第59話 守防・1
第五十九話 守防・1
辺り一面に広がる畑には薄い緑色をした、背の短い草が生えている。秋に蒔いた小麦が冬を越し、少しずつ成長している途中だ。そして春には大きく伸び、初夏になると収穫期を迎える。
その筈だった。そう、例年、この時期には小麦の若草が一面に伸びてゆく風景が見られるはずだった。
今、ここに広がる光景はおよそ、畑とはいえないものであった。所々、大きな穴が開き、黒々とした土が掘り返されている。向こうの方には何かの残骸が小山のようにいくつか
すっかり、アルトスの街一帯は戦場となっていた。帝国軍が一気呵成に攻め込んだあの日からまともに農作業は行えなくなり、荒れた畑が元の状態に戻るまで恐らく数年は掛かるだろう。
「今年の小麦はよく育つと思っていたんだがな……」
都市国家連合に属する街の一つ、アルトスを治める議会を束ねるバルドーだった。
彼は対帝国軍への急先鋒の一人として表から、裏から様々な人脈と権力を動員してきた。連合軍が帝国製であるステッドランドの生産を行えるのも、バルドーが裏で関わっているのでは?と、まことしやかに噂されている程だ。
他にも、独自の交渉ルートからシナイトスに次ぐ技術を有するグレイブ王国の戦争参戦と理力甲冑開発の技術提携を結んだともされており、連合側の重要人物の一人である。
「バルドー殿、こんな所に居たんですか」
低く渋めの、それでいてハッキリとした声がバルドーに投げかけられる。振り向くとそこにはオバディアがいた。彼も見張り台からの光景を一瞥する。
「今日はもう
オバディアは都市国家連合軍アルトス方面軍理力甲冑教導隊隊長を務めており、理力甲冑の運用法や戦闘教義、戦術理論の構築を一手に担うエリート部隊を率いている。
その教導隊の隊長、とはいうものの殆んど名ばかりの役職で、平時には新米操縦士の訓練がその多くを占めていた。そして
「そうか……今のところは
「
オバディアは自信たっぷりに言ってみせる。しかし実際の所、彼の指揮のお陰でアルトスの街は未だ健在なのはバルドーも認めるところだった。
「全く、お前を帝国に留学させておいて正解だったよ。あの時、連合側の国はどこも大きな軍を持っていなかったからな。帝国軍で学んだ事は良い経験になったろう? もう二十年前になるかな」
「十九年前です」
「そうだったか? とにかく、あの当時は誰も帝国の脅威を信じていなかった。そのお陰でろくな軍備も出来ずに開戦だ」
「ようやく理力甲冑の数を揃えられるようになったくらいですからね。心労、お察ししますよ」
「ふん、心の内ではなんとも思っとらん癖に……」
二人はやれやれといった風に苦笑する。互いに長い付き合いなのだろう、あまり気負った様子はない。
都市国家連合軍は即席の軍隊だ。元来、都市国家それぞれには固有の軍隊を持つのは一部だけで、殆どが警備隊程度の戦力しか保有していなかった。魔物の迎撃や町の治安維持に事足りる戦力で十分だったのだ。
その理由はいくつかある。まず一つはオーバルディア帝国の軍事力が強大な事だった。当時、周囲の小国を併合して大きくなりつつあった帝国は一種の抑止力として働いたのだ。それぞれの都市国家は帝国に食料を供給し、帝国は軍事力の傘に都市国家を収めていた。つまり、両者は暗に不可侵条約を結んでいたと言ってもいい。
二つ目はその歴史である。広大な農地を持つ各都市国家はこのアムリア大陸全域の食料を支える一大穀倉地帯であり、ここを押さえる事は大陸全体を押さえる事とほぼ同義である。そのため、数百年前は戦乱が絶えなかったと言われているが、いつしか都市国家たちはそれぞれ協力しあい、他国の侵略をはね除けてきた。そうした経緯もあり、ここ百年ほどは侵略の気配など欠片ほどもなかった。
これらの事情が重なり、平時には多大な予算を食う軍隊は市民に疎まれ、しだいに軍縮の風向きが強くなるのも致し方ないのだろう。一部には最低限の防衛力を残すだとか、帝国軍に駐留してもらうだとかの代替案が挙げられたが、結局はたち消えとなってしまった。そして、帝国の真意と脅威に気付くものはごく少数に留まったのであった。
「帝国の前線基地はどうだ?」
「中規模なものが五つ、その周辺に簡単な補給が行える小規模基地が十。前線を統括するのは国境線付近にあると考えられます。あちこちにあるもんで、いくつか叩いたとしても大きな打撃にならないのは厄介なもんですよ」
「やるなら一気に掃除せねばならん……が、我が方にはその戦力が無い、と」
「その通り。ただでさえ街の防衛に人員が必要なのに、そのうえ戦力が分散すると来れば確実に攻めきれませんな。逆に帝国は基地がバラけていても、攻める
「それでも作戦は考えているんだろう?」
バルドーの含みを持った質問にオバディアは不敵な笑みで返す。
「へっ、もちろんですよ。今、帝国の前線を支えているのは二つの補給経路。すなわち、西側の帝国から直接繋がる道と、南側のケラートを経由する道」
説明を聞きながらバルドーは頭のなかに地図を思い描く。アルトスから見て、帝国は西、かつて連合に属し今は陥落したケラートは南に位置する。
「このうち、どちらか一方でも補給路を潰せたら奴等の補給効率は短期的に見て七割から六割まで落ち込むでしょうな。ただ、帝国には
「ふむ、どちらが攻めやすい? やはりケラートか?」
「単純な防衛力では、都市としての防御力があるケラートと、小さな町や村を接収して作ったであろう即席の前線基地では比べるまでもありません。ただし、詳細な規模とその陣容が不明な点、ケラート内部の構造と街並みを把握している点を考慮すると、そうですな、やはりケラートを攻める方が
バルドーは深く頷く。大きな港湾を備えるケラートは長期的な戦略から見ても重要な都市である。それに帝国に占領されたといっても、街の住人はほとんどが無事な事が確認できている。であれば、やはりケラート奪還は早期に行うべき事案という事となる。
「近々、クレメンテおよび、他の都市から戦力が集まる。うまく指揮して貰おうかの。それに、懐かしい面々も呼ぶように手配しておる」
「そりゃ、ここも賑やかになることです……作戦の方は任せて貰いましょうかね、期待分の仕事はしてみせますよ」
「……頼むぞ」
二人の眼下には連合軍のステッドランドが警戒と偵察のため、西日が眩しい方へと歩いていく。その度に、かつて小麦畑であった地面には新たな足跡が付けられてしまう。それを物悲しい表情で見つめるバルドーに、オバディアは励ます言葉を掛けられなかった。二人の長い付き合いでも、いや、長い付き合いだからこそ、バルドーの心中を理解してしまったのである。
(こりゃあ、なんとしてでも周囲の基地を潰さんとな……小麦畑が元に戻るのはいつになるか分からんが、いつまでもこのままにはしておれん)
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