第35話 脱出

第三十五話 脱出


 柔らかな日差し。土曜日の昼下がり。開け放った窓からは、ほのかな草木の香りが風で運ばれる。


 桜が散りだしてもう一週間が経った。病院の外は春の陽気に包まれ、長期入院している患者が家族と散歩している。今日は春らしい暖かい一日になるそうだ。


「母さん、検査の結果はどうだった?」


「まぁ、ボチボチね」


「なんだよ、ボチボチって」


「ボチボチはボチボチよ。それより頼んでた本、持ってきてくれた?」


「ちゃんと持ってきてるよ。はい、これ」


 そう言ってユウは鞄の中から三冊の文庫本を取り出す。少し前に何かの賞を受賞したとかで話題になっていた小説だ。母が話題作りの為にシリーズで買ってきたのだが、一ページも開かれずに放置されていたところをユウに発掘されたのだ。


ここ病院じゃあ検査の他にはテレビ見るくらいしかないからね、家で埃被ってる小説でも読んでなきゃ退屈なの」


 化粧っ気のない顔がニコリと笑う。部屋が乾燥していたのか、血色の良くない唇は少し乾いている。


「でも母さんが本読んでるところ見たことないよ。小説どころか雑誌だって読まないよね」


「今は時間がたっぷりあるのよ? 本の一冊や二冊くらい、読んでやるわよ」


 そんなこと言って、一冊の文庫本を読むのに何日掛かるのやら。ユウがツッコミをいれると母親はエヘヘと舌を出す。









 ユウの母親がこうして入院するのは二度目だった。


 二年前に職場の健康診断でガンが見つかったとき、外科的手術で病巣を取り除けば大丈夫と聞かされていた。結果、手術は成功し、それまでと変わらない生活に戻っていた。


 それからは数ヵ月に一回は検診を受けていた。なんでも、手術をした後でもガンの転移や再発があるかもしれないので、早期発見、早期治療が重要なのだという。しかし。


 手術から一年が経った頃。再びガンが見つかった。


 それからは半年ほど、化学療法というものを受けたがあまり効果がなく、代わりにガンの進行は進んだ。そして体調不良やめまいが多くなり、こうして入院することになった。


 医師からの説明は両親だけが聞いており、ユウには二人からの簡単な説明しか受けていない。今はガン治療も進んでるから死亡率も下がっている、ドラマみたいになるのは昔の話よ。母親は普段通りの優しい笑顔でそう話してくれた。


 いつもと変わらない母の姿を見てユウはそんなもんかと深刻に考えなかった。それに自分がいらぬ心配をすることで、かえって心労を与えるかもしれない。父も滅多に見舞いに来ないのは仕事が忙しいせいもあるが、さほど深刻な病状ではないからだろう。そう、思っていた。


「ねぇ、母さん。病気が治ったら何かしたいことってある?」


「何よ、急に?」


「いいじゃん、何かないの? どこか旅行に行きたいとか」


「そうねぇ…あ、それじゃあ北海道。北海道にもう一度行ってみたいな。ユウは覚えている? 昔、お父さんとユウと私の三人で行ったでしょ? ほら、フェリーに乗って」


「ええ? ……それって確か、僕がかなり小さいときの事だよね? 行った事は覚えているけど、フェリーに乗ったっけ? 飛行機じゃなくて?」


「もう、覚えていないの? ホラ、お父さんの運転で港まで行ったでしょ。車でフェリーに乗り込む時、ユウは興奮して暴れてたんだから」


「そうだったかな……? とにかく、北海道か。いいね、治ったら行こうよ。早めに計画を立てれば父さんだって仕事を休めるだろうし」


「そうね……でもあまり無理を言っちゃダメよ? お父さんの仕事は大変だけど、たくさんの責任がある、とても大事な仕事なの。簡単には休めないわ」


「たまには良いだろ? 母さんの見舞いにだって一回か二回くらいしか来たことないし」


「良いのよ、別に。お父さんは仕事を頑張ることで私達を支えてくれているんだから。それにこうして毎日ユウが来てくれるから、全然寂しくないわ」


 そう言われると少し気恥ずかしくなってしまう。しかし、不思議とそれが心地よかった。










 母親は勉強や部活を優先しろと口を酸っぱくして言っていたが、病院の面会時間を考えて剣道部は辞めた。そもそも最初の手術の前後で入院していた母親に代わり、家事を一通りこなさなければならなかったので高校に進学してからはちゃんと部活に出ていなかった。それに勉強は見舞いの合間に出来るし、自慢じゃないが成績だって悪くない。中間、期末テストと、いつも上から数えた方が早い方だ。


 部活を辞めるとき、中学からの友人がもったいないと言っていた。


「別に辞めなくもいいんじゃね? 中学の県大会で準優勝するくらい強いし、先生も事情を知ってんだろ?」


 確かに剣道は小学生の頃から続けていた。しかし、自分の実力は自分が一番よく知っている。県内では強いのかもしれないが、全国レベルには到底及ばない。それを理解しているからこそ、高校は家から近いところにしたし、部活もとりあえず籍だけ置いているだけの幽霊部員だ。


(母さんのことが無くても、剣道を続けるつもりは無かったしな)


 授業が終わり、最寄りの駅から電車で二駅。だいたい五時頃には病院に着く。病院の裏手にある面会専用の入り口から入り、守衛さんに挨拶をする。すっかり顔馴染みになった看護士と少し立ち話をし、母親のいる病室へと向かう。そして身の回りの世話や学校であった出来事を話し、面会時間終了の八時になると病院を出る。閉店間際のスーパーに寄ってからだと家に着くのは九時前で、そこから遅い夕食を作って一人で食べる。父親が帰宅するのはいつも日付が変わる頃なので、夕食はラップをかけて冷蔵庫に入れておく。そういえば最近はほとんど会話をしていない気がする。


 これがユウの毎日だった。母親が他界する、あの日まで。


 











 目が覚める。ずいぶんと寝てしまったようだ。


「……」


 どこか懐かしい夢をみた気がするが、その内容が思い出せない。妙にざわつく心を深呼吸して落ち着ける。そして今一度、自分の置かれている状況を思い出した。


(帝国軍に捕まえられたんだよな……)


 ホワイトスワンはグレイブ王国へと向かうため、南北へ走る街道を突破しようと計画した。厳重な警備の注意を他へと逸らすため、レジスタンスに協力してもらったのだが、その作戦とは街道を行き交う荷物に爆弾を紛れ込ませ、無差別に爆破するというものだった。一般市民に多くの死傷者を出すレジスタンスのやり方に怒りを覚えたユウは仲間の制止を振りきって爆破を止めようとするが、警備の理力甲冑部隊に取り囲まれてしまう。


 怒りと無力感に苛まれたユウは問答無用で襲ってくる警備部隊を圧倒的な力でねじ伏せるも、後から駆けつけたクリスとの戦闘で突如気絶してしまう。操縦席で頭を打ったせいか、この辺の記憶はまだ曖昧だ。


「あの時は……誰も死んでいないはず……だよな」


 襲い来る大量の理力甲冑部隊。いったい何機を撃破したかは分からないが、なるべく胴体部を攻撃せずに四肢と頭部を破壊することに専念した。中の操縦士は多少の怪我は負うとも死にはしないはずだ。


「それにしても、あの時の旅人が帝国の軍人だったなんて……」


 かつてアルトスで出会った旅人の正体が、まさかあの夜に戦った操縦士・クリスだったとは。今さらだが、あの旅人の声と無線越しに名乗りあった声はよく似ていた気がする。


「……そういや、クリス、さんとの戦闘中、急にアルヴァリスの調子が悪くなったっけ。なんでだろ」


 彼の部下が操縦するステッドランドから放たれた銃弾を避けきれず、機体背部にかすった直後から動きが鈍くなった気がする。いや、鈍いというよりも、あれは急に力が入らなくなったような感じだった。


 しかしながらユウは理力甲冑の構造は簡単な整備をする程度の、ごく最低限の知識しか持っていないので原因の特定は難しい。ユウの側の問題なのか、機体の問題なのか、それすらも分からない状態だ。



「先生に見てもらわなきゃ分かんないな……」


 そう言ってユウは事の重大さにようやく気付いた。ということは。


(あれ? これ、詰んでないか?)


 ここにきて体と心の疲労が幾分か取れたことで現状を正しく認識できるようになってきた。ユウは今、捕虜という立場になっているのだろう。もちろんアルヴァリスは軍に押収されているはずだ。こういう場合、捕虜がどんな目に合わされるのかは分からないが、映画やマンガではだいたい悲惨な事になっている気がする。


 それに理力エンジンを搭載しているアルヴァリスを帝国に渡すわけにはいかない。あれ? 元は帝国の試作機だったっけ? どっちにしろ、あまり良い事にはならないはずだ。


「逃げなきゃ……!」


 とりあえずこの部屋唯一の出入り口はおそらく見張りが立っている。ユウは部屋を見渡すとカーテンの閉じられた窓を見る。


「……っ」


 カーテンを開けるともう真夜中なのか、外は真っ暗だった。次第に夜の暗がりに目が慣れてくると辺りの様子が判明する。どうやらこの階は三階か四階のようで、普段アルヴァリスから見る高さと同じくらいだ。確かクリスがこの建物は兵士の詰所と言っていたので窓に鉄格子なんかは嵌められていないが、さすがにこの高さからは飛び降りれない。


「そういえば映画だとカーテンやシーツを結んでロープの代わりにしていたな……」


 しかし、この部屋のカーテンとシーツを全部足しても二階分くらいにしかならなそうだ。少し危険だけど、行けるところまでいってそこから飛び降りてみるか? シーツの端をベッドにきつく結べば何とかなるかもしれない。


 そうと決まればすぐさま行動に移る。カーテンを留め具から外し、シーツをベッドからはぎ取る。それらを堅結びにすると、なんだかそれっぽくなった気がする。外の見張りに気付かれないよう、ゆっくりベッドを窓の近くに運ぶと、即席ロープの端をきつく結んで何度か強く引っ張ってみる。


「うん、これなら大丈夫……だと思う」


 自画自賛ではないが、我ながらよく出来たと思う。とりあえずこの部屋から脱出してアルヴァリスを探さなくては。


 窓を開けると夜の冷気が流れ込み、体がブルリと震える。もう一度辺りを見ると、こちら側は町の外側を向いているらしく、民家などの明かりは見えない。これならバレずに下まで降りられるだろう。


 よし、と気合を入れて即席ロープを手にする。


「ユウさん、何をしているんですか?」


「うわあぁぁ!」


 突然話しかけられてユウは心臓が止まるかと思ってしまった。慌てて後ろを振り返るとそこにはいつもの無精ひげを蓄えたレオが立っていた。


「レ、レオさん! なんでここに?!」


 素早い動きで見張りの男を担いで部屋の扉を閉める。どうやら見張りは気絶しているようだ。


「助けに来ました……それと静かに。大きな声を出すと人が来ます」


 助けに来た? こんな所まで? 自分で言うのもなんだけど、正気かこの人。


「捕まった僕が言えることじゃないですけど、危ないですよ!」


「都市の監獄や軍事基地だと、私一人ではどうにもなりません。ですがこの小さな宿場町にはそんな厳重な警戒網はありませんし、牢屋も一時的な拘束が目的の簡単な作りです。それにユウさんは帝国にとってそこそこ重要な人物のようですからね、下手な事はしないと踏んでいました」


 やけに冷静な解説をしてくれたレオはユウが手にしているものロープと開いた窓を見て、なるほどと納得した顔をする。


「シーツなどをロープ代わりにするのは悪くないですが、その結び方だと人間の体重に耐えられません。それに長さが足りないですね。途中で落ちてケガをしてしまいます。また今度、教えてあげますよ」


 教えてくれるのはロープの結び方なのか、それとも今みたいな敵地からの脱出方法なのだろうか。後者の技術を使うような事態はこれっきりにしておきたいのだけれど。いや、そんなことより。


「レオさん。僕はあなたに……レジスタンスに言っておきたいことがあります」


 険しい表情をレオに向けると、彼は真っすぐにユウを見つめ返す。


「レジスタンスの行った作戦、僕はあんな事を許せません。なんの関係のない人たちを無差別に巻き込むなんて、いくら帝国から独立するからって容認される事じゃないです」


「……あの爆発は私もいささかやり過ぎとは感じました。しかし……」


 レオは言葉を選ぶかのように一呼吸、間を開ける。


「しかし……我々も綺麗事だけで独立出来るならこんな事をしません。帝国は今やこの大陸でも他に並び立つ国がないくらいに強大となりました。そんな大きな敵と我々、レジスタンスが対等に話し合い出来るはずもありません」


「それでも!」


「それに政治的、産業的に弱いんです、クェルボ祖国は。もともと、北の港町サぺロスを手に入れるついでに併合された弱小国なんですよ」


 ついで。その言葉にはレオの胸の内に秘めた感情が籠っているような気がした。特に用はないが、そこにいられると邪魔だ。そんな理由で国が無くなる。


「それでも老人たちは他の併合された国や地域のように市民の暮らしが良くなれば、と言います。でも現実はそうならなかった。長年続く戦争で若い労働力は奪われ、産業もすっかり衰退してしまいました。知っていましたか? クェルボは軍馬や農用馬が特産。今では帝国と懇意だった他の地域に取って代わられ、もはや見る影もありません」


 極力、感情を押し殺しているように見えるが、その表情と言葉からは無念が見え隠れする。


「だからと言って……無関係な人を傷つけていい理由には……なりません」


「無関係? 程度に差はあれど、あの場にいた人間は皆、関係者ですよ。帝国に属する市民としてね。……軍人や国家中枢の人間ではない、一般市民が傷つく事は元より覚悟しています」


「そんな覚悟、ただの言い訳です!」


「ええ、そうかもしれません。ですが、言葉だけで世界は変わりません。もちろん、力だけでも世界は動きません。レジスタンスは最終的にその二つを持ってクェルボの独立を果たします」


 その表情は確固たる信念というやつなのだろう。真っすぐな瞳と揺るぎない声色。もうそれ以上、ユウは何も言えなかった。言える立場ではないと思ってしまった。


「……すみません、これはユウさんには関係の無い話でしたね。あの作戦については私からも上に伝えておきます。私としても、無用な流血は避けたいのが本音です……それでも覚えていてください。確かに理想は大事ですが、現実に出来る事は自分が持つ力の範囲だけです。それでは、早くここから逃げましょう」


 まだいろいろと納得は出来ないが、ずっとここで問答を繰り広げる訳にもいかない。レオに促されて拘束されていた部屋から出ると長い廊下にはいくつもの扉が並んでいるが、人の気配はない。真夜中でみんな寝ているのだろうか。


 こっちに着いてこいとばかりに目で合図され、なるべく足音を立てないように移動を始める。レオは工作員としてこのような隠密に長けているのか、周囲を警戒しながらでも素早く移動している。ユウはといえば、着いていくだけで精一杯だ。


「こっちです」


 一階まで誰にも遭遇することなくたどり着き、そのまま建物の玄関を目指すのかと思ったら違うようだ。


「正面入り口には哨戒や理力甲冑の操縦士が詰めている待機所があります。そこを堂々と出ていくことは出来ません。それにアレが回収できませんし」


 裏手から出ると建物の影から影へ移動していくと、大きな建物が目の前に現れた。いや、これは倉庫……でもないのか?


「もしかして、理力甲冑の整備場?」


「そうです。ここにアルヴァリスが運ばれていました。先生からちゃんと両方しろとの事だったので」


 言い方がどこか引っかかるが、レオは資材搬入口の脇にある人間用の扉を静かに開けていくので慌てて一緒に入る。中は広く、明り取りの高い窓から僅かな月明りが差し込んでいる。帝国軍のカラーリングに塗装されたステッドランドが……一機しかない。どう見てももっと、それこそ十機や二十機は一度に収容出来そうな広さと設備があるのだが。


「ああ、僕が撃破したからか」


 そういえばあの現場から一番近い宿場町らしいので、あの理力甲冑部隊はここから出撃していたのかもしれない。と、奥の床に何か大きい物体にシートが被せられている。おそらくあれがアルヴァリスだろう。


「今、ここには理力甲冑が町の警備に当たっている一機しかいません。どうも警備隊の理力甲冑はここにある整備中のもの以外はユウさんが撃破したみたいなんですが、別の部隊が臨時で警備に当たっているそうです。なので簡単に振り切れるでしょう」


 おそらく、別動隊とはクリスの部隊の事だろう。クリスに見つかりさえしなければこの町から逃げるのはそう難しくはなさそうだ。


「いや、ここから逃げたあとはどうするんです? スワンとの合流は?」


 そうだ、よく考えなくてもスワンと合流できなければ意味がない。


「安心してください。ホワイトスワンは街道を抜けた先、森の中で待機しています。理力甲冑の足ならば一日もかからないはずですが、早めの方がいいでしょう。いつ、見つかるとも分かりませんし。私が周囲の警戒をしているうちに早く搭乗してください」


 レオが格納庫を音もなく出ていくのでユウはモゾモゾとシートの下を潜りながら進む。手さぐりでどうにか操縦席の近くまでいくとハッチが開いていた。ユウが中から引きずり出されたままなのだろうか。


 すっかり馴染んだシートに体を預けると少し安心できる気がした。何日も乗っていなかったような感覚だが、頭を軽く振りアルヴァリスを起動させる。


「……?」


 何か妙だ。いつも聞こえてくる理力エンジンの音がしない。それに機体からの手ごたえフィードバックが違う。こう、鈍いような、反応が悪いような……。


 機体の不調がまだ続いているのかもしれない。しかしそんな悠長なことは言っていられない。覆われていたシートを翻しながら白い巨人を起こし、立たせる。


「やっぱりおかしいな……」


 いつもよりワンテンポ遅れて機体が動く感じがする。まるでバイクのエンジンが一気筒、ような感覚だなと思う。回ることは回るけど、パワーは無いし吹き上がりが悪くなる。


 起動したのはいいが、この後どうすればいいのだろう? レオは戻ってこない。


「仕方ないな……敵の理力甲冑は一機って言っていたし、どうせ格納庫を出たら逃げたことがばれちゃうんだ。


 そういうが早いか、アルヴァリスは軽い助走をつけると格納庫の正面扉に飛び蹴りをかましたのだ。理力甲冑が出入りできるほど大きなスライド式の扉は重く頑丈だが、流石に理力甲冑の飛び蹴りを想定した作りにはなっていない。中央部分からぐにゃりと折れ曲がった扉は近所迷惑というには大きすぎる音を立てながら通りに転がった。すると、近くの民家や宿の窓に明かりが次第に灯りだした。


 格納庫を出ると、いつの間にか馬の背にまたがっているレオがこっちだという手振りで駆けていく。ユウはそれに従い、小さな町の狭い通りを土煙を上げながら走り出す。











「隊長! 例の白い奴アルヴァリスが!」


 勢いよく開かれた扉からは彼の部下が血相を変えて飛び込んできた。それをクリスは冷めた表情で見つめる。


「おい、真夜中だぞ。もう少し静かにしたらどうだ」


「そんな事言ってる場合じゃないですよ! あの小僧が逃げ出して!」


「さっきの音だろう? 気付いているよ。とりあえず


 部下はポカンとしてしまう。今、隊長は奴を追えではなく、放っておけと言ったのか?


「ど、どうしてです?! 今ならまだ!」


「間に合うとでも? 今、この宿場町には理力甲冑が何機いる? 我々の部隊の機体は臨時の警戒任務に当たっているから手元には無いぞ?」


 そりゃそうですが、となおも食い下がる部下にクリスは諭すようにしゃべる。


「お前もあの白い機体の強さを知っているだろう。ステッドランドが一機や二機では返り討ちに合うだけだ。これ以上、無用な被害を出すくらいならこのまま逃げさせればいいさ」


 隊長クリスに追撃する気がない事を知り、意気消沈の部下はトボトボと部屋を後にする。アルヴァリスが扉を蹴飛ばした轟音ですっかり目が覚めてしまったクリスは、ベッドサイドに置かれている水差しからコップに水を注ぎ一気に飲み干す。


「ようやく逃げ出したか、ユウ。理力甲冑に乗って逃げるという事はまだがお前にはあるのだろう? やはりそうでなくてはな……」


 くっくっと笑いだすクリス。その表情はどこかくらく、卑屈な笑みをしている。


「今回も私の負けだったが、次こそは私が勝つぞ、ユウ。そのために早く仲間の元へと逃げろ、戦う為に心を鍛えろ! 万全な状態のお前でなければ私の勝利に意味がないのだからな!」


 そう、今のクリスにとって戦争の行き先や帝国への忠誠などはどうでもよかった。彼の心の内はユウを倒すこと、アルヴァリスをこの手で破壊することで殆どを占められていたのだから。その為にはどんなことでもするという覚悟を決めた彼はユウの青臭い悩みを聞いてやり、体と心を休ませるように促したのだ。


 強敵であるユウが弱っていては話にならない。そんなアルヴァリスを倒してもクリスの欲求は満たされないだろう。本気を出したユウとアルヴァリスは連合でもトップクラス、いや、ことによると帝国の誰よりも強いかもしれない。そう、皇帝を守護するあのにすら勝ってしまうかもしれない程の逸材だ。


 つまり、万全のユウアルヴァリスを倒すことはそれだけ自分の実力を世間に、軍上層部に、帝国皇帝に知らしめる機会となり得る。それこそが出自のせいでこれまで能力がありながらも冷遇されてきた彼の、クリスの目指すところただ一つ。


「しかし、その前には私も鍛錬不足だな。もう一度基礎からやり直すとしよう。……それを差し引いてもステッドランドでは歯が立たんな。今度、技術部に相談でもしてみるか……」


 彼の心は童心に返ったかのように弾んでいる。いや、これは一種のトキメキかもしれないな、と一方で冷静な部分が分析する。半ば諦観していた自分の人生に彗星のごとく現れた白い理力甲冑とその操縦士。まさに千載一遇とはこの事かと思った。奴を倒すことが出来れば分不相応な地位に居座っている無能どもを引きずり下ろし、代わりに自分が適切な処遇を与えてやれる。


 それこそが正しいありのままの自分、正しいありのままの世界。


 クリスの目は爛々と暗い炎に照らされているように見えるが、しかして一方で高潔な意思の光にも見えた。それが只の傲慢な権力欲の末なのか、それとも高貴なる者の務めなのか。それは彼自身にも分からない。










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