第6話

「はぁ……はぁ……はぁ……。」


 二人は息を切らしながら部屋を駆けていた。熱風に巻かれながら、額に玉のような汗をかいて、それでも足は止めない。


 止めたら最後、炎が自分たちを焼き尽くす。


 そう大した距離を走ってはいない。だが脅威はすぐそこまで迫っている。


 あと50メートル。その先には頑丈な鉄扉の部屋がある。そこに入れば巻き込まれる心配はない。風の幽霊ゴーストも入ってはこれないだろう。


「あっ!!……。」


 だが悪夢が襲った。足がもつれたエルーナが転んで倒れ込んでしまう。そこに吹き付ける熱風、すぐそこまで旋風の幽霊が迫っている。


「エルーナ!!」


 目の前に迫った旋風に体がすくみ、エルーナは動けない。ブレッドは咄嗟にエルーナの腕を引き上げ、その体を受け止めると真後ろへ突き飛ばす。


 旋風の幽霊が、ブレッドの体を包み込んだ。


「う”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”っ”!!」


 獣のうめき声のような悲鳴が、旋風の幽霊が口や耳から入り込み痙攣するブレッドの体から上がった。


 やがて風が病み、その場へ投げ出されたブレッドの体はぐったりと動かない。


「あ……ああっ……。」


 エルーナは恐怖のあまり言葉を失った。自分のせいで親友のブレッドが幽霊に乗り移られてしまったこと、そのブレッドが乗っ取られていく姿が、もし自分だったらと想像し、今ブレッドの受けている苦しみが自分だったらと思ってしまったが故に、恐怖が臨界点を越えてしまった。


 そしてその姿は、追いついた変わり果てた姿の燈の目に留まった。


 旋風の幽霊の姿はなく、時々跳ね上がるブレッドの痙攣した体を目の当たりにした燈の、髪が短く、瞳の色が少しだけ黒く戻っていく。


「ブレッ……ドッ!!」


 燈は、自分の中の幽霊と意識の狭間で戦っている。ブレッドの姿を見た燈のショックが、紅蓮の幽霊の怨念を少しだけ上回ったのだ。


 燈はブレッドを抱きかかえ、ぐったりとした力の抜けた身体を見つめる。


 その時、ブレッドの瞼が開き、黒い瞳が燈の赤い瞳に重なった。


「ブレッド……。」


 意識を取り戻したように見えたブレッド。だがその瞬間、ブレッドの瞳がぐりんと上を向く。


「はいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれた。」


 同じ言葉を繰り返し唱えたブレッドは、自分を抱きかかえていた燈を突き飛ばし、ゆらゆらと立ち上がると身体を宙に浮かせ、風を巻き上げた。


 巻き上げられた風は、燈やエルーナの体を切り裂いていく。


「きゃあっ!!」


 ドレスを切り裂かれたエルーナが悲鳴を上げる。


「こ……ろす……おまえ……ゆる……さない……。」


 震える声で、ブレッドの体が虚ろな目をエルーナに向けた。


「いや……いやぁ……。」


 ブレッドはもう、幽霊に乗っ取られてしまっている。腰が抜けて立てなくなった足を

引きずりながら、エルーナの思考を「死」の一文字が侵食していく。


「える……える……なぁ……。」


 だが、ブレッドの手は震えたまま動かない。風がなびけば首が飛んでしまいそうだが、ブレッドが寸前で堪えているのだ。


「に……げろ……逃げろぉぉぉぉォォォォォォッ!!」


 その悲痛な叫びが、燈の脳天を揺らした。巻き上がる炎と共に真紅の長髪がたなびき、瞳が真っ赤に燃え上がる。


 吹き荒れる風、その鋭い感触がエルーナの喉元に向かって放たれる。


 ぴりり、と肌が焼けつく感覚。直後に燃え盛る炎がエルーナの全身を包み込み、その首を狙った凶刃を焼き尽くす。


「あつぅ!?……くない?一体何が……。」


 それはまるで絹衣のようにエルーナを包み込み、襲い来る風の刃からその身を守っていた。


「ギ……ギギィ……。」


 ガタガタと滑りの悪いロボットのような動きで、ブレッドの体を乗っ取った旋風の幽霊が、わずらわしい炎の根源を睨みつける。


 それは、存在リアルに妬ましさを持った者同士の、憎しみのぶつかり合い。


 だが紅蓮の幽霊は、少年の精神の中で葛藤を繰り広げていた。


「オマエ……カゾク……タスケタイ?……。」


 紅蓮の幽霊が、ふと独り言を呟いた。相対する二体の間に、油断は許されない。だが旋風の幽霊の連撃を、紅蓮の幽霊はことごとく焼き尽くす。力量の間に生まれた僅かな余裕が、燈と紅蓮の幽霊の間で心を交わす時間が生まれていた。


 紅蓮の幽霊は、大火事に遭い家族を失った。恨まれ家に火をつけられ、自分を含めた家族全員を焼き殺されたのだ。彼女は仇を焼き殺すために幽霊となって彷徨っていた。


 もしブレッドが旋風の幽霊に殺されしまえば、燈は自分と同じ思いをしてしまう。


「……イイヨ。イマハ……タスケテヤル。」


 燈の目に、漆黒が戻った。


 掌に顕現したのは一振りの刀。全身を炎で覆われた、鋭い切っ先を持つその一振りが、燈の両手にしっかりと握られる。


「ヴヴヴヴヴヴヴヴァ”ァ”ァ”ァ”ァ”ァ”ァ”ァ”ァ”ッ!!」


 恐怖を悟った旋風の幽霊の咆哮が響いた。恐怖を悟った彼は、あらゆる場所から風の刃を作り出し、それを燈に向かって飛ばしていく。だがその全ては焼き尽くされ、燈の体には届かない。


 燈の踏み込みが、二人の間合いを一気に詰めていく。上段に振りかぶられた炎刀が、唸りを上げるかのように熱を噴き上げる。


「キイヤアアアアアアアアッッ!!」


 ブレッドの体が真後ろに飛ぶ寸前、灼熱が振り下ろされた。真っ二つに切り裂かれた体の背から、意識を切り離された旋風の幽霊が、溜まらず逃げ出そうと這い出てくる。


【ヴァァァァァァァァッッ!!】


 その実の無い体を、直後に燈の意識から離れた、紅蓮の幽霊の炎の腕が捕えた。身体を纏う風は焼き尽くされ、炎の渦を巻き上げながら溶けていく。


【ギイヤアアアアアアアアッッッ!!】


 断末魔を上げ、旋風の幽霊の忌まわしい体は、家族の仇を討たんとする憎悪の炎に焼き付くされ、消えていった。

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