写真狂時代
FILTER
初めて、レンタカーを借りて旅行した。
偶然にも二〇歳になってから最初の運転だった。大学二年の夏休み、仲の良い大学の同級生四人で、女子旅と洒落こんだ二泊三日の旅行。アルバイトで稼いだお金を奮発して、いつか綺麗なところに行きたいね、という以前からの希望が叶えられた。
旅行初日の目的地は、人家も見当たらないような奥地にある滝だ。SNSに投稿された写真から有名になったという。しかし、その渓谷までは極めて遠い道のりである。宿を取った街からすでに一時間近く車を走らせている。レンタカーを借りたのも、公共交通ではたどり着けないそこを何としても見たかったからでもある。
「ねえ、いま看板があったお店で休憩にしようよ」
素晴らしい旅行計画ではあったが、ドライバーが心もとない。四人のうち、運転免許を持っているのは私と
由菜に交替したくてもそうはいかなかった、頼みの彼女は繰り返すカーブと坂道にやられてしまい、助手席で苦しそうに胸を上下させている。とても運転を任せられるコンディションではなかった。
いま必要なのは休憩だ。私が気分転換するために、そして、由菜を休ませるために。
「お腹も空いてきちゃった。うどんがあるんだってさ」
提案に対して、私のすぐ後ろに座る
「ええ、お昼は滝を見てからにしようって」樹里はついさっきまで眠っていたから、目が覚めてからはかえって元気を持て余している。「こんな山の中の店なんて、ろくなもんじゃないよ」
「まあ、予定より遅いからお腹は減ってるけどね」樹里の隣に座る
さっき看板で見た店の名前を伝えたところ、「そんなの見たことない!」と柊子は悲鳴を上げた。
後部座席のふたりは、ガイドブックの地図とにらめっこを始めた。ふたりとも地図は苦手で、くるくると上下を入れ替えたり、GPSで位置情報を表示したスマートフォンと見比べてみたり。この様子では、今後免許を取ったとしてもドライバーは任せられないだろう。地図は、私も得意ではないけれど。
まもなく店が見えてきた。運転手の功労を盾に、問答無用で駐車場に車を乗り入れた。
ガイドブックにも載っていない小さなその店は、決してお洒落なところではなかったけれど、小綺麗で素朴な、感じのいいところだった。看板商品のうどんも、親しみを覚える優しい美味しさが体に沁みる逸品であった。
はじめ訝しんでいた樹里や柊子も、料理が届けられると途端に黙りこくって、無心でお腹を満たしていた。気分が優れない由菜の昼食は、店のおばさんがご厚意で出してくれたところてんが限界だった。
おばさんによると、滝まではしばらく歩かなければならないらしい。それでは由菜にとって酷だろうということで、食休みも兼ねて時間を置くことにした。運転席に座りっぱなしで腰がムズムズしていた私は、じっとしていられなくて店の外に出た。
最初は駐車場を無為に歩き回っていたけれど、ふと気になって、激しく水音の響くほうへと歩いていった。道路を渡り、ガードレールを跨げば、すぐに川が見えてくる。大きな木や背の高い草もなく、視界が開けていた。
「なんだ、ここも充分キレイ」
水量はやや多めだろうか。先週、毎日のように夕立があったから。でも、水はそれほど濁っていなくて、白く見える水しぶきが美しくもたくましい。狭い渓谷で水音が反響し、そよ風に揺れて擦れる木の葉の音と重なって、豊かな自然の声が私を包んでくれる。だんだんと、自分自身の感覚が嘘みたいに思えてきた。
そうだ、せっかくだから。
スマートフォンを取り出して、横長に持つ。広い液晶に景色が切り取られたのを確認して、シャッターのボタンをタップする。
ぱしゃり。
…………。
いまいち。
私はちょっと、写真が下手だ。ガイドブックの写真のようにはいかない。しばしば、実際に目にしたものよりも劣るものを切り取ってしまう。もし私が写真をSNSにアップしたとしても、ちっとも話題にならないだろう。もっとも、私のアカウントは他の人の写真を見るためにしか使っていないのだけれど。
「あ、いたいた。こんなところに」
高い声に振り向く。樹里がガードレールを乗り越えている。それに続いて、柊子も。
「ふたりも来てみて。ステキだよ」
そうなの? ほんと? ふたりも私と並んだ。
「ほええ」樹里が感嘆の声を上げる。
「すごいね、展望台でもないのに」柊子の反応も美しい光景を称えた。
ちょっと胸を張りたい気持ちになる。いままでになかった面白み。たぶん私は、二〇年も生きていながら、旅行というものの楽しさを知らずにいたのだろう。旅行の最中なのに、どうしてか、次またどこに遠出しようかと考えてしまう。
この旅行は、きっと思い出になる。
「はい、こっち向いて」
柊子の声に振り返ると、彼女の手の中で液晶が私たちの顔を写していた。とっさに表情をつくると、三人並んだ笑顔が一六対九のフレームで切り取られた。
「由菜とも一緒に撮りたかったな」
その名前を聞いて、はっと思い出した。非情にも、私は友のことを忘れて非日常のひとときを楽しんでしまっていた。彼女の体調について問うと、樹里が残念そうに眉を八の字にした。そうそう、それを伝えに来たんだった、と。
「それがね、まだ当分良くなりそうにないから、残念だけど滝は三人で見てきてって。おばさんが店で休ませてくれるみたいだよ」
写真たくさん撮って見せてあげないとね、と樹里は苦笑いした。
滝への道のりはちょっとした遊歩道になっていた。
といっても舗装がされているわけでもなく、獣道が人ひとりぶんくらい拡げられている程度。森の緑はまだ雨露が滴っていて、分け入っていくほど足元が濡れる。ぬかるんだでこぼこの坂道のために、旅の疲れはピークに達しようとしている。
「ああ、もう。車さえあれば楽に回れると思ったのに!」
一分に一度、樹里が弱音とも愚痴ともつかない不満を漏らす。ガイドブックには車での所要時間しか書かれておらず、まさかそこから一キロ以上悪路を進まなければならないとは思いもしなかったという。車は店の駐車場に停めたままだ。あの店がちょうど、この遊歩道への入り口のようになっている。
「まあ、そんな都合のいい話はないよね」と柊子。
「運転くらいしてから文句言いなさいよ」とは私。
遊歩道を進んで最初のうちは、互いに励ます言葉をかけあっていたが、いまではツッコミしか出てこない。優しい共感を期待していた樹里は大きく息を吐くと、しょうがないなあ、とでも言いたそうに、止めかけていた足を再び動かしはじめた。
首筋を大粒の汗が流れる。鬱蒼とした木々のおかげで不快な蒸し暑さがまとわりつき、差しこむ木漏れ日が突き刺すように眩しい。時折、鬱陶しく飛び回る虫を振り払うため、余計な熱量を消耗する。
すぐ脇を流れる水に飛び込んでしまいたい。
これだけの苦労をして、しょぼい滝だったら許さない。
いや、そうだったとしたらそれはそれで忘れられない記憶になる。
やがて水の落ちる音が大きく聞こえるようになってくる。足元も、人が踏み固めたのであろう、硬く乾いた土へとその質が変わってきた。目的地が目前であることを確信すると、私たちの手はなんとなく鞄を気にするようになる。美しい景色が楽しみで、習慣づけられた手がウズウズする。
まもなくだ、と思うとそれからが長い。時間の経過に対して心臓の鼓動が早すぎるからだろうか。早く、早くと心が急いていく。それでいてほっと落ち着いた心地でもあり、呼吸は深くてゆっくりだ。身体に疲れを感じない。
「はあ、ここだ」
それを目にして最初に口を突いて出てきたのは、感嘆ではなく、安堵や憩いのひと息であった。
白く冷たい幕が轟音をたてて落ちていく。滝壺の水を巻き上げる流れには力強さがあり、現実の水量よりもはるかに逞しく、勢いがあるように思える。夏の日差しを反射させて輝く姿は、まるで滝が光を集めてかき抱いているかのようだ。
荘厳なる姿に心を奪われる。でも、同時に少しばかりがっかりしている。この場所は所詮、人間の足で到達できる場所であり、私はここに至る前と同じように呼吸を続けている。遠く苦労して辿り着いた安堵と重なって、ちっぽけな私でも美しさの中に溶け込むことができているかのような感覚に落ちていく。
旅の感動を胸に刻み込む。
忘れられない思い出にするために。
しかし、感動はいつか消えてなくなる。持って帰ることはできない。手土産になる証拠が欲しい。私はさっきから鞄に添えられている手を動かして、スマートフォンを取り出した。横向きに構えて、自分の感動した風景を端的に捉えられる構図を探る。
このあたりか。
シャッターを切る。
少しブレちゃったかも。
「撮れた?」
樹里に声をかけられ、振り返る。
「うん、一応ね」
「じゃあ、ほら。今度はこっち」
そこでは、柊子と樹里が滝に背を向けて立って、その姿が柊子の持つ液晶に収められていた。はっとして私は身体を翻し、三人で顔を並べる。滝を背景としたうら若き三人の女子が写された、素敵な写真が完成する。
ぱしゃり。ぱしゃり。
立て続けに四、五回ほどシャッターが切られた。
「よし、こんなもんでしょ」
「あ、待って。あたし棒も持ってきてるから」
樹里と柊子も由菜の願いを叶えようとしているのだろう、目的地で楽しむ笑顔を次々と写真に残していく。楽しかった証拠を、ひとり残してきてしまった由菜に見せるために。そういえば私は、胸の奥から湧き上がる情緒に酔いしれて、私たちを待つ友人のことを忘れてしまっていた。
でも、証拠は手元にある。上手い写真ではないけれど、きっと伝わるはず。
「ちょっと、変な顔になってるよ」
「あ、うん。そうだった?」
「撮り直しね。こんな顔の写真、楽しくないよ」
柊子が見せてきた写真の私は確かに、ただひとり堅苦しい表情を浮かべてふたりと一緒に写っている。これでは滑稽な写真だ。代わって樹里がスマートフォンを構え、私は改めて笑顔を作った。
ぱしゃり。
撮影会は続いた。
「お、アルバム作ったの?」
頬をうっすらと赤らめた浴衣姿の四人は、楽しいおしゃべりを中断して液晶に顔を落としていた。長い夜に備える、静かなクールダウンの時間。
滝から戻ったころには由菜の体調が回復していた。宿に到着すれば四人一緒に食事をし、長風呂もしていた。そんな彼女は、樹里がトークアプリのグループでアルバムを作成したことに気がついた。
「みんなもアップしてね。由菜ともシェアしないと」
樹里の提案に、由菜は早く見せてと頷いた。
私も自分が撮影した十枚ほどの写真を指定してアップロード。あとは柊子の写真を待つが、彼女はまだ手を動かしている。
「ちょっと待ってよ。まだ良いのがなくて……」
私が変な顔をしていたせいか。
しばらくして数枚の写真がシェアされた。私と違って普段から撮影に慣れているふたりは、どのような写真を撮ったのだろうか。どれだけキレイなのだろうか。
試しに一枚開いてみる。三人の自撮り写真。
「…………」
私の撮ったものと何かが違う。私より上手? そういうことではない。確かにキレイなのだけれど、違和感がある。そう、自然ではない。ここに写されている自然は、どこか自然とは違っている。
明るい。鮮やか。ロマンチック。細かいところまではっきりしている。
理由は簡単にわかった。
加工してあるのだ。
「いやあ、やっぱり自然光だとキレイにまとまらないね」
柊子が愚痴を漏らすと、樹里も賛同した。
「あ、そうだね。いったいどうすればあの写真みたくキレイになるんだか」
樹里の発言に驚いて、彼女が撮った写真も確認した。柊子の撮った写真は自撮りばかりだけれど、樹里は何枚か風景だけを収めたものを残している。読み込みが終わって、ぱっと美しい光景が表示される。
やっぱり。
樹里と柊子の会話は続く。
あのSNSの写真はどうやって撮られたのか? 何をどう工夫すればあれだけキレイになるのか? アプリの差だろうか? 有料版? 時期は仕方がないとして、構図はその通りになっているのだから、どうにかして近づけることができるはず。
ああ、確かにこれは違う。
私の撮る写真とは明確に異なる。
ふたりは私よりも友想いで、そのかわり少しズレている。
私とは、写真に託す思いが違っていたのだ。
「明るさはもう少し低いかもね」私から嘆息が漏れようとしたそのとき、由菜が樹里と柊子の作戦会議に加わった。「ほら、明るすぎるとこのへんがくどいから」
「ほんとだ、すごい」樹里が賛同する。「元が良いからちょっとの工夫で映えるねぇ」
「あのユーザさんが使っていたの、無料版らしいよ」柊子は興奮が抑えきれないというふうに続ける。「あたしらでも充分バズれるかもってことでしょ?」
そうして三人は、わいわいと楽しそうに液晶を囲う。
私はそこに加わる気になれなかった。
…………。
私は心に決めた。
今度また四人で旅行することになっても、運転なんてしてやるものか。
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