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 海沿いの道路を歩く由佳の目の前に、きらきらと光る海岸が広がっていた。気持ちの良い潮風が、不快な蒸し暑さを少しだけ和らげる。

 由佳はついさっきまで、昼休みの学校にいたはずだ。自分がどうやってここに来たかも覚えていないし、今が何時かもわからない。

 だが、由佳にとってそれは毎日のように起きている現象だったし、今はそんなことはどうでもよかった。

 海岸には誰もいない。遠くの方に、犬を散歩させる老人の姿が小さく見えるだけだ。

 砂浜に繋がる階段の真ん中辺りで、由佳は腰を下ろした。

 そういえば学校の外に出たのも久々だった。ついさっきまでの記憶が飛んだということは、思春期症候群が治ったわけではないのだろうが……。



 さっき聞こえてしまった会話を脳内で反芻しながら座っていると、不意に由佳の頭上から大きな影が覆いかぶさってきた。

「うわっ」

 驚いて後ろを振り返って見上げると、三段上に真希が立っていた。

 軽やかに階段を降りてきた真希は、何も言わずに由佳の隣に座る。

「…………」

 そのまましばらく、二人とも何も喋らずに、ただ海の方を見つめていた。

 やがて、由佳が口を開いた。

「真希ちゃんは」

「何?」

「学校の、その……部活やってる人とかから、悪口言われたり、馬鹿にされたりって、平気なの?」

「もちろん。全然平気じゃないよ」

 真希はあっけらかんと答えた。

「平気じゃないし、物凄く気にしてる。

 学校以外のところで見返したい、別のことで上に立ちたいって思うけど、本当に平気だったら、そんなこと考えもしないよ、きっと」

 背後の道路を通る自動車の、車の外にまで聞こえるほどの大音量で最近流行りのラッパーの曲を流しながら走る音で、会話が一瞬遮られた。

「由佳はどうなの?」

「私は……何も思われたくない」

 由佳の口から咄嗟にそんな言葉が出たのは、真希が来るまでの間、ずっと考えていたことだからだ。

「誰からも何も思われなくて、誰にも嫌われないようにして、それで一日が終われば、それだけでいいって思ってた……」

 何かを起こしてしまうと、自分が注目されて、嫌な目を向けられてしまうから。

「でも、自分が何かしようと思っていなかったとしても、何もしない私のことを嫌いになる人がいて……、だから、私が間違ってたんだと思って」

「それは違うよ、由佳」

 真希は海の方を見つめたまま、由佳の言葉を強い口調で遮った。

「今、由佳のことを嫌いな人たちは、由佳が何もしないようにしてたから嫌いになったわけじゃない。

 由佳のことが嫌いだから、何をしてもしなくても嫌いなんだよ」

「え……それ、どういうこと?」

 フォローのような言い方で、もっと酷い言葉を重ねられたような気もする。

「別に由佳が悪いって話じゃなくて。人の気持ちって、明確なひとつの原因があるものとは限らなくて、もっといろんな要素の組み合わせ、理由にすらなってない気まぐれで決まったりするから。

 だから、由佳が好かれようとしてもしなくても、由佳のことを好きな人は好きだし、嫌いな人は嫌いだってこと」

「……じゃあ、やっぱり私の、今までやってきたのは、無駄だった、間違ってたってこと?」

「だから、そうじゃなくて、他人に嫌われないようにするとか、意味ないんだよ。

 だって、例えば、ほら!」

 真希はおもむろに由佳の手を握ると、その手を引っ張って立ち上がり、海に向かって勢いよく走り出した。

「え、ちょっ……」

 突然強く引っ張られた由佳は転ばないようにするのが精一杯だった。前を走る真希が砂を蹴り上げるので、由佳の靴にどんどん砂が入っていく。

 海に入るまであと数メートルといったところで、真希は走るのを止めて、由佳の方を振り向いた。

「こういうことされるの、嫌いでしょ? 由佳」

「……うん」

 それはその通りだ。

「じゃあ、私のこと嫌いになった?」

「え、そんなこと……ない」

「でしょ? それと一緒だよ。

 同じことをされても好きになる人と嫌いになる人がいるのに、由佳がこれをすれば誰からも嫌われないとか、そんなの無理だって」

「確かに……」

 そう言われてみると、由佳には自分の今まで悩んでいたこと、考えていたことが、急に馬鹿馬鹿しく思えてきた。

 下らない些細なことではなく、無理難題だったからだ。

「だから、他人に嫌われないようにとか、しなくていいよ。……私は、何もなくても、由佳のこと好きだし」

「……ありがとう」

 少しずつ赤みがかっていく空を、二人は手を繋いだまま眺めていた。

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砂時計少女は愛されバタフライの夢を見ない chiffon @chiffon0903

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