ち抜かれ両手を手錠で繋がれた状態では上半身を起こす事も難しい。
「逃げろって!咲夜!」
「もう諦めているのか聞き分けが良いのか、ただ現状を理解してないだけなのか…どれでもいいんだけれど。君はおとなしく荷台の中に戻ってくれるかな?」
八雲が咲夜に手を伸ばす。
しかしその指先は咲夜に届かなかった。
天井が崩れて出来た穴から落下してきた黒衣が、八雲の進行を遮るように着地する。
次の瞬間には、八雲の手の第三関節から先が切断されていた。
切断された部位が床にばらばらと落ちる。
行き先を失くした血液は断面から勢いよく噴出して咲夜の衣服を赤黒く汚す。
八雲の表情が僅かに歪み、後ずさった。
黒衣と紅い腕章、そして携えた刀。
街の人間ならばその装いは誰もが知っている。
そこに現れたのは、軍の人間だった。
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