SNAPSHOT

 夕焼けが作るオレンジ色のトンネルに、黒い影が長く伸びて横たわる。

 運動部が校舎の周囲をランニングする掛け声が聞こえる。吹奏楽部がパートごとに練習する雑然とした音が聞こえる。ドアを開け閉めする音が時々聞こえるのは、ひとつ下の階にある職員室の出入りだろう。

 帰宅部の僕がこんな時間まで学校に残っている必要はない。もし先生がこのフロアにやってきたら、僕は叱られることになる。それでも、僕は居残った。ここ数日、いつもそうしている。必要はなくても、そうしたくなる理由ならあった。

 廊下にずらりと並べられたパネル。そこにびっしりと貼られた無数の写真。

 二週間前に一泊二日で行われた林間学校。そのときに撮られた写真たちだ。四桁の番号が振られ、僕たちはその番号を用いて好きな写真を買うことができる。僕もそのための封筒を手にしている。封筒にはすでに注文が記されているのだが、いま、そこにもうひとつ書き加えようか否か、悩んでいるところだ。

 注文の締め切りはあしたの朝礼。つまり、きょう学校にいるうちに注文する番号をすべて確認して、家に帰ったら親からお金とサインをもらい、提出することになる。だからこの時間は、最後のシンキングタイム。悩むことのできるラストチャンスだ。

 いまここで決めなくてはならない。

 倉橋くらはしが写されたワンショット。これを買うか、買わないか。



「あのカメラマンさんって、お父さん?」

 班ごとに並んで飯盒炊爨の説明を受けているとき、僕のふたり前にいた倉橋が隣の列の女子と言葉を交わしているのを耳にした。

「そうだよ」倉橋は少し照れ臭そうにうなずいた。「わたしのパパ」

「やっぱり? 同じ苗字だったから」隣の列の女子は、普段から倉橋と仲が良いクラスメイトだった。「家が写真館なんでしょ?」

 中学生になってから、倉橋の家が話題になると、ちょっとだけ気分が良かった。

 僕や倉橋の通っていた小学校には、進学する中学校の学区がふたつあって、僕たちはその少数派に属していた。だから、クラスメイトたちよりも倉橋のことをよく知っているように感じられたのだ。

 彼女の家の写真館を、親同士仲が良かった縁で時々利用していた。最近では入学祝いに写真を撮った。毎年の結婚記念日にも必ず撮ってもらう。記憶のないような幼いころ、生まれたてのときや七五三のときに撮ってもらった写真も家に飾られている。だから、僕と倉橋の出会いは小学校五年生のころだったにもかかわらず、出会った瞬間から、他人ではないような気持ちを抱いていた。

 倉橋たちのひそひそ話は続く。

「写真館やってるからって、学校の行事についてくるわけじゃないんだけどね」倉橋は照れ笑いしている。「普通学校はそういう業者に頼むらしいんだけど、パパは毎年自分がやりますって立候補するの。私が小学生のときもそうだったし、中学生になってもやるみたい」

 うざくない? と同級生は顔をしかめて問う。そう? と倉橋は訊き返す。

 倉橋は自分の父親をうざいなんて思わないだろう。そして、周囲の空気を読んでそのふりをすることもないだろう。僕は倉橋がそういう女の子だと知っている。我ながら、だてに彼女ばかりを見ていない。

「あ、ハチだ!」

 そのとき、クラスの誰かが声を上げた。何人かの女子が悲鳴をあげ、男子は手を振って遠ざけようとする。仰け反る隙間を縫うようにして小さなミツバチが飛び去って行く。僕も腰を引いてかわした。

 すると、ハチを視線で追っていた倉橋を目が合う。

 見間違いでないなら、小さく微笑んでくれたはずだ。


 倉橋のお父さんがあっちへこっちへと動き回ってカメラを構えている姿が時々目に留まった。飯盒炊爨は一日目のクライマックスといえる。写真の撮り時だ。ひょっとすると、火を起こそうとする中学生たちよりも、おじさんのほうが額に汗を流していたかもしれない。

 おじさんも僕のことを知っているから、僕を写すときは少しだけ楽しそうに見えた。倉橋とも一緒に撮ってもらった。僕は変な顔をしていた。一緒に料理をしているだけでもくすぐったかったのに、それを写真に収められるとなると、普通の表情でいられなかった。

 完成したカレーの味は美味しかった。そこそこ。

 ただちょっと、僕の切った野菜が大きすぎたのと、倉橋が水を計って炊いた米が固すぎた。「ちゃんと説明を聞いておけばよかったね」と彼女は笑い、ほかの班のメンバーたちは文句を垂れながらも笑っていた。笑っているということは食事が進んでいないということで、僕だけが黙々と、ルウがなくなってからもご飯を平らげていた。残したらもったいないじゃないか。

 僕たちの班は作業が早く、食べ終わってからも時間がたくさん余っていた。

「なんか、こういうときさ」

 テーブルには僕と倉橋のふたりきりになっていた。班のほかの連中は、別の班にちょっかいをかけに行ったり、ボールを持って遊びに行ったりしてしまって、席を離れている。

 周囲がうるさくて彼女の存在を忘れかけていたところだったが、彼女の声は控えめでもよく聞こえてくる。

「少し寂しい? ていうか、ヒマになるよね」

 同じ小学校の出身は、クラス三十五人のうち僕と倉橋を含めてもわずか四人。しかも、高学年のときにクラスメイトだったのも僕と倉橋のみ。そのせいで、時間が余ったときに一緒に遊ぶ決まった相手がまだいなかった。

 気の利いた返事はできず、そうだな、とだけ。

「でもさ」倉橋は少しばかり、無理に声色を明るくしたようだった。「きっと夜が本番なんだよね。枕投げしたり、その、恋バナしたりして」

 そういうとき、彼女は誰の話をするのか?

 いま彼女が僕にその示唆をするのは、僕がもとクラスメイトとして話しやすく、どうでもいい存在だからだろう。気になる存在になりえない存在。つまり、僕のことが話題にされることはないのだ。だから自分から話しておいて、目を逸らしている。

 僕の話をされても困ってしまうのだけれど、ほかの人が話題になるとしたら、嫌だ。

 僕がまた返事に迷っていることに気づいて、倉橋は立ち上がった。

「片付けちゃおうか」

 そう言って食器やごみを集めはじめる。僕はほっとした。ふたりきりの会話が終わってしまったことは惜しくても、片付けの作業を通して自然に言葉を交わすことができるなら、そのほうが気楽で嬉しかったから。

 遊びに行ったクラスメイトたちに戻ってきてほしいとは思わなかった。スポンジ取って、とか、これ拭いて、とか、そんな些細なやり取りに充実を感じられる。そんな相手を、誰もが持っているわけではないはずだ。

「今夜のキャンプファイアで歌う曲、知ってる?」

 ごみをまとめて袋を縛っているときだった。僕がそれをしていて、手の空いた倉橋が再び話題を振ってきた。

「知らない……」

 タイトルからして最近評判になっているボーカルグループのポップスだ。さしずめ、人気の高かったドラマの主題歌か何かだろう。そういった曲が二、三用意されていて、キャンプファイアの炎を囲って歌うことになっている。僕はいずれも歌詞はおろか歌っているグループのことも知らなかった。

 手を止めて、倉橋を見上げた。

「じゃあさ」

 彼女はやや躊躇うようにしながら、言葉を続けた。

「そのとき、隣にいてもいい? ほら、わかんない同士、少しは安心するかなって」

「うん、ああ、いいけど」

 断る理由がない、と反射的に判断していたらしい。頭の中がぼやっとしたまま、僕は頼みに応えていた。

「オッケー、そうしようね」

 これ持っていくね、と倉橋は鍋や飯盒を一気に抱えた。重いから僕が持っていくよ、と提案しても、彼女はごみを任せると言って去ってしまった。仕方なく、僕はひとりでごみを捨てに行くあいだ、いまの出来事をもやもやとした頭の中で整理する。

 気持ちの悪い頭のもやもやは、次いでやってきた胸のざわつきに押し流されていった。



 彼女を写したワンショットは、ちょうどそのときのものだろう。

 ジャージ姿の彼女は鍋と飯盒を抱えてひとり歩いているところだった。準備のときは別の男子が道具を運んだので、この写真が準備のときのものということはない。

 表情には満面の笑みが浮かんでいる。正直な気持ち、僕はこの笑顔が好きだ。この笑顔のために、この写真を手にしたいと思った。

 何のためにこれほど素晴らしい表情を浮かべているのか、僕にはよくわからない。彼女のほかに人影はなく、誰かと言葉を交わしながら歩いていたのではない。向かう先に誰かが待っていたとも考えにくい。あの時間、片づけをしていたのは僕たちだけだったから。思い出し笑い? いやいや、この輝くような笑顔がその程度のものとは思えない。

 彼女の喜びの理由を、僕は知る由もない。

 しかし、少しばかり僕の胸は躍っている。



 地元や学校を離れて寝泊まりする行事の特別感は嫌いではない。でも、特段親しいわけでもない同級生のために狭苦しくて忙しない宿舎は好きではない。

 しおりと時計を見比べては焦って右往左往する時間は、ともに過ごす友達がいない場合には、学校生活の中での自分の不安定な足場を確認するだけのものである。行きかう同級生の中にふわふわと浮かべられ、溺れないよう不用意に波に逆らわないようにしながら、それでいて、大きなものにぶつかって沈んでしまわないよう気を付けながら、力を抜いて流されていくことになる。急流だと不安になるし、反対にゆっくりすぎると苛立つこともあるけれど、とりあえずは流されておくのだ。

 自分からは何もできない流れの中で、時折すがるワラというものを見つける。

「ハンバーグだね」

 倉橋だ。夕食を受け取る列で偶然隣り合った。

「うん」

 ここでも気の利いた返事はできず、列の先を見るふりをして目を逸らした。

「やった、ミニトマトもある」

 彼女は僕の見る先にあった好物を発見して喜んだ。

 彼女はトマトが好きだと知らなかった。僕は、ちょっと苦手だ。

 好きなんだ、と返して話題にしてみようかとまた彼女のほうに目を向けると、さらにその向こう、入り口のところに立つ彼女の父親が目に入った。彼は食堂に集まってくる生徒数人を並べて、シャッターを切っている。

 僕の記憶が定かなら、いまピースサインをつくっている女子生徒たちは、倉橋と同室だったはずだ。

 僕は直前に倉橋が発した言葉を忘れてしまった。

 すがるワラに本当にすがってはいけない。重さに耐えられるはずもなく、一緒に沈んでいってしまうから。

「あのさ……」

 すべての皿を受け取り終えようというとき、再度倉橋が僕に声をかけてきた。

「何?」

「いや、何でもない」

 直感して、僕は言葉を返した。

「昼間のあれって、約束だよね?」



 僕の返事を聞いた倉橋がどんな顔をしたか、もはや憶えていない。嬉しく思ってくれたのだろうか、それとも鬱陶しく感じたのだろうか。確かに記憶していることは、ふたつだけ。ようやく気の利いたことを言えたと思って満たされた気持ちになっていたことと、脳裏に電流が走るかのように彼女に対して直感していたこと。

 彼女も彼女で流されているのかもしれない、と。

 夜にはその直感を忘れてしまっていた。林間学校から帰ったいまでこそ思い出すことができても、その当時は、脳裏に留めておくには頼りなかった。自分自身が無事に流されていくことに夢中だったから。

 結局、夜は彼女と並んで歌うことは叶わなかった。僕を含む同室の六人がキャンプファイアの集合時刻に間に合わなかったから。たぶん、僕だけでも遅刻せず行動することはできたのだろうけれど、そのようにしたら僕は先生に怒られていただろう。先生は六人に小言を言っただけで許してくれた。だから、僕の判断は間違っていなかったに違いない。

 想定外はそのすぐあとに待っていた。

 列に入るよう指示されたその瞬間に、僕は倉橋を発見することができなかった。この一瞬のうちに発見できなかったのなら、隣に並んで立つ資格がなかったのと同じだ。すぐには見つけられなかった目的の場所に、自然な仕草で加わる方法がどこにあるだろう?

 仕方なく、僕はすぐそばの列の間隔を埋めた。近くに倉橋はいなかった。

 それ以降、倉橋と言葉を交わすことはなかった。幾度か視線がぶつかることもあったけれど、気まずくてかける言葉が見つからず、それは彼女のほうも同じようだった。

 廊下に並べられた写真。キャンプファイアの様子を写す写真の中に、炎のオレンジ色に照らされる僕が映っている。小さく口を開けて、歌っているふりをしてやりすごそうとしている様子が写真のおかげでバレバレだ。このときの僕は、倉橋に対して特に罪悪感を抱いていなかったのだろう。仕方がなかったと諦め、そして、並んで歌うシチュエーションなどそもそも巡ってくるはずがなかったのだと自分に言い聞かせて。

 倉橋のほうはというと、写真はあまり残されていなかった。夜に屋外で友達と一緒に撮った写真や、そのようなところに彼女が写りこんだ写真があるから、キャンプファイアに参加していたことは間違いない。代わりに、歌っているときのものがなかった。

 たまたまそうなっただけと、僕は信じている。

 ただし、写真を撮る、撮らないを彼女の父親が決めていたことも確かだ。



 心が決まった。

 僕は彼女のワンショット写真を購入しない。

 もちろん、その笑顔はいつまでも眺めていたいほど魅力的で大好きだ。

 でも、僕は実際にその笑顔を見たわけではない。僕がそれを目にできたのは、彼女の父親が写真として切り取ってくれたからだ。そう思えば合点がいく。ここまで自然で素敵な笑顔は、父親に向けられていたからこそに違いない。両親が大好きな倉橋のことだ、家族に向けられる笑顔を上回る表情などあろうものか。

 だから、この写真を僕のものにすることはできない。

 それができるとしたら、僕のおかげで彼女が笑った場合にしかありえないだろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る