ignition

「ええ!? ちょ、これ、首! ねえ! ちょっとあなた! 首! 首取れてるってば!!」


 目の前で落下した首を思わず受け止めてしまった口裂け女は、片手に鋏、もう片方の腕にヘルメットつきの頭を抱え、前を行くバイクを追った。


 頭部を失ったにも関わらず、バイクは失速することも道を逸れることもなく、夜の高速道路を爆走していく。

 速い。

 口裂け女も時速120㎞の足をフルに動かして懸命にそれに追い縋ったが、一向に差が縮まらない。


(死後硬直とか、慣性とか、そんなレベルの話じゃないわよね……)


 見事なドライビングテクニックでバイクを駆るライダースーツの男。

 その首の断面から血が吹き出ることもない。


 つまり。


(首なしライダー……)


 それは、古くは騎馬に乗って戦場跡に表れ、現在では整備された道路上でその名を馳せる伝説の怪異。


(私、怪異に声かけちゃったってこと?)


 何をやっているのだ。

 爆音を響かせるライダーの背が、徐々に離れていく。

 もはやそれを追いかける意味もあやふやなまま惰性のように走り続ける口裂け女の顔が、段々と俯いていった。


 あの大きなバイクの最高速度がどれくらいかは分からないが、時速120㎞より下ということはないだろう。

 追い付くなら、向こうがスピードに乗る前でなければならなかったのだ。


 仕方ない。

 いくらなんでも首なしライダーには追い付けない。

 あっちは走りのプロなんだから。


 そうして、減速しかけた口裂け女の耳に、右側から微かに衣擦れのような音が聞こえてきた。


 しゃかしゃかしゃか。


 今、口裂け女はまだ時速120㎞で走っている最中である。

 その音は、絶えず自分の右横から聞こえてくる。


(並走されてる!?)


 思わず視線を向けたその先に。


「ひいっひっひっひっひっ」


 老婆が、走っていた。


「ええええ!?!?」


 紫の着物に身を包んだ白髪の老婆が、オリンピック選手もかくやという見事なストライドで、口裂け女の横を走っているのである。


「ターボばあちゃん!?」


 そう呼んだ、その名前を。

 まるで意に介さず、さらにスピードを上げた老婆は口裂け女を追い抜き、首なしライダーの背中へと迫って行った。


 それを呆然とした表情で口裂け女が見送る。


「元気すぎでしょ、おばあちゃん……」


 そんな独り言に。


「おめぇは元気がなさそうだな」


 言葉を返す声があった。


「え!?」


 その、明らかに低い位置から発せられた渋い声に足元を見やれば、白い体毛の犬が、同じように自分の左隣を並走していた。


 こちらを見上げるその顔は皺の寄った中年男性そのもの。


「じ、人面犬……」


「知ってるか、人面犬おれに追い抜かれたやつは、死んじまうんだぜ」


 死にたくなけりゃ、追いついてみな。


 そう、言い残して。

 人面犬は、目にも止まらぬ速さで四肢を動かし、口裂け女を追い抜いていった。


「な、なんなのよ……」


 その後も。

 自転車に乗ったサラリーマン。

 ハイハイ歩きの赤ん坊。

 三輪車の幼児。

 赤と黄色の衣装に身を包んだファーストフードのマスコットキャラ。

 ミサイルに乗った女子高生。


 様々なものども・・・・が、口裂け女を追い抜いていった。


「なんなのよ、あんたたち……」


 その顔は、どこか彼女を嘲笑っているかのようで。


「私の足が遅いって言いたいの……?」


 その声が湿っぽく響く。


「わ、私は、待ち伏せする怪異なんだから。あんたたちみたいに、走ったりするほうが変なんだから」


 でも。


『ねえ、知ってる?』


 そんなことは、関係がないのだ。


『口裂け女って、知ってる?』

『知ってるー。隣町に出たんだって?』

『へっ。ヒール履いた女なんだろ? 俺なら捕まんないよ。走って逃げるね』

『え~。でも、100メートル3秒で走るんだよ』

『……え?』

『逃げらんないじゃん!』

『どうすんの!?』


(そうだ、いつも噂されてたじゃない)


 口裂け女は、静かに立ち止まると、片手に抱えていた首なしライダーの頭を放り捨て、もう一方の手に握っていた鋏を置いた。


 そして。


「馬鹿にしないでよね」


 それまで履きっぱなしだった、白いハイヒール・・・・・・を脱ぎ捨てた・・・・・・


 アスファルトに両手をつき、腰を高く上げる。


 そうだ。

 そんなこと、小学生だって知ってる。


『そうなの、口裂け女はね――』



「口裂け女は、足が速い!!」



 轟音と共に、走り出した。







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