第84話 面従・3
第八十四話 面従・3
「彼女……とは?」
「うすうす気づいているのだろう? 君はもっと聡い人間だと聞いていたのだが」
「…………」
椅子にゆったりと腰かけ、柔和な顔をしている。しかし今のクリスにはその表情の裏が透けて見えるような気がして思わず視線を外していまいそうになってしまう。
「ハァ、やはりバレていたのですか。ええ、私は鎮護の森で一人のニッポン人と出会い、先ほどの話を聞きました」
「私たち、だろう?」
「……ええ、私と、セリオ・ワーズワース、グレンダの三人です」
迂闊。その言葉がクリスの脳裏に浮かぶ。
鎮護の森に侵入したことはとっくに把握されていたのだ。この様子ではセリオとグレンダになんらかの危害は加えられていないだろうが、それもこの会談の結果次第では分からない。
(もしかすると、あの婦人も……)
「そう身を強張らせなくてもいい。何も別に君たちを罰しようというわけではないのだよ」
相変わらず好々爺とした雰囲気を纏ったままで皇帝は続ける。
「と、仰いますと?」
「確かに君は色々と知り過ぎてしまった。本来ならそれだけの知識は皇帝か、それに近しい人物くらいしか知り得ない。普通であれば秘密裏に
お願い、という言葉の裏に、クリスは何かおぞましいものを感じ取った。これはタダの忠告でも牽制でもない。帝国に逆らえばどうなるか、そう脅されているに等しいのだ。
「お願い……ですか」
「そうだ。あくまで我々はそう頼んでいるだけなのだよ」
「それでは私は断りにくいですね」
「別に、良いのだよ? まぁ優秀な君であればこのお願いを断らないと踏んでの事なのだが」
一瞬、皇帝の眼がギラリと光ったような気がした。それはほんの一瞬だったが、彼の本性が現れたのかとクリスは勘ぐる。
(これは……断れば部下や他の誰かがどうなっても知らんぞ、という事か……)
「分かりました。その
クリスはいくらかの打算もあったが、ここで皇帝に叛意を見せてもしょうがないと結論付けた。こういったやり口は気にくわないが、相手が相手だ。ここは素直に従う他に道はない。それにどこまで本気かは分からないが、皇帝の一存でクリスやその部下たち、クリスの育ての父であるグレイ将軍に何らかの働きかけがあってもおかしくはなかった。
「ふふ、ありがとうクリス君。これで私は
「もう一つ……?」
「いやなに、軽々に秘密を喋る
満足げな表情の皇帝は静かに立ち上がる。それと同時に部屋の外に控えていたであろう使用人が扉を開けて皇帝を出迎えた。
「くれぐれも、私からのお願いを忘れないでもらいたい。君も、
皇帝と使用人が出ていった後の部屋はとても静かだった。クリスは先ほどから微動だにせず、何かを考え込んでいる。
「…………」
あくまで、彼は冷静だった。聞こえてくる心臓の鼓動は普段通りの拍を打ち、思考の方も感情という靄は掛かっていない。
(これは……私のせいなのか?)
不思議と何も感じなかった。
恐らく、あのニッポン人、シズコ・オハラはもうこの世にいないのだろう。それはクリスが鎮護の森に立ち入り、不用意に彼女と接触したからだ。だが、その事についてクリスは大きく感情が揺さぶられなかった。幾らかの後悔と喪失感を感じるものの、それはやはり他人事にしか感じない。
「そういえば、子供がいたな……」
シズコの子供らしき男の子。まだ母が恋しい歳のはずだ。
ふと、あの子供とシズコの姿に自身と母を重ねる。幼き頃のクリスはふとしたことで母親が死んでしまった。直接に誰が悪いというものでは無かったが、当時のクリスは誰かを憎みたかった。
(あの子供も……理不尽に親を奪われて誰かを……私を憎んでいるのか?)
気が付くと、クリスは自分の両の手を強く握りしめていた。あまりに力を入れていたためか、血の気が失せて白くなった掌を見て、クリスはようやく理解する。
「そうか、あまりに大きな感情は……」
そう言ってクリスは扉の方を見て、次いで窓の外から見える王城へと視線を移す。
「この報いは受けてもらわねばならないな……あの子にとっても、私にとっても」
(しかし、事は慎重に運ばなければ……今の私やセリオたちには監視がついているはずだな。これはどうするべきか)
クリスが静かに、密かに皇帝への明確な叛意を抱いていたその時、遠く離れた東の地ではとある作戦が開始されようとしていた。
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